最終話 焔宿す“獣”
強大な魔力を打ち砕くためには、どうするべきか――様々な答えこそ浮かぶが、それでいてニンバムが導き出した答えはシンプルだった。
波紋を打ち消すには、より巨大な波を起こせばいい。
強力な魔力に匹敵する新たな魔力を、別の角度から叩きつける。
“氷の魔女”が持つ謎を前に、そんな単純明快な解決策に辿り着き、二人は今日、この場へとやってきた。
だが、イシスがみすみす、そんな“小細工”を許すなどとは考えていなかった。
ニンバムが特大の術式を練り込んだとすれば、間違いなくそれを察し、確実に防御なり回避を行ってしまうだろう。
渾身の一撃を外した時、もはやニンバム達に彼女を打ち倒す牙は残っていない。
チャンスは一度きりだった。
ニンバムが練りに練った術式を、確実にイシスの肉体目掛けて叩き込まなければいけない。
そのためにはいかに素早く、いかに最短距離でそれを成し遂げるかが、作戦の“キモ”だったのである。
それ故に二人は、たどり着いた。
山小屋の中で焚火を囲み、互いの持つ限られた力と技を目の前に並べ、答えが出るまでひたすらに話し合った。
冷たさが幾度となく隙間風に乗って襲い掛かろうとも、自身の肉体に宿った熱を頼りに互いの眼をしっかりと見つめ、思いを混ぜ合わせ、納得がいくまで言葉をぶつけ合った。
選び取ったその“手段”は、無謀としか言いようのないものだった。
ニンバムの肉体に残った“
自身の体すら焦がす業火を身に纏いながら、肉体を“媒体”として魔力を目の前のイシス目掛けて叩き込む。
そんなことを試みる人間などいない。
一瞬でも“
“装甲魔法”が解除されれば力そのものが霧散してしまうし、もし火力をいたずらに上げれば、媒体となっているマウマウの肉体が先に燃え尽きてしまうだろう。
ニンバムは“つらら”によって肩を貫かれ、壁に貼り付けにされたまま、それでも歯を食いしばって彼方を睨みつけ続ける。
激痛と出血により意識が遠のき、何度も景色が傾いた。
だがそれでも、血がにじむほどに強く“牙”を嚙み合わせ、今もなお前を向く“彼女”に意識を集中する。
“山羊”が受け渡したその力と思いを、“鼠”はしかと受け止める。
全身を焼かれながら、呼吸すら止め、彼女もまた気を絶しそうな苦痛をしっかりと抱いたまま、それでも前を向く。
まっすぐ打ち放った火炎を纏う右拳が、イシスの右脇腹に刺さり、小さな爆発を引き起こした。
氷を纏う魔女の白い肌が一瞬で焦げ、肉が沸騰し、骨が砕け散る。
だがそんな“器”の損傷以上に、背後に浮かび上がっていた巨大な白い“影”が揺らいだ。
“魂”を肉体から分離し、“魔力”そのものと一体化した真なるイシスの顔が、大きくゆがむ。
その悲鳴を縫うように、もう一撃が走った。
弧を描くように走ったマウマウの左蹴りが、火炎の尾を引きながら顔面に突き刺さる。
魔女の頭ががくりと揺らぎ、またも背後の“影”が崩れていく。
効いている――二人が攻撃の成果を実感する中、ついにイシスも動いた。
彼女は周囲の“城”が纏う魔力を一気に引き出し、それを“器”目掛けて流し込む。
腕を一振りした時には、彼女のすぐ脇に巨大な“氷の鎌”が生み出されていた。
イシスはそれをありったけの憎悪と共に、躊躇することなく薙ぎ払う。
「小賢しいのよ、この――害獣!!」
ごおと大気が唸り、巨大な一刃がマウマウに迫る。
しかし、全身に火炎を纏った彼女は、回避するそぶりなど見せない。
向かってくる氷目掛けて、マウマウは右の手刀を真っすぐ叩きつけた。
マウマウの“力”とニンバムの“魔力”が相乗効果を生み出し、イシスの凶刃を真っ向から堂々と粉砕してしまう。
そのあまりにも予想外の結果に、イシスの動きが止まった。
