俺の同居人はスパイ兼希望です!

@arikawakotaro1

第1話 そのロシア語、危険につき

母の口癖は、「産まなきゃよかった」だった。

父は機嫌が悪いと俺を殴った。

祖父母は俺を見ると決まって眉をひそめた。

小中学校のクラスメートは俺をいじめるか、あるいは嘲笑った。


こんな人生を歩んでいたから性悪な人間になったのか、性悪な人間だったからそのような扱いを受けたかは分からない。

確実に言えるのは、岐阜の地に薄汚い高校生が一匹生息しているという事だけだ。

中学校を卒業して、住み慣れた浜松を離れ岐阜の地で暮らし始めたのは、自分を取り巻く環境から逃げ出したい思いがあったからだ。それと、微かな希望も。


だが、結局何も変わらない。長良川の近くにあるにも関わらず岐阜県立木曽川沿い高校というふざけた名前の高校で過ごした1年は、お世辞にもいいものと言えなかった。

友達らしい友達もできず、親から送られてくる僅かな仕送りで過ごす生活は、今まで以上に苦痛かもしれない。でも、それでも俺は日々僅かな希望を抱いて朝日を目にしていた。

大抵それは希望のままで終わり、暗澹たる気持ちで床に入る。1年間同じことを繰り返しているうちに希望を抱く自分が馬鹿らしくなり、今ではなんの希望も持たないようになった。

ここしばらくはそれでも比較的楽な生活をしていた。春休みだから、誰とも会う必要などなかったからである。

「学校行きたくねえ」

だが、それも昨日までである。今日は始業式だ。

2年生になったとて生活が変わるわけでもないのは、目に見えていた。

だが、行くしかない。もともとゴミみたいな自分が不登校になり、もっとみすぼらしくなるのはいくら地の底を這っている俺でも、避けたい未来だった。

学校に行かせまいとするような重い扉を倒れこむようにして押して、俺は外の世界に身をさらした。


こんな俺を嘲笑うかのような快晴の空に嫌気がさす。

鍵をかけて歩きながらスマホを取り出す。

『Погода сегодня солнечная(今日の天気は晴れです)』

スマホがロシア語でそう告げた。

こんな俺にも出来ることがある。それがロシア語である。唯一優しくしてくれた叔父は大学でロシア語を教えていた。叔父が亡くなった後も叔父との繋がりを求めるという意味で、叔父が教えてくれていたロシア語を学んでいたのだ。

俺はその音声を聞きながら自分の不甲斐なさを笑った。英語ができる奴がいても、ロシア語ができる奴はこの日本にはあまりいないだろうに、その希少価値を持ってしても教室の隅で本を読んでいるコミュ障の男子よりも酷な扱いをされる。最早笑うしかない。

バス停の前で歩みを止めてスマホをかじりつくように見る。

特に用はないが、人に話しかけられるリスクを少しでも減らしたいが故にスマホを指で適当にいじる。

『岐阜市役所前』

バスが止まると億劫そうにそれに乗り込んだ。木曽川沿い高校へは20分ほどだ。

市役所前からバスが動いて暫くすると、橋の上に差し掛かった。下に見えるのは長良川である。

「木曽川なんて関係ねえじゃん」

俺……古田幸次郎は毎日この橋の上で悪態をつく。まるでこの川が全ての元凶であるかのように。


「同じクラスだぜ。よっしゃー!」

「エリカもいっしょ?今年もよろしく」

学校の敷地内にあるクラス分けが張られた板の前には、人だかりができていた。

(クラス分け見たならさっさとどけよ)

