ある日の記憶から<叢雲編 簒奪戦争前半>
――数多の願いが私の杯に注がれる。
願いは知らず知らずに彼を蝕み、混ざり溶け合いひとつになる。
争いのない平和な世界。他者に脅かされない平穏。血湧き肉躍る闘い。自堕落な生活。恐ろしい目に遭うことのない日常。無敵の肉体。苦痛のない生。惨たらしい殺戮。完璧な勝利。
無数の小さな願いは尽きることなく注がれる。溢れることなく受け入れ続ける。
強く願っていたはずの彼の想いは知らぬ間に曖昧になる。無数の願いが塗り潰していく。
矛盾を吐き、矛盾した行動を取る。
そうして彼は彼となった。
彼と無数の願いが混ざり合った何者かになった。
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ある日の記憶から<財布編 簒奪戦争後>
オレたちの世界の王が死んだことで始まった戦争。その最中にオレは生まれた。
最も古い記憶は、戦争が起きているとは思えないほど平和でのどかな日々。
だかその日常は何の前触れもなく崩壊した。映る世界は血と祈りと死と絶叫と理不尽に満ちた景色に変わる。
訳も分からず両親に手を掴まれひたすら逃げた。森の中へ逃げ破壊された廃墟に隠れ少しでも遠くへ。
逃げて逃げて逃げ続けて何ヶ月か経ったある日、戦争が終わったと知った。
終わらせたのは過去に英雄と呼ばれていた男だという。
これで追われる恐怖に怯える日々は終わる。前と同じような生活はできないけれど、貧しくても家族さえいれば幸せになれる。
そう思った矢先、両親が死んだ。
どこへ向かっても戦禍の跡が残っている。建物は崩れ地面は割れ人一人見当たらない。食糧と飲水はあったが、それもその日をしのぐ程度しかなかった。
ひたすらに歩いて街を目指す。何日も歩き続け精神と肉体の限界が近付いてきた時、崩れた建物の角から現れた二人組と出会った。
ようやく出会えた自分たち以外の生存者。今の状況から好転するかは分からないが、他の誰かと出会えただけで救われたような気持ちになった。
逆光ではっきりと姿が見えない。一人は人とは思えない大柄な体格、もう一人は人にしては背丈が高いということしか分からない。
「まだ生き残りがいたのか」
静かで機械的な声色で背丈の高い方がそう口にした。
「すみません、ひとつお伺いしたいんですけど、ここら周辺で被害がなかった場所ってどこか分かりますか? 私たち街へ向かってるんですけど、どこへ行ってもこんな状態でして……」
父さんが訊ねると、背の高い方は考え込んでいるのか、しばらく何も答えなかった。
そして何の前触れもなく父さんと母さんの首が落ちた。
オレは目の前で起きたそれを理解できずただ呆然と立ちつくす。
「無駄なことを……」
「別に構わないだろう? それにこれは退屈しのぎの実験だ。無駄ではない」
「好きにするがいい。だが目的を忘れるでないぞ」
「分かっている」
二人組の声が遠くに聞こえる。それなのに何故かはっきりと言葉が耳に届いている。
足に何かが当たり下を見ると、転がってきた顔と目が合った。つい数秒前まで父さんと呼んでいた生首に恐怖心を抱くと共に何が起きたのかを理解した。
殺される。死にたくない。それだけが頭の中を埋め尽くす。
「その表情、実に愉快だ」
背の高い方が声を震わせながら言った。
今すぐこの場から逃げだしたいのに足が動かない。
背の高い方がオレの頭を掴み、押し倒して胸を踏み付ける。そして首筋に針を刺し何かの液体を流し込んだ。
声を出すことも涙を流すこともない。何をされたのか、何が起こるのかも分からない。ただ目の前に迫る死に抗えずにいた。
「怯える必要はない。死にはしないのだから」
背の高い方の姿がはっきりと見える。血に汚れた白銀の鎧を全身に纏い、赤い布切れのようなボロボロのマントを羽織っている。
そしてその隣には大柄の化物が立っていた。黒衣に身を包み、その隙間からは獣のような姿が見え隠れしている。
「……君に期待はしていないが、失敗作にならないことを願っているよ」
背の高い方はそう言うと背を向けた。
その場を立ち去る二人を、オレは何もできずただ見ていることしかできなかった。
あの日、オレは何をされたのか。何故殺されなかったのか。オレに生きている意味があるだろうか。分からない。
何の力もなかったあの頃、両親を殺されても抵抗ひとつできなかった。あれからずっと失意と後悔と憎悪の毎日を送っていた。
だが心の奥にある感情がオレの生きる理由になった。小さな火種だったそれは日に日に大きく燃え始めた。
――必ず復讐してやる。
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主人公の叢雲に関しては「本編の彼がどうしてあのような性格になったのか」という部分だけをまとめました。恐らく本編でさらに詳しく説明される日が来ると思います。
そして主人公と共にいる財布ですが、彼に関しては復讐の理由を書きました。ただ、これに関しては恐らく本編で語ることはないと思うのでここに載せました。