【夢譚】ある女の回想
冬至から始まる新年の儀は、王侯貴族達が全て西の宮殿に集まる大規模なものだ。
西宮殿の儀礼専用の広間は、まず一際高い場所に黄金の女神の神像が据えられており、その前に皇帝家が、それに続く場所に帝国十家、大公家が並び揃う。
それ以降は十把一絡げだ。王族だろうが貴族だろうが、伯爵位も男爵位も区別はされない。会場に入りきれない者達は、式典の間は外に立ったままだ。本格的な冬の前とはいえ、寒い。
とはいえ、会場内も暖かくはない。
式典会場、黄金の女神の神像があるこの広間は、女神像の背面以外は全て壁がない。その為、扇状の壇上も女神像も、会場にいるものは等しく拝むことができる。
重厚な衣装を纏い、神事を行うのは仮面で顔の大半を隠している皇帝。
その隣に並ぶのは彼の子供達だ。
今年は第一皇子が臣籍降下したため、先ずは艶やかな黒髪が美しい第二皇女、その隣に同じく黒髪を短く刈り込んでいる第三皇子、そして銀の髪の末姫、第六皇女が立つ。対して父親を挟み、第四皇女と第五皇子が立つ。この二人は父親によく似た銀の髪と紫水晶の瞳を持つので、そのどちらかが皇位を継承するのではないかと噂されていた。
皇妃の姿はない。
それが、その光景を昏い目で見上げるその女のとって、僅かな悦びを生み出した。
ただ、視線を巡らせ壇下の帝国十家の顔ぶれを見れば、更に胸がかきむしられるような感情を覚える。
中央に立つのは第一皇子、帝国で最も力のあるシュヴァルツエーデ公爵とその妃候補と云われる娘だ。まだ子供のようなその後ろ姿は、帝国貴族の筆頭らしく堂々としている。女は苛苛としながらそれを見た。
その隣に立つ、波打つ金の髪の貴族達。これも家族が多いが、その一族には心は動かされることはない。だが、さらにその隣に並んで立つ、金の髪と真紅の髪を見た瞬間、心臓が破れるのではないかと思うほどの激情を覚えた。
異母兄だという、ニコラウス・ヴェルドフェス公爵。その隣に並ぶのは、カタリーナ・ヴェルドフェス。妊婦らしく膨らんだ下腹部を優しく覆うような、ふんわりとした外套を身につけている。時々労わるような視線を異母兄から送られ、幸せそうに微笑み返している、あの女狐。
女は激しい怒りから、叫び出したい衝動に駆られる。
違う違う! あのお兄様の隣に立つべきなのは私だ!
私たちは並んで、女神の神像の前、皇帝と皇后として立つはずだった!
例えそうではなくとも、お兄様の妻は私だ。あの、穢らわしい蛮族の娘であるはずがない。この私に恥をかかせた、あの女狐が妻になるのは、間違えている!
