可怪ーどんなにしいたげてもついてくる後輩に恐怖のどん底ー
入口はっぱ
第一怪:理想の後輩
第1話 理想の後輩
誰にでも、理想ってあるだろう?
俺にもある。そして今俺が求めているのは、理想の後輩だ。
そいつは頭が悪く、軟弱で、卑屈であればあるほどいい。
それが俺の、理想の後輩。
***
時の流れは早いもので、平成も十年ほどが過ぎていた。
くだらない日々に侵食されながら、それを違うとも思わず生きている。
そんな俺にこの春、はじめての後輩ができた。嬉しかったのは三日ほど、いや三十分、――三十秒だったかもしれない。
待望の後輩だったんだ。ただそれが、理想とも、希望とも、予想ともかけ離れていただけで――。
***
四月二十七日、八時三十分。
「どういうことだ
始業早々、怒号の飛ぶ事務所。
怒鳴ったのは主任、怒鳴られたのは俺。立ち上がると、主任がパソコン画面をこちらに向けている。
「三十六件中、三十六件が戻ってきてんぞ!?」
主任が指しているのはメーラーで、大量の宛先不明メールが戻ってきている。
「あぁん? どういうことだ
今度は俺が叫んだ。立ち上がったのは、隣の席の男だ。
「すんません、先輩」
上方から低い声が返り、イラッとする。
「間違いなく打ち込んだと思ったんですが」
というか近い! やたら近い! 無駄に近い!!
かがんできた相手を押しのけた。
そのまま顔色ひとつ変えずひきだしをあさり始めた男は、忌々しいことに俺の後輩だ。
むやみに長い指が、紙を引っ張り出してくる。おそらく取引先一覧だろう。
「……と」
「うわっ」
しかも、やりやがった。
「コーヒーは飲むなっつったよな!?」
「だから今日は紅茶っす、……つっ」
思わず裏拳出動。
四度目だ。こいつが俺のデスクにドリンクを倒してきやがったのは、四度目なんだ。
前回までは、もれなくコーヒー。三度目で初めて殴ったんだから、俺は天使か?
しかもこいつ、俺の指に飛んだ紅茶をてめぇの指でぬぐいやがった。こらこらネバネバするだろうがネバネバっっ。
「刹那崎、もしかして手打ちしたのか?」
大惨事のデスクを無視して、主任が入ってくる。
「はい、アドレス帳を使えないと言ったら、先輩がわざわざ俺のためにプリントアウトしてくださったんです」
静かに響く、ヤツの声。言い方がくどい。こちらに視線を流した野郎の目は……なんだろう。緩んでいる。
いや俺別にお前のためにプリントしたんじゃないからね!? 教えるのが面倒だっただけだからっ。
そこで主任から怒気が上がったのがわかった、まっすぐ俺に向けて。
「こいつに正しく打てると思うか……?」
「で、でも牧野さんの研修がまだで」
次には、向かいの席の女性に視線が集まる。
静まり返る室内。”牧野さん”からのコメント――、なし。
「そのくらいてめぇが教えろ!」
「……さーせん」
こめかみがひきつれた。先ほどから体もだるい。端的に言うと、帰って寝たい。
「なに見てんだ」
「先輩」
睨んだというのに、ヤツの笑みは深まった。
「研修してもらえんるんすか」
目が合うと不快指数はMAXに昇る。
何故って、確かに笑みを浮かべているのに、その鋭い視線はなんだ?
なのに前髪が瞳をチラチラと隠し、何を考えているのかまるで読めない。
「刹那崎、両面コピーできるか」
「できません」
「んじゃあそれも秋山」
教えてあげて? お願いだから。
だって俺が研修してこいつが間違えたら、俺のせいになるだろ? なるんだよここは!
ヤツははじめ、茶もいれられなかった。湯のみに直接茶葉を入れるとか、コーヒーかよ?
パソコンには触ったこともなく、操作ミス、送信ミスは当たり前。でも怒鳴られるのは、いつも俺――。
「先輩、よろしくお願いします」
返事をしなかった。
「先輩」
「……」
「先輩」
いやっ、どんどん近い! 覗き込んでくんな!
刹那崎はメモ帳を準備して、待ちの態勢だ。
「こんなもん書いてるから覚えられないんだよ!」
開かれていたページをむしり取り、記入済みだったが丸めて捨てた。
なのに文句のひとつも言わず、コピー機に移動していく刹那崎。
むしろなんだろう、また笑っている……?
いや、笑うのはアリだ。弱者の生きる術だからな。
卑屈に笑って媚びへつらい、なんとかその場を収めようとする。場合によっては手をついて――。
でも、ちがうんだ。
こいつの笑みはそんなんじゃない。
学生時代は、スクールカースト、サークルカースト、学歴カーストの、常に底。俺は常に、底にいた。
しかし、底にもさらなる段階がある。重要なのは、どんな場所でも誰かの上にいることだ。
だから俺は、待っていたのに。”理想の後輩”を。
――笑わない。理想の後輩は、こんな時、笑わないんだ。
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