第2話 ヴォーダン

 息を切らしてあえぐ私は、髭男の横を駆け抜けようとする。

 意外に素早い動きで髭男は私の手首をつかんだ。

 肩が引っ張られ鋭い痛みが走る。

 髭男はガハハと耳障りな声をあげた。

 後ろから息せき切った男たちがやってくる音が聞こえる。

 痛みに涙がにじむ私の目に、少し離れた木の陰から若い男が現れるのが見えた。

 やはり私には分からない言葉を発する。

 声の感じからすると、何をしているのか確認する問いかけのようだった。

 目を赤い布で覆っている奇抜なところが気になったけれども、私の手首をとらえている男よりも数倍小ぎれいにしている。

 そして、その若い男から発生られる声はとても心地よいものだった。

 イケボイスに悪人はいない。

 私は荒い息でかすれさせながらも叫ぶ。

「助けて!」

 若い男は小首を傾げた。

 背負っていた何かをぐるりと回して胸の前で抱える。

 洋梨を半分に切ったような形のそれは楽器だった。

 両手で演奏しながら低い声で歌う。

 数小節の短い歌声が響き終わると、今まで意味をなさなかった髭男の話すことが分かるようになった。

「てめえ。その楽器、バードか? ん? その赤い目隠し……。クソ野郎の息子のヴォーダンだな!」

「初対面なのにご挨拶だね。その子を離すんだ」

「は? 人の上前をはねようってのか? さすが国を掠め取った野郎の子供だな。従わなければ、豚の姿に変えるとでも脅すつもりか? この娘の髪と平らな顔を見ろ。どう見たってワタリびとだ。最初に捕まえた俺に権利がある。力づくで奪おうというなら、父親同様にやってみろよ」

 ヴォーダンと呼ばれた若い男は少し嫌そうな顔をする。

「黒髪というなら私もそうだが。それと、私を父と一緒にしないで欲しい」

「ならば、余計な口を挟まないでもらおう。ワタリ人を捕らえた俺の権利を侵害するな」

 ヴォーダンさんは楽器は演奏せずに歌いだした。

「わたしゃ、ニワトコの木に住む老婆。年はそうさね、三百歳。腰は曲がって、脚もおぼつかなぬ。何より困るは萎えた手さ」

 歌声が響くと同時に、私の手首をつかんでいた髭男の万力のような指がゆるんだ。

 反対の手に握っていたナイフが地面に滑り落ちた。

 私の後ろでも何かが落ちる音が響く。

 私の腕もだらりと垂れ下がってちっとも力が入らなかった。

 歌詞の内容に比べると妙に陽気な歌を歌い続けながら、ヴォーダンさんが私たちに近づいて来る。

 私の側まで来ると肘を掴んで私を髭男から引き離すようにして、十歩ほど離れたところまで連れていった。

 そこでようやく歌うのをやめる。

 髭男とその背後の集団は歯ぎしりをすると口々に罵り出した。

 聞くに堪えない罵詈雑言は、要約するとヴォーダンさんが言語道断な盗人だと非難している。

 それでも、こちらに踏み込んでこようとはしなかった。

 ヴォーダンさんは私を庇うように立ちながら、困ったように片手で首の後ろをかく。

 楽器に手を添えるとジャンと弦を鳴らした。

 びくっとして五人組は口をつぐむ。

 悪口が途切れたところで、ヴォーダンさんは口を開いた。

「確かにワタリ人は人であって人ではない。あなたが捕らえたのなら、あなたの所有物だ。私がそれを奪うことはあなたの権利を侵害することになる」

 えええ。

 私を助けてくれるんじゃないの?