熱波が氷を水蒸気に変える中、なおもマウマウは動く。
手刀の勢いを殺さないまま、彼女は高速で回った。
肉体をひねり、幾度も加速を繰り返したその後ろ回し蹴りが、イシスの右肩に躊躇することなく炸裂する。
どむ、と城全体が揺れた。
炸裂した肩が砕け散り、イシスの細く美しい腕が宙を舞う。
常軌を逸した威力に、思わずイシスは切断され黒焦げになった自身の腕を見つめてしまった。
もう一撃――マウマウが歯を食いしばって踏み込むが、足がふらついてしまう。
度重なる体力の消耗と無酸素状態で動き続けた代償が、彼女の足を重く絡めとってしまっていた。
その一瞬のスキを、イシスは逃さない。
片腕を失ってもなお、彼女は――器の背後の“氷の魔女”が大きく手を広げ、魔力を集中した。
瞬間、そこら中の空間におびただしい量の“武器”が生み出される。
容易に百を超えるそれが、なんら迷うことなく中心にいるマウマウ目掛けて発射された。
迫ってくる狂気の群れに、マウマウは顔を上げる。
なおも呼吸の止まった状態で、それでも彼女は体を持ち上げ、構える。
逃げることなどしない。
守ることも、もう絶対にやらない。
マウマウは腰をしっかりと据えたまま、向かってくる刃の群れを固めた拳で迎撃していった。
炎が走り、氷と交わり、溶かし、穿ち、消し飛ばす。
何十、何百という攻防を前に、イシスもまた魔力を集中し、押し込んでいく。
ついには武器としての造詣すら作らない、武骨な“氷塊”が生み出され、マウマウへと押し寄せた。
炎で包まれていたマウマウの肉体が氷の群れに押しつぶされ、見えなくなる。
圧縮されていく彼女目掛けて、イシスは追撃の手を弱めない。
一撃、また一撃と氷の塊を生み出し、怨敵を圧殺すべく力を込めていく。
ついに“氷の魔女”のおぞましい雄叫びが響き渡った。
「潰れろ――潰れろ潰れろ潰れろ潰れろ潰れろ潰れろ潰れろォォオ!! この小汚くて暑苦しい、害獣――」
腕を振り回し、なおも氷塊を叩きつけ続けるイシス。
壁際に磔にされたニンバムは、さらに渾身の力を込めた。
“賢人”の目から血が流れ落ちる。
許容量を超えた“魔力”の操作による反動が、彼の肉体を確実にむしばみ、壊し始めていた。
それでも出力を抑えなどしない。
ただひたすら、氷の奥底にいる“彼女”を信じて術式を練り続ける。
イシスの方向を跳ねのけるように、大気が揺れた。
押し固められ圧縮された巨大な氷塊が、内側から跳ねのけられ、砕け散る。
その飛び散った輝きの中に――“焔”が揺れていた。
先程よりも強く、激しく燃え滾るそれは、マウマウの表面にある一つの“像”を作り出す。
頭部や肩、肘、踵、そして背中から無数に飛び出した長い角。
吊り上がった眼と、ばっくり裂けた牙の並ぶ口。
そして、太く、すらりと伸びた紅蓮の“尾”。
火炎そのものが生み出した、“獣”がそこにいた。
その炎の奥底にいる“彼女”とイシスの眼差しが、交わる。
離れていてもなお、痛いほどの熱が伝わる。
その物言わぬ熱さから、イシスは無数の“思い”を感じ取ってしまった。
それは憤怒だった。
マウマウの物だけではない。
彼女が今日、ここまで出会ってきた人々が持つ、無数の“怒り”がそこにはあった。
獣の背後に、同じようにこちらを睨みつける無数の影が見える。
今まで自己満足のためにイシスが奪い続けてきた“それら”の思いが、たった一人の“獣”を通じて、流れ込んできた。
イシスが悲鳴を上げる。
だがそれを決して許さないように、目の前の“業火獣”が吼えた。
その身に託された余りある“憤怒”を雄叫びに変え、マウマウが襲い掛かる。
閃光の如き速度で放たれた右拳が、イシスの顔面を弾く。
彼女の顎が再生するよりも早く、左の拳が脇腹をえぐり、砕き割った。
