永遠の恩返し

三鹿ショート

永遠の恩返し

 日付が変わったばかりであるにも関わらず、その集合住宅の一室から漏れる声は、迷惑極まりないほどに大きなものだった。

 思わず視線を向けた先の縁側には、一人の少女が膝を抱えていた。

 彼女ほどの年齢ならば、疾くに夢の世界へと旅立っている時間だろうが、彼女は無表情のまま、虚空を見つめている。

 彼女の背後からは部屋の光が漏れているが、何故彼女は部屋に入っていないのだろうか。

 もしかすると、内部では大人たちが宴会を繰り広げており、彼女はその邪魔になるため、縁側に追いやられたのだろうか。

 それが事実ならば、何とも悲しい光景である。

 見つめられていることに気が付いたのか、彼女は私に目を向けた。

 何かを訴えたいような目つきだが、私は彼女に構わず、自宅へと急いだ。

 彼女には同情するが、私にはどうすることもできないのだ。


***


「何故、見なかったことにしたのですか」

 翌日、私は道端で彼女に声をかけられた。

 私は彼女に対して危害を加えたことはないが、海よりも深い恨みを抱えているかのように、私を睨み付けている。

 立ち止まって声をかけてきた彼女の横を通り過ぎながら、

「何の話をしているのか、私には不明だ」

 このまま何事も無かったかのように帰宅しようとしたが、彼女はそれを許さなかった。

 私の腕を掴み、自分の方に引っ張りながら、

「私がどのような扱いを受けているのか、あなたも見たでしょう。何故、何の対応もしてくれなかったのですか」

 まるで自身が救われることは当然であるかのような口調に、私は思わず低い声を出した。

「星空を眺めているだけだという可能性もあるだろう。あの状況だけを見て、きみが家族にどのような仕打ちを受けているのかなど、想像することはない。そこまでの義理は、きみに対して存在していないのだ」

 腕を振り払うが、彼女は諦めなかった。

「では、私が何をされているのか、あなたに伝えれば、何とかしてくれるのですか」

「何故、他者が手を貸してくれると信じているのだ。困っている人間全てに手が差し伸べられるのならば、この世界は甘えん坊ばかりと化すだろう」

 私がそう伝えると、彼女は途端に神妙な態度と化し、

「私が抵抗したところで、高が知れています。それどころか、さらに酷い仕打ちを受けることになるでしょう」

「きみの考える抵抗など、殴られた際に泣き叫ぶ程度のことだろう。相手の目玉を抉るほどの反撃をしなければ、意味がない」

 その言葉に、彼女は首を左右に振った。

「そのようなことをすれば、私もまた、両親と同じような人間と化してしまいます。それは避けたいのです」

 私は彼女を鼻で笑った。

「自分の手は汚したくないため、他者の手を汚そうというわけか。そのような思考を持っている時点で、きみは既に劣悪な人間だ」

 私の発言が効いたのか、彼女は目を見開いた後、俯いた。

 無言と化したため、私は彼女を置いて、歩を進めた。

 心中で謝罪の言葉を吐き続ける私の双眸からは、涙が流れていた。


***


 帰宅した私に投げられたのは、出迎える言葉ではなく、酒の空き缶だった。

 少しばかり中身が残っていたためか、私の衣服や床を汚した。

「何をしていた。早く帰れと言っておいただろう」

 部屋の中央で胡坐をかいていた男性は、私に鋭い眼差しを向けている。

 私は頭を下げると、新たな酒を彼に与え、食事を作り始めた。

 一体、この生活は何時まで続くのだろうか。

 手にした包丁を見つめるが、それを料理以外に使用することは考えていなかった。


***


 彼女を助けなかった理由は、現在の私の生活が原因である。

 私と共に生活している男性は、かつて私を救ってくれた人間だった。

 彼女のように、家族から惨い仕打ちを受けていた私を、彼は助け出してくれたのである。

 だが、その方法は最悪だった。

 彼は私の両親を殺めると、その死体を、山奥の塵の山に放置してあった冷蔵庫の中に隠したのだ。

 幸いにも、現在に至るまでその件について騒がれていないが、私は彼に大きな貸しを作ってしまった。

 彼が救ってくれなければ私は今も生きていたかどうかは不明だが、彼が手を汚したことは事実である。

 明らかになれば、彼は徒では済まないことだろう。

 だからこそ、私は彼に対する恩義から、彼を匿い、支えることにしたのだ。

 当初の彼は、私に対して感謝の気持ちを忘れていなかったようだが、やがて私が尽くすことが当然であるかのように振る舞い始めたのである。

 私は、複雑な気持ちだった。

 確かに彼に感謝しているが、それを楯にして傍若無人なる振る舞いをされては、閉口してしまう。

 しかし、彼を然るべき機関に突き出すほど、私は恩知らずではない。

 だが、今の生活から抜け出したいと思っていることも、事実である。

 そのためには、彼を始末する以外に方法は無いが、命の恩人に対して、そのようなことが出来るわけがない。

 堂々巡りである。

 終わりが無い関係である。

 ゆえに、彼女を助けることで、何時の日か私が彼のように振る舞うようになってしまうことを恐れているのだ。

 彼という反面教師を日常的に目にしているものの、楽な道を選ぶことができるのならば、何時しかその道を進んでしまうことだろう。

 私の個人的な事情と弱さによって、彼女を苦痛から救助することができないということは心苦しかった。


***


 後日、私は彼女が住んでいた集合住宅に人集りが出来ている場面を目にした。

 白黒の自動車に、彼女が入っていく。

 何が起きたのか、想像するに難くなかった。

 私は心中で彼女に謝罪をしながら、彼が待っている自宅へと急いだ。

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永遠の恩返し 三鹿ショート @mijikashort

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