エピローグ
青々とした道を歩いていたマウマウが、不意に足を止めた。
すぐ後ろを行くニンバムと狩人の少女・シエロも、何事かと視線を走らせる。
「おお、あれって――山にいた狼達じゃない?」
マウマウが指差す先には、若草で覆われた丘の上を並んで走る、真っ白な群れが見えた。
狩人達の集落付近を縄張りにしていたホワイトウルフ達が、いつのまにか随分と麓まで降りてきている。
狼達の体から、“
白い群れは軽やかに丘を越え、一匹、また一匹と姿を消してしまう。
どうやらもう、むやみに周囲の生き物を襲う心配はなさそうだ。
杖をついたまま、ニンバムもどこか微笑みながらその群れの姿を眺めた。
「もうこんなところまで、降りてきてたんですね。元々、この一帯が彼らの縄張りだったのかもしれません」
「こうやって緑の中で見ると、白がくっきりとしていて綺麗だねぇ。狼達も山が暖かくなってなんだか楽しそうに見えるよ」
嬉しそうに笑うマウマウに、ニンバムも「そうですねぇ」と笑みを返す。
談笑する二人の姿を、シエロもどこか肩の力を抜いた笑みを浮かべ、眺めていた。
マウマウとニンバムの体には、まだ所々に包帯や治りかけの傷跡が見える。
無理もないだろう。
なにせ、あの“氷の魔女”との激闘から、まだたった四日程度しか経過していないのだ。
ありったけの薬を使ったということ以上に、やはりニンバムが身につけた“治癒魔法”の効力には、狩人として生きてきたシエロは脱帽するほかなかった。
“氷の魔女”・イシスが山にかけていた“呪い”は消えた。
イシスの魂が霧散したことで、山全体を覆っていた“吹雪”は跡形もなく消え去り、今までと変わらないリーリアの大地が戻ってきた。
魔女の魂から解放された膨大な“
再び歩き出しながら、どこか嬉しそうにシエロが告げた。
「ホワイトウルフは本当はこの山を守ってくれる“戦士”なんだよ。だから狩人達は、いつの時代も彼らと一緒にうまくやってきた。そう、父ちゃんが言ってたんだ」
「へえ~。じゃあ、これからはシエロ達の味方になってくれるんだね。そりゃあ、心強いなぁ」
けらけらと笑うマウマウを見ていると、自然と笑みが浮かんでしまう。
ニンバムも優しく笑いながら、改めて周囲に広がる青々とした光景にため息をついてしまった。
「それにしても、本当に驚かされますね。ここに来たときは一面が銀世界でしたが、本来はここまで自然豊かな場所だったとは」
「だねぇ! これならもう、私も迷う心配もないよぉ。白一色だと、目印がなくって分かりづらいったらありゃあしないからさぁ」
マウマウの一言に、ニンバムも「そうですねぇ」と頷いた。
二人は本来、来た道を戻っているはずなのだが、かつてこの山に辿り着いた時とは何もかもが変わってしまっている。
これこそが、リーリアという大地のあるべき姿なのだろう。
談笑を続けながら歩き続けると、分かれ道へと差し掛かる。
ぼろぼろになり、傾いた木の看板を見つけ、ようやくシエロが足を止めた。
「ここを左に進んで、谷を越えればその先が“鉄国”・ハンドレアだよ。二人だったらきっと、夜までに辿り着けるんじゃあないかな」
マウマウとニンバムはようやく振り返り、こちらを見上げる小さな狩人に頭を下げた。
風によって少女の短い髪の毛がふわりと揺れる。
“吹雪”が消えたこの野山では、もう外套を目深にかぶる必要もない。
「本当にありがとうございました。すみません、最後の最後まで案内してもらってしまいましたね」
「これくらい、全然。二人が私達にしてくれたことに比べたら――お礼を言わなきゃあいけなには、私達なんだからさ」
少女の一言に、マウマウとニンバムは互いの顔を見合わせてしまう。
だが、やはり二人は肩の力を抜き、笑った。
マウマウは真っ白な歯を見せながら、つい先程――狩人の里を出てすぐの光景を思い返す。
「まさか、里の人達全員に見送られるとは思わなかったなぁ。狩人さんもそうだけど、あんなに大勢があの集落にいたんだねぇ」