一歩を踏み出し蹴りを、また一歩を踏み出し拳を、右から左から、縦横無尽にイシスの周囲を駆け回りながら叩き込み続ける。
もはやそれは“格闘技”などと呼べる代物ではなかった。
考えるのではなく、肉体に宿った本能に従うように、ただただ自由に駆け、そして願うままに放つ。
そんな“獣”だからこそ成し遂げることができる、型破り極まりない体術の応酬であった。
突き、連打、前蹴り、回し蹴り、手刀、貫手、踵落とし、肘打ち、打ち下ろし――炸裂音が次の一撃で上書きされ、瞬く間に塗りつぶされる。
焔の“獣”が跳ねる度、確実にイシスの体が壊れ、潰れ、砕けていく。
拳、蹴り、拳、拳、拳、蹴り、蹴り、拳、蹴り、拳――一撃のたびにニンバムは意識を集中し、確実に力をコントロールする。
耳や鼻からも血が溢れだし、足元を染めた。
それが凍り付いてもなお、意識を反らすことなど絶対に許しはしない。
打撃に次ぐ打撃。
体術に次ぐ体術。
破壊に次ぐ破壊。
氷で作り上げられた城の中心で、炎を纏った“怪物”が暴れていた。
魂そのものを損傷したせいで、城の壁や天井、床にまでひびが入りはじめる。
イシスはもはや、戦おうという気など失せていた。
どう変形され、どこから襲いくるかも分からないその人智を越えた“暴”の嵐に、今まで作り上げてきた自尊心が崩れ去っていく。
肉体を捨て去った時から既に、痛みなどは感じなかった。
だからこそ彼女はなにも恐れず、己には向かってくる弱者を相手に、常に強者として立ち振る舞い続けたのだ。
そんな彼女に初めて、“それ”の気配が近付いてくる。
一撃が肉体をゆがめる度、自身の“魂”が削り取られていくのが分かった。
その喪失感と共に一歩、また一歩と“それ”は着実にすぐそばへとやってくる。
とっくの昔に、マウマウもニンバムの限界を迎えていた。
だが二人はそれでも、自身がこの場でやらねばならないことを、最後の最後まで完遂すると決め、前を向き続ける。
呼吸が止まろうとも、痛みが肉体をえぐろうとも、まるで気にすることなく動き続ける。
彼らもまた己の“魂”だけを火にくべる。
どれだけ痛みを負おうとも、どれほどの恐怖を抱こうとも。
自分達を縛り続けた、“呪い”を解くために。
マウマウが地面を蹴り、高らかに飛翔した。
砕け散り宙を舞う氷の群れを突き破り、“獣”はイシス目掛けて襲い掛かる。
こちらに向かって落ちてくるその姿に、ついにイシスは悟る。
目の前の存在がもたらす“それ”の正体が、今ようやくはっきりと分かった。
だからこそ、弾かれるようにイシスは腕を持ち上げ、たった一本の“つらら”を作り出し、打ち放つ。
それは、目の前の“獣”が生み出す“それ”から逃げるための、生存本能ゆえの行動だった。
死にたくない――生物としての純粋な闘志を込め、イシスは迷うことなく落ちてくる“炎”を穿つ。
“氷の魔女”が放った一矢はまっすぐに飛び、落下してくるマウマウの腹部へと深々と突き刺さった。
膨大な魔力を帯びているがゆえに、そのつららは決して溶けない。
だが、一撃がその身を貫いたにもかかわらず、イシスは呼吸を止めてしまう。
もう“獣”は止まらない――燃え盛るマウマウが落下し、イシスの頭部を両手で掴んだ。
炎が彼女を焼き尽くす前に、残るすべての力を込めて、動く。
全身全霊をかけた“頭突き”が、真正面からイシスの頭部を砕いた。
魔女の頭が弾け、ひびが“器”の全身へと走っていく。
渾身の一撃が、イシスの“魂”そのものを打ち砕いた。
白い“像”がばらばらに砕け散り、大気に強大な波を生む。
衝撃波は周囲に散らばっていた氷を全て吹き飛ばし、塵へと変えてしまった。
ようやく、マウマウを包んでいた“炎”が消えた。