だが、今の女がどれほど声を上げても、その訴えに耳を貸す者はいないだろう。
なぜなら女の現在の身分は子爵位、西の大公国の一女官に過ぎないのだから。
■■■■■
女の名前はヴィクトリーア、嫁ぐ前はアンガーマン公爵家の愛娘だった。金の髪に紫水晶の瞳。まさに金の女神の恩寵そのもののような、美しく気高い姫。
アンガーマン公爵家は、領地が北の僻地であることから、ほかの四公爵家と比べて特別豊かなわけではない。さらに父も祖父も、財を増やすことより消費することに喜びを見出すような男達だった。
だがかつてのヴィクトリーアはそんな事を全く知らず、花よ蝶よと愛されて育った。
「あなたは可愛らしいわ。ヴィクトリーア。きっと皇帝様の奥様になるのはあなたね」
四歳になったヴィクトリーアを抱きしめるたび、母はなんの疑いもなくそう言う。そうか、自分は皇帝の妃になるのか。幼いヴィクトリーアはそれを心に刻む。
「だといいがな……。問題は閣下が誰を皇帝に指名するかだ」
だがその場の空気を壊すような、父の重苦しい声が響いた。
父は母娘の視線を受けて、深くため息を吐く。
「閣下はニコラウスを皇帝にしたがっている」
「何ですって!?」
間髪入れずに母がヒステリックに叫んだ。
「あの子が皇帝になったら、私たちは……」
みるみる青褪める母を、ヴィクトリーアは不思議な気持ちで眺めていた。
「女神の虹彩は、黄金の女神の愛し子の証だそうだ。……くそう、なんであいつが……」
悔しそうに呻く父を冷ややかな目で見ながら、ヴィクトリーアは思った。
どうやら、自分はその皇帝になるニコラウスとやらの妻になり、そして皇妃になるのであろう。その女神の虹彩とやらは何かまだわからないが、きっと黄金の女神の恩寵を受けた私こそが、その愛し子の隣に並ぶに相応しい。
幼いヴィクトリーアは全てを理解しているわけではなかったが、漠然そう考えていた。その全てが誰かに導かれるように、自然なことのように思えていたからだ。
その状況が変わったのは、十二歳の時。
父が閣下と呼ぶ男が捕らえられた。
その男、シュヴァルツエーデ公爵は内乱を企てたのだという。傘下のアンガーマン家も関与を疑われたが、そこには何の証拠もなかった。関係していた貴族が次々と処刑される中、狡猾な父は見事に生き残った。
一方、シュヴァルツエーデ公爵家はあわや断絶かとの一悶着も起きたが、どうやらそれも回避されたらしい。
そうなると自然と、新たなシュヴァルツエーデ公爵位を引き継ぐのは誰かという話になる。
「やっぱりヴィクトリーアがふさわしいんじゃないかしら?」
きっかけは食事の席で、母が軽々しく言った言葉だった。
既に学園に入学して家にいない兄より、母はヴィクトリーアを愛し慈しんでいる。兄より妹の爵位が上であることも、母にとっては些細なことのようだった。
「お前、口を慎みなさい」
父が不愉快そうに顔を歪める。
「そんな話、軽々しくするものではない」
「でもあなた、ヴィクトリーアほど金の女神の恩寵を持つ娘はいないのよ? こんなに美しいんですもの」
拗ねたように唇を尖らせる母を、父はぎろりと睨みつける。
いつまでも幼い少女のような母と、飽きずに浮気を繰り返している父の関係が、もうとっくに破綻していることをヴィクトリーアは理解していた。食事の席でも口論が絶えない毎日が、日常だったのだ。
その分、母の病的と言ってもいい愛情はヴィクトリーアに注がれていた。母は今でも、貴族の頂点に立つのはヴィクトリーアが相応しいと思っている。そしてヴィクトリーア本人も、それを疑っていなかった。
「閣下はやはり自分の後継はニコラウスだとおっしゃっている」
不機嫌そうにナイフを動かしながら、父が言う。取り分けた脂身の多い肉を、何の躊躇いもなく口にする。
一方の母は体型が崩れるのを気にしてワインしか口にしない。その、母の手元にあったはずのワイングラスが宙を舞った。
「どうしてまたあいつなの!?」
ヒステリックに叫びながら、母が食器に八つ当たりするのも、いまや日常の光景になっている。
「他人のものばかり欲しがって! 母子揃って卑しい!」
母の怒声に違和感を感じながら、ヴィクトリーアは目を見開く。
今父は、ニコラウスという名前を口にした。
それは確か、皇帝に、自分の夫になるべき人物ではなかったか。
思わず彼女はその疑問を口にする。
その途端、母の顔が変わる。その醜怪な面を、ヴィクトリーアは呆然と見ていた。
「何を言っているのヴィクトリーア。あの男はあなたの兄なのよ? 兄妹で夫婦になるものがどこにいるの。穢らわしい」
「ヴィクトリーア、皇帝は今や皇都に帰還なされた。不敬なことを言うものではない」
普段は視線を合わせようともしない両親双方に責められ、ヴィクトリーアは衝撃を受けた。
自分は黄金の女神の愛し子、女神の虹彩を持つ男の妻になるのではなかったのか。
そしてこの帝国の貴族の頂点に立つ、皇后になるのではなかったのか。
それを言うと、母はとても楽しそうに笑った。
「ヴィクトリーアったら、まだそんな子供じみた夢を見ていたの? 現実を見なきゃダメよ? あなただって再来年には学園に入学するのだから」
これはいったい、どういうことだ?