「ですねぇ。色々と“お土産”もいただいてしまい、ありがたい次第です」
ニンバムはパンパンになった背中の鞄を見つめ、その重みに苦笑してしまう。
里を後にしようとした二人に、感謝の意を込めて住人達はあれやこれやと“餞別”の品々を渡してくれた。
ここでどこか、シエロの表情が曇る。
わずかな寂しさを見せながらも、少女は二人に問いかけた。
「本当にもう、行っちゃうの? どうせならもう少し、ゆっくりしていってもいいのに……ダビィ達も『宴会だ』ってはしゃいでたんだよ」
山を救ってくれた“英雄”二人に、狩人達は大宴会を催そうと計画立てていたようだが、二人は歩けるまで回復してすぐ、里を出ることを決意した。
どこか苦笑しながら、マウマウが視線をシエロに合わせたまま頷く。
「本当は私達も、もう少しいよっかなって考えたこともあったんだ。けど、私達は外から来た人間だし、ここに来た“目的”は果たせたわけだからさ。だから、いつまでもお世話になり続けるのもよくないな、って思って」
シエロは一瞬、マウマウに反論しようと言葉を探していた。
迷惑などではない――と、彼女を引き留めようとしたのだろう。
しかし、マウマウは肩の力を抜いて続けた。
「なにより――なんだか凄く、気持ちが晴れやかなんだ。あの“魔女”を倒して――小さい頃から続いた私自身の“呪い”が解けて、ようやく本当の意味で前に進むことができた気がするんだよ。だからまずは、“報告”しにいきたいんだ。私の“家族”に」
シエロが息をのみ、目を見開く。
驚く少女に対し、マウマウは屈託のない笑みを浮かべていた。
“呪い”が解けたのは、リーリアという大地だけではない。
目の前に立つ二人の“獣人”が背負ってきた過去も、あの魔女の消滅と共に解き放たれたのだ。
ここに立つ三人は、ようやく本来あるべき自分の“道”を歩むことができるようになったのである。
シエロはどこか寂し気な眼差しは浮かべていたが、それでもそれ以上、マウマウを引き留めはしなかった。
彼女は「そっか」と納得し、大きくうなずいて顔を上げる。
「本当にありがとう。私、絶対に二人の事、忘れないよ。いつまでも、いつまでも――二人の事、色んな人に伝えていく」
彼女の眼差しに、マウマウ、ニンバムも力強く頷く。
“賢人”は杖を携えたまま、柔らかな波長で告げた。
「リーリアに戻ってくることがあれば、是非また、里を訪ねさせていただきますね。その時は焚火を囲んで、語り合えたらと思います。お互いが歩んできた、沢山の話を」
物悲しさはあった。
だがそれ以上の暖かな感情が、三人の気持ちを震わせる。
野山を包んでいた一つの“呪い”が終わった。
そしてここからようやく、それぞれの“道”が始まっていく。
その事実が、三人の鼓動をそれぞれのリズムで、強く高鳴らせていった。
マウマウとニンバムは少女に別れを告げ、目的地に向かって歩き出した。
歩きながら何度も、幾度も振り返ってみたが、シエロは二人の姿が消えるまでじっとその場から動かず、マウマウが手を振る度に、力いっぱい応えてくれる。
二人の姿が見えなくなっても、しばらくシエロは立ち尽くしていた。
山を吹き抜ける青々と香る野風を全身に受け、彼方を見つめ続ける。
その表情から笑みが消えることはない。
幼い狩人の胸中では、いまもなお小さな鼓動が力強く鳴動していた。
わずかに抱いた物悲しさを振り払うように、マウマウとニンバムは突き進んでいく。
のどかな風景を眺めながら歩く中で、不意にマウマウがその問いを投げかけていた。
「ねえねえ。ニンバムはこれから、どうするの? これから行く――“鉄国”だっけ――そこで、やりたいことがあるの?」
「ああ、いえ……実のところ、何か目的があるわけではないんです。僕にとってイシスは、“人間”に戻るための術を知る、唯一の手掛かりでしたからね。けれど、彼女もその“秘術”のことは知らなかったようですし、全て振り出しに戻った、という形です」