ニンバムが生み出したありったけの“魔力”が散り、彼もまた掲げていた腕をがくりと下ろす。
黒焦げになったマウマウの目の前には、もはや誰もいなかった。
だが“主”が消え去ったことで、周囲の景色にも変化が起こる。
城の至る所にひびが走り、崩壊が始まった。
“魔力”が散り、生み出されていたものが全て無へと帰っていく。
その姿を、マウマウは膝をつき、必死に呼吸を繰り返しながら眺めていた。
壁が崩れ、床が壊れる。
周囲を包んでいた“氷”は瞬く間に解けてしまい、太陽の熱で蒸発してしまった。
まさに一瞬の出来事だった。
あれほど巨大で荘厳だったはずの“城”が、気が付いた時にはみすぼらしい廃墟へと変貌してしまっている。
“魔力”によって生み出された装飾が引きはがされ、ありのままの戦場跡がそこには広がっていた。
雪が止み、熱が野山を走る。
真っ白に彩られていた山の風景に、青々とした緑が瞬く間に戻ってきた。
外で戦っていた“狩人”達も、突然の事態に唖然としている。
彼らは消え去った城の跡地に残る二つの影を見つけ、慌てて駆け寄ってきた。
だがそんな彼らより先に、マウマウはふらふらと歩き、倒れている“彼”に歩み寄る。
青々とした若草の絨毯の上に寝転ぶニンバムは、傷だらけのまま、それでもかすかに開いた目でマウマウを見つめた。
力なく、ボロボロになったまま、それでもニンバムは彼女を見て笑う。
「マウマウさん……ひどい、火傷だ……ごめんなさい、僕がもっと……うまくやれれば、良かったんですが……」
「何言ってんのさ。ニンバムがきちんとやり遂げてくれたから、“真っ黒焦げ”程度で済んだんだよ。ニンバムこそ、よくそこまでボロボロになって、頑張ったねぇ」
「そう、ですね……“気合い”とかそういうのは、好きではなかったんですが……なんだかちょっとだけ、分かった気がします……」
肩を揺らして笑うたびに、ひどく全身が痛んだ。
だがそんな激痛を抱いてもなお、二人の目は自然と頭上に広がる空へと向けられていく。
もう吹雪はどこにもない。
どんよりとした雲が消え、そこには土地本来の突き抜けるような晴れ空が広がっている。
火傷まみれのまま座り込み、マウマウは「はあ」とため息をついた。
「こんなに、綺麗な場所だったんだねぇ。“冬”だったのが嘘みたいだよぉ」
「ええ、本当に。僕も初めてですよ。こんなに暖かくて――優しい風景に出会ったのは」
山の頂から望む絶景の中には、冷え冷えとした“白銀”は残っていない。
きっとこれから、冬眠していた動物達が目覚め、活気を取り戻した植物達が芽吹き始めるのだろう。
再びやってきた野山の“春”を前に、やはり二人は笑う。
傷付き、跳ねのけられ、どれほどみすぼらしく汚れようとも、そこにはいつもと変わらない二人の笑顔があった。
降り注ぐ太陽の光が、二人の肉体を包み込む。
“炎”のそれとはまるで違う、優しくて柔らかな温もりに抱かれた。
駆け寄ってきた一段の中から、狩人の少女・シエロが二人の名を呼んだ。
陽光の力に後押しされ、二人は彼女を見つめ手を振る。
痛々しい二人の姿に少女は絶句するが、それでも体を包むぬくもりと、目の前に並ぶ二つの笑みを前に、全てを悟る。
長き“冬”に耐えてきた少女はようやく外套を脱ぎ捨て、生まれ故郷の風を肌で感じていた。
少女の目の端に、きらりと輝く雫が浮かぶ。
シエロはそれをこぼさないように必死に笑みを作りながら、戦い抜いてくれた二人の“獣”に告げた。
ありがとう――目の端に浮かんだ涙が、野山の風にさらわれ宙を舞う。
きらりと輝いたその光の粒は、青々とした香りの中に溶け、消えていった。
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