それがこの時の、ヴィクトリーアの正直な感想だった。
皇妃になるべきと育てられたはずなのに、それを子供の夢と嘲笑われた。夫になると夢見ていた女神の虹彩の持ち主は、自分の兄だった。
その混乱のまま、ヴィクトリーアは運命に出会う。ちょうどそれから二月後、皇帝の住む宮殿でお茶会が開かれた。
帝国では、帝国十家と大公家の子供達の交流を目的としたお茶会を毎年開催している。この年は新年の儀の二日後に開かれ、ヴィクトリーアは初めて参加をした。
まず、驚いた。
母はヴィクトリーアのことを女神の恩寵を受けた美しい子だと褒め称えたが、実際このお茶会で彼女が知ったのは、自分はたいして美人でもなければ、特別女神の恩寵を得ているわけでもないという事実だった。
お茶会の会場に集まった子供の中には、ヴィクトリーアより美しく、賢い子供はたくさんいた。
その事実に愕然としながらも、何とか矜持と意地で笑顔を作り続けていたのも束の間。
一際美しいその青年を見て、ヴィクトリーアは息を呑む。表情を作ることも忘れて、呆然とその青年を見つめていた。
まだ幼い第一皇子の付き人だというその青年は、参加者に一生懸命挨拶する皇子の後ろに無表情で控えていた。
流れるような美しい金の髪、そしてその見事な芸術品のような顔は、非の打ち所がないほど整っている。細く上品に高い鼻梁と、その上の少し吊り上がった瞳の、紺色とも紫にも見える不思議な色合いは、一瞬にしてヴィクトリーアの心を鷲掴みにした。
ああ、彼だ。
彼こそが女神の虹彩を持つ、わたくしの運命。
会いたかった。わたくしの伴侶。
まるで脳内で誰かが囁くように、ヴィクトリーアはそう確信していた。
さあ! わたくしを見つけて! わたくしの手を取って!
心の中で叫び続けること半刻あまり。
最後まで、ヴィクトリーアの運命は彼女にその美しい瞳を向けることはなかった。
■■■■■
それからのことは、思い出したくもない。
シュヴァルツエーデ家の援助を得られなくなったアンガーマン家は、斜陽の一途を辿った。
母は学園に入学した娘への興味はなくなり、若い恋人に夢中になった。父はどれだけ高く娘を買い取る相手に売り込めるか、それしか興味をなく、その渦中で突然死んだ。大方、恨みを持つものに消されたのだろうと思う。
兄の公爵家相続の際に皇帝より厳命が下り、父の婚外子の存在も認めなくてはならなくなった。その結果、ますますアンガーマン家の評価は落ちる。
そうして帝国十家の中でも最も尊かった筈のアンガーマン家は、今や没落の一歩手前という有様だ。
そんな状態では、ヴィクトリーアの婚姻も厳しい。結局、去年彼女が嫁いだのは、学園で一つ上の先輩だった西の大公国の公子だった。
公子だが、将来国主になるわけでもない。文官の一人として父と兄を支える真面目な青年だったが、ヴィクトリーアには物足りなかった。
自分は皇妃になるべきなのだ。
なのにこんな庶民と変わらぬ生活をするような、公子妃など耐えられない。どうして貴方は公太子ではないのか、どうして自分をせめて大公妃にしてくれないのかと、連日責めた。責め続けた結果、真面目な青年は壊れた。
彼が公太子だった自身の兄を殺害し、自身も自害したと彼の側近から聞いた時、ヴィクトリーアはまたしても思った。
これはいったい、どういうことだ?
