宛てがい扶持と幸せの在り処

ナナシマイ

「キミの名前を決めなくてはいけないね」

 ふわりとかけられた言葉に、魔女の使い魔となることを決めたばかりの黒猫は「そうね」と頷いた。

「前に生きていた世界の空にはね、ほとんど動かずに北を示してくれる星があったんだ。北極星っていう。そして理は違うけれど、私はここで星を繋ぐ魔法を得た。……星詠みを行うこの世界で、その物語を変えられる力を」

 なんて素敵なことだろう。魔女は歌うように語った。独特のリズムに、夢のような言葉が乗せられていく。

 しかし黒猫にはまだ話の流れが掴めない。

 シャリン――。首を傾げた耳の横で、潤み星の涙から削り出したピアスが揺れる。

「それが、あなたがホッキョクセイの魔女と名乗っている理由?」

「うん。人々の道しるべ。私はずっと、そういうひとになりたかったんだ」

 ここでようやく黒猫の困惑に気づいたかのように、ホッキョクセイの魔女は微笑んだ。

「でもね、北極星はひと目でそれとわかるほどに明るくないし、あるままの星を繋ぐだけでは望む結果は得られない」

「道しるべの存在を知らせるものが……あなたの星繋ぎを補助する力が必要なのね」

「キミは賢い子だね。そう、私はキミたち黒猫が持っている、念力が欲しい」

 やわらかな手が満足げに身体を撫でていくのを、黒猫はしとやかに受け入れた。

「だから名前はヒシャクだ」

「……待って、繋がりがわからないわ」

「北極星を見つけるときの手がかりにする星座――北斗七星と呼ばれた星の並びから取ったんだよ。柄杓の形をしていて、その先を五つぶん伸ばしたところに北極星はある」歌うような声がささやく。「私が導く者だとしたら、キミは掬う者といったところかな」

 どうだろう。答えを知っているかのように、魔女の問いかけは問いかけの意を含んでいなかった。

「いいわ。気に入った」

 それでも黒猫――ヒシャクは頷く。

 シャリンと再び音を立てたピアスが使い魔契約の締結を示すように淡く光った。


 ヒシャクが念力で星を動かし、ホッキョクセイの魔女が魔法の万年筆で星々を繋いでいく。かつて魔女が生きていた世界で語られた神話のように。

 星と星は繋がっていく。それは管弦楽オーケストラの響きと似ていて。

 星のうたが紡がれる。

 人々は星詠みによって疫病の拡大を抑えられ、技術の発展を助けられた。

 そうして世界は進んでいく。

 苦境に立たされた者の前に現れるホッキョクセイの魔女は、指揮棒タクトを振るように進むべき道を示す。

「大丈夫。希望はあるよ。これからも世界はよくなっていく」


 大きな魔法を動かした日、魔女は決まって鍋焼きうどんを拵えた。日本という国で生きていた彼女の大好物である。

「今日は夕焼け鶏のお肉と卵を貰ったんだ。ほら、黄身の色がこんなにも鮮やか」

 当時好んでいたそれとは異なるが、その土地その土地で得た食材を使った鍋焼きうどんの持つ魅力は多彩だ。いつしか、さまざまな組み合わせの味を知ることが魔女とその使い魔の楽しみとなっていた。