俺はそう思いながら結局口にはできずに人が去るのを待つ。

やがて始業式の時間が迫ってくるとようやく人ごみが捌け始めた。俺はため息をつきながら、それでいて少し急ぎながらクラス分けに目を凝らした。

「2年4組」

名前を見つけてクラスをぽつりと呟く。何となく自分の周りの名前に目を通していくと、ひと際目を引く文字列があった。

「アンナ・アレクセーエヴナ・四条?」

誰だこいつ。

関わることなどないかもしれないが、名前のインパクトだけでいえば興味を引くには充分だった。

僅かな興味を胸に抱きながら、チャイムが鳴る校内を歩み始めた。


「幸次郎……初日から遅れるとはいい度胸してるな」

担任は強面の体育教師の斎藤だった。担任は外れだな、なんて思いながら頭を下げて教室に入る。

クラスメイト……1年間苦を押し付けてくるであろう人間たちは小馬鹿にしたように笑っている。

相手にするのも気が滅入るので、さっさと自分の席に着く。

俺の席は幸いと言うべきか、窓際の一番後ろの席だ。なおも斎藤は俺を睨んでいたが、席に着くのを見届けると、名簿に目を落とした。

「配布物を配る前に……転校生の紹介をする。入れ」

ガラガラ、と教室の前の扉が開いた。長い銀髪に、すらりとした体型、それでいて整った顔立ち。

「アンナ・アレクセーエヴナ・四条です」

外見からは想像もつかないような、流暢な日本語が彼女の口から発せられた。

一瞬の沈黙の後、盛大な拍手が沸き起こった。その拍手に混ざって

「めっちゃ可愛い」

「俺のタイプのど真ん中だわ。行っちゃっていいか?」

などの浅ましい男子の会話が漏れ聞こえてくる。

猿かよ、マジで。そう、俺は心の中で毒づいた。

内心で名前も知らない、何なら顔もあまり見てない男子に暴言を吐く。

拍手が終わるまで律義に立っていたアンナは、空いている席に座った。と言うか、間隣である。

机に肘をついて外の景色を眺める。校庭に植えられた桜が、僅かに左右に揺れている。

早く終わらねえかな、と心の中で呟いた。

学校に来たばかりだが、早くも帰宅したい欲に苛まれた。幸運なことに、今日は2年生になってから初めての登校日であるため、必要書類を受け取って校長の有難いお話とやらを聞いたら帰宅である。

そんなことを考えていると、早くも斎藤がプリントを配り始めた。

雑な性格故か、前から送られてきたプリントは角が折れていて内心辟易する。プリント位綺麗に配れるようにしてほしいものである。

「あっ」

そんなことを考えていると隣の席から声が聞こえてきた。ぼんやりと声のした方を見ると、アンナがスマホを取り出していた。指でスライドしていく。

連絡があっただけらしい。

俺はその事実を確認すると、再び前から送られてくる折り曲がったプリントを受け取った。


「ああ、だるかった」

一番遅く来て、一番早く帰る。それが俺のモットーである。少しでも人と接触する時間を減らしたい。

校長はまるで俺が家に帰ることを妨害するかのように、長くてつまらない話を延々としていた。

斎藤も斎藤で後になって遅刻の件を詰るし、それはもう1年のスタートには最悪な日だった。

別に寝坊したわけじゃない、人ごみの中に入るのが嫌だったんだ。

俺はそう思ったが、そんな事を言ったら説教が長引くだけなのは流石の俺でもわかるので、ロボットのように首をカクカクと縦に振って職員室を後にした。

バスに乗り、朝と同じ道を通って市役所前についた。

俺の住むマンションは、市役所から歩けば2,3分の所にある。直ぐの距離なので、特に寄り道などもせずにまっすぐ目的地に向かう。


「Два часа спустя.губернаторпрефектуры(2時間後。県知事)」


ビルとビルの間から微かに声がした。ロシア語だと瞬時に判断した俺は、声のしたその隙間を覗く。

すると、そこにはスマホを耳にあててこちらに背を向ける銀髪の少女の姿が。

アリスだっけ……アンナか。こんな所で何をしてるんだ?

若干の好奇心が沸々と湧き上がってきたが、結局そのまま通り過ぎてマンションの方に向かった。

相変わらずの快晴の空から降り注ぐ陽の光が、4月とは思えないほどの暑さを作り出す。

マンションに入り日差しから解放されると、途端に寒く感じる。

それすらも、自分の前に立ちはだかる障壁のように思えてならなかった。

ガチャ

鍵を回して部屋に入ると、持っていた荷物を靴箱の上に置いて俺はズカズカとリビングの方に向かって歩く。制服を椅子に掛け、服を着替えだした。部屋着に着替えると、ソファに向かう。

まだお菓子は残ってたかな?

ソファに横たわると、机の下にあるお菓子箱を漁る。結局何もないことを確認すると、不貞腐れたように仰向けになり、ぼんやりと天井を見上げる。

段々と白い天井がモヤモヤと靄がかかったようになってきて…。俺はいつのまにかソファの上で寝てしまった。


「……5時?」

目が覚めた俺は思わず驚いてそう口にした。

帰ってきた時は昼前だったはずだ。少々寝すぎたかもしれない。

お腹も減って来たし……何か食べるか。

そう思って冷蔵庫の方へ歩いて行き、中からあらかじめ買っておいた小物を取り出した。それらをソファの前に置いてある机の上に置く。

冷や飯を電子レンジで温めている間に、テレビでも見ようと思いテレビの電源を付ける。


『お伝えしていますように、岐阜県の小西悟知事が急死しました。病死とみられます。享年68歳でした』


アナウンサーの声とニュースのテロップが目に飛び込んできた。

寿命だったんだろ……まてよ……。

知事という単語に引っかかるものを感じて、俺はテレビのリモコンで肩を叩きながら今日の記憶を呼び覚ます。そして……。

え? 知事って……。

俺はテレビの画面に目を奪われた。倒れた時刻は午後2時前となっている。

背筋が凍る、という表現が間違いでないことを今日初めて俺は知った。あまりの不気味さに身動き一つできないのだ。

「たまたま……偶然だよな?」

願うような、祈るような、そんな口調で言葉を絞り出す。

『路上で歩いていたところを突然倒れた小西知事ですが、取材中だったテレビクルーが倒れた直後の写真を収めていました』

そう言ってテレビの画面はその写真に変わった。

いつもなら、マスコミのやり口を罵っているところだが、今日は罵るどころか言葉ひとつ出てこなかった。ただ、テレビ画面を見つめる。


銀髪をたなびかせる少女の後ろ姿が、画面の端の方に映っていた。

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