どうして所詮平民のこの側近は、自分を責めるような目で見ているのか。
残された公太子妃の義姉は、どうしてヴィクトリーアが罪を唆したと責めるのか。
西の大公国の存続に関わるこの醜聞はもみ消され、夫亡き後、子供のいないヴィクトリーアは公子妃の身分が剥奪された。その措置に、西の大公家がヴィクトリーアをどれだけ煙たがっているのかが知られる。
結果、実家に戻るか、この国で一文官として働くかの決断を迫られた。
どうしてそうなったのだ。
いくら考えてもわからない。
実家に戻っても、出戻りの立場では、兄にどのように扱われるのかわからない。ヴィクトリーアは文官として働くことを選び、特別に義父から子爵位を賜ったが、文官として働くことは彼女の性に合わなかった。
学園でも文官試験には合格できなかったのだ。最も、あの頃は自分が将来文官になるなど考えてもいなかったので、全く勉強をしていなかったのだが。
辛うじて女官試験には合格していたので、建前上は文官として、内実は女官として西の大公国で仕えることになった。
そうして、政務に携わる義父や義姉にこき使われる毎日を重ねるうち、静かに何かがヴィクトリーアの中に溜まっていく。
それは静かに、決壊する時を待っていたのだ。
■■■■■
子供達のためのお茶会は今年も開催された。
今年は皇帝家の子供達も全員が参加している。
中には皇帝の姿もあり、末の娘を抱き抱えながら、新年の儀では臣下として接していた第一皇子と楽しそうに談笑している。
周囲を取り囲む人々も笑いが絶えない。
あそこにいるべきなのは、わたくしなのに。
それを昏い目で見つめるヴィクトリーアは、今は甥である公太子の付き人という立場だ。
皇帝の妃として、皇太子の母として、誰よりも華やかで栄光に輝くべきなのは、わたくしなのに。
ふと、西側の庭園の一箇所でどっと歓声が上がった。次いで拍手の音に、歓びを広げる楽器の音楽。
皇帝のまわりの人々も、一斉にそちらに意識が向く。一人二人と、西側の庭園に駆け出していき、皇帝と護衛騎士だけが残った。
そのタイミングで、皇帝の腕の中の子供が泣き出す。いやいやと駄々をこねる子供を皇帝は宥めているようだが、一向に子供は落ち着きを取り戻さなかった。
「カタリーナ!」
かなり距離はある筈なのに、皇帝がかの
近くに控えていたのだろう。妊婦らしいゆっくりした足取りで、あの女が皇帝に近づく。すると子供がするりと皇帝の腕を抜け出し、あの女のスカートにしがみついた。女は笑顔で子供の頭をなでている
「君も大変な時期なのに、すまないね」
皇帝は慈しみのこもった優しい目で、あの女を見つめている。
女はにっこりと皇帝に笑いかけた。
「お任せください。わたし、二人目も三人目も大丈夫な気がしてきましたわ!」
何ということだろう。ヴィクトリーアは目を見開いた。
もしやあの女は、あの美しい兄だけでなく、この皇帝すら毒牙にかけているのか。
確かに今、皇帝には妻がいない。
だが、その後釜にあの女が収まるのは、絶対に有り得ない。許せない。許せない。
皇帝に笑顔で挨拶をし、皇女と手を繋いで立ち去る女の後ろ姿を目で追う。女についているのは、護衛騎士がただひとり。
ヴィクトリーアは静かに、近くのテーブルにあったカトラリーを取り、袖口に隠す。
そして笑顔を浮かべて、あの女の後を追った。
大丈夫、わたくしは知っているわ。どのようにすれば、人の命を奪えるかを。
どのようにすれば、愛おしいお兄様を取り戻せるかを。
己を導く声が何者かも知らぬまま、ヴィクトリーアは静かに歩いていた。
君の隣で見る夢は---緋虎をめぐる幻想譚--- ひかり @hikari_hozumi
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