困ったように笑う“山羊”を見て、“鼠”の目が丸くなる。
マウマウは改めて、まじまじと隣を歩くローブを着た彼を見つめた。
マウマウは過去に決着をつけ、新たな一歩を踏み出している。
だが一方で、まだニンバムの体には忌々しき過去の残滓が色濃く焼き付いたままだ。
「戻る方法、かぁ。難しそうだねぇ。見当もつかないや」
「本来はあるべきではない、忌むべき技術ですからね。ですから、ひとまずは大国に身を寄せて、そこに集まってくる情報でも気長に集めてみようかと思います。幸い、時間はたっぷりありますから、焦らずやっていきますよ」
ニンバムの言葉を受け、マウマウはしばし前を向いたまま「うぅん」と悩んでいた。
“賢人”が首をかしげる中、やはり唐突に彼女は笑みを浮かべ、彼を見つめる。
「じゃあさ。私も一緒に、探してあげるよ! ニンバムが“人間”に戻る方法――ってやつをさ!」
「え……ええ?」
唐突な申し出に、ついにニンバムは足を止めてしまった。
唖然とする彼に対しマウマウはくるりと振り返り、歯を見せて笑う。
「いや、そんな……悪いですよ、そんなの。マウマウさんだって、故郷に帰らないと――」
「もちろん、家族のお墓参りには行くつもり。でも、それが終わったら私だって暇なんだ~。だから、一緒に探そうよ。一人より二人の方が、きっとはかどるよ?」
「そうはいっても、何分、宛もないわけで……そもそも、あるかどうかも分からない、無謀な“賭け”みたいなものですから……」
どこか言い淀むニンバムに、それでもマウマウはずずいと距離を詰めていく。
マウマウを巻きまないようにと苦心するニンバムの気遣いを、マウマウは堂々と無視して歩み寄る。
彼女が持つ、底抜けの純粋さを胸に。
「だって、面白いじゃない。どこにあるかも分からない、“魔法”を探す旅なんてさ! それに、きっと見つかるよ。だってニンバムは“人間”からその姿になったんだからさ。だったら逆だってできる――私、魔法とか全然知らないけど、きっとそうだと思うよ」
なんとも無責任で突き抜けた理論に、ニンバムの肩の力が抜けてしまった。
だが、けらけらと笑う彼女の姿を見ていると、なんだかこちらまでおかしくなってきてしまう。
もう何度、その思いを抱いたか分からない。
白銀を行く中で幾度となく抱いた感情が、やはりニンバムの胸中に湧き上がってきた。
本当に、不思議な人だ――丸い目をぱちくりとさせながらこちらを見るマウマウに、ニンバムは柔らかに笑う。
「それじゃあ、もうしばしご一緒させていただきますかね。ひとまずは私も、マウマウさんの故郷にお邪魔させてください。それから先は――その時、また考えましょうか」
「いいね、いいねぇ。じゃあ、行こう! まずはその“鉄国”――だっけ? そこまで頑張ろう!」
言いながらも、マウマウは堂々と胸を張って足早に歩き始めた。
ニンバムもふっと笑い、少しだけペースを上げてそれに続く。
きっと今までも彼女は、こうして旅をしてきたのだろう。
一つの目標に辿り着き、また次の目標へと止まることなく歩き続けたのだ。
その跳ねるような軽快な一歩に、勇気が湧いてくる。
進む先がどれだけ未知に溢れていても、どうにかなると根拠のない愉快さすら湧き上がってきた。
白い体毛に覆われた、細長い“尾”を揺らしながら歩くマウマウに、慌ててニンバムは続いていく。
これから待っているであろう“珍道中”に思いを馳せながら、それでもニンバムは先程の自身の言葉を思い返していた。
なにせ、時間だけはたっぷりあるのだ――吹き抜けた追い風の温かさを感じながら、自然と一歩が出る。
青々と続く野原のど真ん中を、“鼠”と“山羊”は他愛のない談笑を繰り返しながら、どこまでも軽快に進んでいった。
ビースト・テイル - 呪われし獣と、氷の魔女 - 創也 慎介 @yumisaki3594
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