 私の落胆をよそに、髭男はうんうんと頷いている。

「なんだ。分かってるんじゃねえか。それなら、さっさと、そのワタリ人を寄越しな。人買いに売ればひと財産だ」

 ヴォーダンさんは指を立てた片手を上げた。

「ただし、例外がある。彼女がバードである場合は、古くから伝わる決め事が優先されるね。限定的ながら諸々の権利を有するし、あなたが所有者になることはできない。あまねく全てのバードは、主を持たない。その師と己の信じるもののみに従う」

 髭男はフンと鼻をならす。

「そのアマっ子がバードだって? 楽器も持たなきゃ、ヘロヘロ声だ。そんなわけはねえ」

「そうだね。彼女はまだ見習いだから」

「なんだと?」

 ヴォーダンさんは私の方に半身ほど向き直ると私だけに聞こえるような小声で聞いた。

「名前は?」

 私は魅入られたように口を開く。

「文音です」

「そうか。アヤネ。では尋ねる。私に師事し、一人前のバードとなるまで修行をすることを誓うか?」

 えええ。何その急な選択肢。

 髭男に売り買いされるのは論外だけど、私は音楽の成績はイマイチなんだよね。

 修行っていったら、普通は十年ぐらいかかるんじゃない?

 短くても二、三年はかかりそう。

 そんなに長い間、この見知らぬ場所で歌と楽器の練習をするの?

「なんだと? お前のようなヤバい人間に弟子入りする物好きがいるはずないだろう?」

 髭男が言った。

 きょろきょろとヴォーダンさんと髭男たちを見比べる。

 にわかに注目を浴びて戸惑うけれど、私に選択肢はなかった。

 半ばやけくそで大きな声を出す。

「やります!」

 ヴォーダンさんの口元に笑みが広がった。

 髭男は手を顔に当てて天を仰ぐ。

「ちきしょう。この冬の食い扶持が……」

 ヴォーダンさんは柔らかな声を出す。

「その代わりになるかは分かりませんが、あなたの体の悪いところを治しましょう。お腹が張って、蛇が群がっているような模様が浮いていませんか?」

「おう。それがどうした?」

「このままだと死にます」

 髭男は顔色を変えた。

「ほ、本当か?」

「話は聞いているでしょう? 赤い目隠しのバードのことは」

「そ、それで、本当に治せるんだろうな」

「後ろの方々を百歩ほど下がらせてもらえば。そうですね。小さなパイプをのんびり一服する時間があれば治せますよ」

「分かった」

 髭男が一人になると、ヴォーダンさんは楽器の端をいじる。

 そして、楽器を演奏しながら朗々とした声で歌い始めた。

 二十分ぐらいの時間、ヴォーダンさんは歌い続ける。

 その間、私はうっとりとしていた。

 私が普段聞いている曲からするとゆっくりだし、変化に乏しい歌だったが、とにかく歌い手の声がいい。

 血、肉、腫れ、炎症に膿とロマンチックさの欠片もない歌詞でも気にならなかった。

 じいっと見ているとヴォーダンさんの楽器からごく薄い紅色の透明な糸が髭男に向かって伸びているように見える。

 あれ、と思って目を擦ったら消えていた。

 楽器の最後の一かきが鳴らされて、ヴォーダンさんは歌い終える。

 髭男が服の前をめくって腹を覗き込み手で撫でまわした。

「消えてる! それに固くなったところもねえ」

 驚きの声をあげる髭男に背を向けるとヴォーダンさんは私を促して歩き始める。

 私は我に返ってお礼を言った。

「助けて頂いてありがとうございます」

「いや。気にしないで。私もお陰でようやく弟子ができた」

 すたすたと歩くヴォーダンさんの返事は短い。

 色々と聞きたいことがたくさんあった。

 もっと大切なことがいっぱいあったけれど、私はなぜか先ほど見えたような気がした光景のことを聞く。

 ヴォーダンさんは事も無げに言った。

「そうだね。強い呪歌を紡いでいると線状のものが対象に向かって伸びているのが見えることがある。その色は歌い手によって違うんだ。ちなみに私は血の色をしているらしい。目が無い私には見えないから分からないけどね」

 私の方に顔を向ける。

「アヤネ。君の色は何色なのだろう?」

 その質問に込められた意味を知ることができたのは、ずっとずっと先のことだった。


-完-

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繋ぐ糸の色を教えて 新巻へもん @shakesama

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