 黒猫が食べやすいように短くうどんを切る魔女を、「みぁ」と猫らしい声を上げて見守る使い魔。

「熱いものを美味しいと知れたのは、使い魔になってよかったと思うことのひとつだわ」

 くつくつと具材が踊るたびに香ばしさと甘さの混じる匂いが立つ。短く切られたうどんは味がよく染みるようで、表面がたちまちふやけていった。すかさず肉の脂が絡みつく。

 空を見上げてばかりの魔女も、このときばかりは鍋の具合に集中した。

 割り入れた卵の白身がふるりと揺れながら白濁していく。暖かな陽を覆い隠す雲のように。

「火傷しないようにお食べ」

 やがて鍋の中にできあがった調和ハーモニーを、一人と一匹ははふはふと味わった。

 温かな風味と食感と。

 夕焼け鶏がもたらすのは切なさ。そして懐郷の念。

「ここに日本酒があれば最高なんだけど」

「ニホンシュ……?」

「シンプルで複雑、絹みたく掴めそうなのに霧みたく掴めない。不思議なお酒だよ。この世界にも素敵なお酒はたくさんあるけれど、やっぱりあの美しさには敵わないと思う」

 そう言いながら魔女が傾けるのは、合わせ鏡から洩れた光を蒸留した酒だ。真昼の光芒にさらした湧き水で割れば、日本酒と似た味わいになる。

「……なんて、ないものねだりはよくないね、うん、わかってるんだけど」

「ね、あなたはいつも頑張りすぎだわ。それくらい構わないでしょうに」

「ありがとう、ヒシャク。……たまに思うよ。私は、心が人間のままなんだ。それはきっと、永遠に変わらない」

 でも希望を歌うなら強くならなくてはね。

 そう笑う魔女の翳りに、黒猫だけが気づいている。


 ホッキョクセイの魔女が示すのは直接的な希望だけではない。

 どれだけ回避しようとも、人は争いを選んでしまう。綺麗事だけでは解決できない道へ進んでしまう。

 それでも魔女は万年筆を振るい、星のうたを紡いでいく。

 使い魔の動かした星々を繊細に繋ぎながら。

「これが魔女の本性か。忌々しい」

「わたしたちが殺し合うのを見て楽しんでいるんだわ」

「使い魔のことも酷使してるのだろう」

「可哀想な猫ちゃん! さあ魔女よ、その子を解放しなさい!」

 確かに導いたのは自分だと、魔女は静かに微笑んだ。

 彼女は人間が最も希望に向かえる道を示したのにと、黒猫は憤慨した。

「人間は勝手だわ!」

「うん。勝手で、欲深くて、傲慢だ。それでも手を伸ばさずにはいられないほどに愛おしい。それが人間なんだよ」

 魔女を批判する声を掬い取るように、争いは激化していく。


 世界が厳しい状態にあっても、魔女は鍋焼きうどんを拵える。

「食べることは幸せだ。幸せは力になる。そうして希望はやってくる」

 でも、と彼女は言いよどんだ。

 しかしそれは一瞬のことで、すぐに続けられる。

「……でも、与えたのが私だけだったから。もしかすると、ヒシャクは幸せを勘違いしているのかもしれない……」

 ホッキョクセイの魔女らしからぬ言葉に黒猫は目を瞠り、それからキッと契約相手の魔女を睨んだ。

「いつか、あなたは心が永遠に人間のままだと言ったわね」

「言ったね。だから――」

「あたしも同じよ。使い魔になったって、永遠に心は猫のままなのだわ」

 猫らしさを見せつけるように、ヒシャクは魔女の手指をぺろりと舐める。

「ヒシャク?」

 シャリン、とピアスが星の音を鳴らした。

「ね、忘れないで。あたしたち猫はね、幸せになるために生きているのよ。わかる? 他の誰がなんと言おうと、あたしはあなたの隣に幸せを見つけたの――」


 やがて人間たちの大きな争いは終結し、世界は平和を取り戻した。

 ホッキョクセイの魔女を人類の敵として。

 導いたのは彼女自身か、それとも人間がその道を拓いたのかは、誰も知らない。


 いくらでも星のうたを紡げそうな、満開の空が見下ろす夜のこと。

「ヒシャク」魔女はとうとう自分たちの進む道を告げる。「使い魔の契約を解除しよう」

「え……?」

 彼女の万年筆が、終止記号を描いた。

「キミはキミ自身のために生きるといい」

 シャリン――。

 使い魔の証である、潤み星の涙のピアスが煌めきほどけて。

 ヒシャクは息をひそめた。

「……ヒシャク?」

 ホッキョクセイの魔女が声をかけても、くたりと寝そべる黒猫は動かない。その体温が空気に溶けて消えていく。

『猫はね、幸せになるために生きているのよ――』

 魔女は思い出す。

『あたしはあなたの隣に幸せを見つけたの』

 ――ね、幸せになれないなら、生きてはゆかれないわ。

 いつか聞いた、大事な使い魔の言葉を。

 離してはならなかった、その言葉を。

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