最期の仕上げ

外清内ダク

最期の仕上げ



 最期に開けると決めていた。世界を滅ぼす呪いの小箱を。

 あの箱を手に入れたのは、もう何年前になるかな。桜町さくらまちの裏道にあるで1万5千払って買ったんだ。魔法だ。本物の黒魔術。まあまあ手頃な値段で魔法のアイテムを売ってくれる店。バカバカしいかもしれないが俺は本気だった。あの店には実績があった。治るはずのない膵臓癌ステージ3を治療し、立て続けに3度もロト6を当てさせ、働き口という望外の幸運まで俺に恵んでくれた。俺が不安定な30代を生き抜けたのはあの店があったればこそだ。

 だが俺は生粋のクズであり、学歴もなければ財産もない。能力、才能なんてあるわけない。そんな男が少々幸運に恵まれたくらいでその後の人生を順風満帆進んでいけるはずもなく、ほんの数年で運を食いつぶした俺は、無能者のご多分に漏れず社会へ逆恨みを向けるに至った。

 それで俺は店に駆け込んだのさ。魔法を――世界を滅ぼす魔法を求めて。

「もちろん可能だ。得意分野と言ってもいいが」

 俺がドアベルを鳴らしたとき、童顔の店主は優雅に籐椅子の上で足を組み、文庫本に没頭しているところだった。彼は本から顔を上げもせずに続ける。

「本当に世界を滅ぼしたいのかい? 君が求めているのは、むしろ存続する世界の中で富や安楽を掴むことでは?」

「お説教はやめてくれ」

「そんな堅苦しいものじゃないさ。でも、滅びた世界にはアルコールもニコチンも、性の快楽すらも無いからね」

 言われて俺は言葉に詰まったよ。確かにそうだ、と思った。俺をチヤホヤしてくれないこんな世界は滅びてしまえと単純に思っていたが、滅ぼしたって俺が得するわけじゃない。溜飲は下がるだろうが、それだけだ。でもクソ世界をぶっ壊してやりたいのも本心なんだ。

「では妥協案だ」

 本を閉じて苦笑した彼が、ものぐさにも座ったまま腰をひねり、背後の棚から引き寄せたのが、あの小箱だった。手のひらの上に収まるほどの小さな小さな木の箱だ。表面には複雑怪奇な紋様が彫り込まれ、要所要所に金具の補強が噛まされていて、薄く浮いた錆がレトロな雰囲気を匂い立たせている。

「この箱は?」

「『シュレディンガーの猫』を知ってる?」

「シュ……何?」

「その箱を開けて、中を観測してみるといい。その瞬間、あり得る無限の可能性の中から世界の在りようが確定され、可能性そのものの系たる世界は崩れ去るだろう」

「なんだって?」

「いいさ。君には動作原理など問題じゃあるまい。ちゃんと世界が滅びさえすれば」

 俺は箱を受け取った。軽い。軽い箱だ。だがこの中に世界の命運が握られてるかと思うと何十倍にも重く感じられる。俺は小箱を睨み、頬を引きつらせて笑っていた。店主が立ち上がり、冷たい目で俺を見つめ始めたことにも気づかずに。

「いいかい」

「え?」

「今日のところは、それを持って帰りたまえ。そして肌身離さず持ち歩き、いざという時には蓋を開くといい。君が心の底から世界を滅ぼしたいと思った、その時にね……」

 心臓が千切れそうなくらい高鳴ったよ。俺は家に飛んで帰り、ちゃぶ台に小箱を載せ、手でつまみ、ひっくり返し、また置いて、一晩中観察し続けた。箱だ。ただの箱。だがこれを開けば世界を滅ぼせる。そう思うと、不思議な充足感が俺を満たしてくれた。そうさ。俺は世界を滅ぼせる。いつでも滅ぼせるんだ。

 いつでも滅ぼせるなら、別に今じゃなくてもいいんじゃないか?

 それは合理的な考えに思えた。つまり、世界滅亡を保留するんだ。当面は生きて酒や煙草を楽しみ、本当に嫌になったら箱を開いてみればいい。

 そこから妙に人生が楽しくなった。いつでも世界を滅ぼせる、その事実が俺に余裕を与えてくれたんだ。嫌なことがあっても、バイト先で上司にツメられても、「俺の手の中には世界があるんだぞ」と思えば耐えられた。まるで世界の支配者にでもなった気分だった。

 そうでなければ、なんで俺みたいなクズが、この世知辛い世の中で生きながらえられただろう。

 30年!

 そう、あれから30年だ。俺は生き、老人になり、そこまでずっと、小箱は俺のそばにあった。いつの頃からか俺は考えるようになっていた。

 この箱は、最期の最期、死ぬ直前になったら開けよう、と。

 俺をいじめ、蔑み、惨めな暮らしを余儀なくさせたこのクソッタレな世界が滅びるさまを、眺めながら死んでいけたら……それは素晴らしく痛快だろう。

 そして今、俺はついにその時を迎えつつある。既に住まいも無くし、金も底をつき、俺は老いた身体を雨ざらしの道端に横たえている。意識が遠のこうとしている。今までも何度かつらいことはあったが、今度こそ本当に終わりだと、理屈ではなく魂で確信できた。

 今こそその時。俺は、ポケットの中をまさぐり、小箱の蓋に指をかける……

 と、そのとき。

「大丈夫ですか?」

 不意に、一本の傘が俺の上へ差し出された。俺は泥水の中から顔をあげる。女子大生かな……もう少し上か……そのくらいの年頃の女がひとり、俺の前にしゃがみ込み、自分の背中が濡れるのも構わずに、俺に降りかかる雨を防いでくれていた。

「あ……?」

「立てますか? 救急車、呼びましょうか」

 なんだこの女。なに言ってんだ。一体なんの魂胆なんだ。俺は困惑し、うっかり箱から指を離してしまった。女の手が差し伸べられる。俺は躊躇う。垢に汚れた俺の手で、彼女の手を穢したくなくて。

「俺は……大丈夫。大丈夫……」

 じゃない。助けてくれ。

 その一言が言えず、その一言が言えない自分に気付き、その一言を言いたがっていた自分に驚愕し、俺は、涙をこぼしてしまった。

「でも……」

 まだ食い下がる女に、

「あっち行けェッ!!」

 渾身の力で俺はわめく。

 女は、顔を固くして、立ち上がった。だが傘は残された。彼女は俺のために傘を置き、自分は濡れて、けぶる土砂降りの中へ消えていったのだ。

 雨音が、傘に弾けてやかましい。

 俺は。

 俺は……

 震える手で小箱を取り出し、俺は、それを投げ捨てた。アスファルトの上を箱は転がり、側溝に落ちて、見えなくなった。

 その途端、恐るべき喪失感に俺は襲われた。なぜ手放してしまったんだろう。世界を滅ぼすんじゃなかったのか。裕福な連中がこの世の終わりに右往左往するさまを眺めながら、その愉悦を土産に冥土へ旅立つんじゃなかったのか。

 俺は身を起こした。そうだよ。世界を滅ぼさなきゃ。ほとんど執念にも似た決意が老いた身体を奮い立たせる。俺は這いずり、側溝のほうへ寄っていく。もう少しだ。小箱はあの辺りに落ちたはず。畜生。身体が動かない。どこもかしこも冷え切ってる。こんな形で終わらせてなるものか。一瞬の親切にほだされて初心を忘れるほど甘っちょろい男じゃないんだ、俺は、俺は――



THE END.

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