9th. 僕の、人殺し
モモは、そっと立ちあがる。サワタリは、無心に姉を撫でている。サワタリの姉の瞳は濁ったままだったが、どことなく嬉しげに見えた。嬉しげだと、思いたいのだ、おれが。
静かに背を向け、家畜小屋を出た。大きなお屋敷は、暑気が籠もるのを嫌い、窓という窓、扉という扉が開いていた。だから、忍びこむことは容易かった。広い屋敷のどこをどう歩いたのか判らない。ふと気がついたのは、傷んだ廊下の床板を見て。引っ掻いたような傷が無数に走る床板から、顔をあげると、部屋があった。戸は開いている。中からは──いやな音が漏れ聞こえていた。
いやな音──もう覚えてしまった、男が女を犯すときにたつ暴力の音。問い質す必要はないと思った。組み敷かれている女性はサワタリやかれの姉と同じ赤色をしていた。かれらの異父妹かもしれない。それにのしかかり、強姦している初老の男が──サワタリの継父。(ご主人のおねえさんを強姦し、廃人にした男)
モモは背から弓矢を取る。横腹の薬草ポーチから容器を出す。容器の中に入っているのは、毒液。鏃にそれを塗り、廊下で弓を構えた。女性の上で蠢いている男は、こちらに見向きもしない。モモは、弓弦を引き、射た。
男は、暫く気がつかず腰を動かしていた。モモの矢は男の肩をかすめたにすぎない。だが、鏃には毒が塗ってあるのだ。些細な傷口からも毒は侵入し──男の体を、冒す。
「……?」
男の動きが、緩慢になり、軈て止まる。異常に気がついた時には遅く、男は床に墜落していた。モモは部屋に入ると、男の体を押す。ちからいっぱい、押す。転がった男の体の下から助けだした女性は、虚空を見ていた。唇を切っているらしい、血が出ていた。
モモはそれを一瞥し、男に向きなおる。畳に仰向けになった男は、口から泡を吹いていた。筋弛緩作用のある毒を使った。指一本動かせないことは勿論、呼吸も苦しい筈だ。声などだせまい。モモは矢筒から新しい矢を取りだす。その鏃を掴み、男の腕と肩の間に突き立てた。男が呻く。突き立てた鏃を、左右にぐいぐいと動かす。苦労した。腕一本斬り落とすのにさえ、こんなにも苦労する。だが、できた。鏃で腕を斬り落とした傷口はぎざぎざで、血止めの薬草も塗りにくい。モモは汗を拭う。鉄臭い汗は、薄く赤に染まっていた。
血まみれになり、モモは解体をつづける。男のもう一方の腕を。両足を。それぞれ根もとから斬り落とす。斬り落とす──というほど潔いものじゃない。弓矢の鏃という切断作業には向かない物で、しかも非力なモモが力任せに斬り落としたせいで、傷口は汚く、血は飛び散り放題だった。途中で男が死んでしまわないか、それが心配だったが、まだ生きている。恐怖と痛苦で血走った眼で、モモを見ていた。よかった、元気そうじゃないか。
「──、」
──よかった。
「ご主人、杭のナイフを貸してくれ」
サワタリが現れたのは、ちょうど良いタイミングだった。戸口のところで棒立ちになっているご主人に、モモは首を傾げる。もう一度、ナイフを貸してくれと云ってみたが、サワタリは動かない。
「借りるぞ」
無断で借りたことはなかった。それどころか、この杭のかたちのナイフには、触れたことさえなかった。サワタリの装備しているナイフを、モモは手に取る。それからだるまにした男の上にまたがると、その口の中にナイフを押しこんだ。
どれくらいの位置まで押しこめば、いちばん苦しみが長くつづくのか。その加減が判らない。だが、モモは見てきた。ご主人がこうして、男を殺すところをずっと見てきた。だから、迷いなくナイフを突き立てることができた。男が、えづいている。唾が垂れ汚い。ぐり、とナイフをまわす。男が更に激しくえづく。振りまわしたいだろう手足はない。男は苦しみ、苦しみぬいて、──死んだ。
否、モモが、殺した。
「……モモ」
「……、」
ご主人の声が、かすれて聞こえた。耳が、少しおかしくなっているかもしれない。眼もおかしい。ぐらぐらする。ぼわぼわする。暑い。血の臭いが喉の奥までべたべたする。
「モモ」
「ご主人」
自分の声が、どこか遠くに聞こえた。
「どうすればいい、とご主人は云った」
血まみれの両手を手首にぶら下げ、モモは云う。
「だから、おれは、こうした」
サワタリの足が、敷居を踏み越え戸をくぐる。
「おれはご主人の従魔だ」
だけれど、なにかを踏み越えた、のは、どちらだったか。
「おれのあるじはご主人だから、これが間違っていることだったら、おれを叱ってくれ」
サワタリの腕が、伸びてくる。いまだ男の上にまたがったままのモモの、両脇の下に手を入れて。抱きあげる手つきは優しかった。
モモを抱いたまま、サワタリは部屋を出る。モモは少しだけ、横たわったままの女性を見た。虚空を見つめたまま動かない女性に、心を残したけれど。結局、ご主人の腕から飛び降りることは、できなかった。
ふと、悲鳴が聞こえた。モモたちを見た家人が、なにか叫んでいる。人殺し、と聞こえた。そうだ、人殺しなんだ。おれもご主人と同じに──ようやく、なれた。
屋敷の外に出ると、既に日が暮れていた。暴力的な太陽光は地平に隠れてしまったが、昼間散々に熱せられた空気が滞り、蒸した。重たく暑い夏の夜を歩く、足どりは変わらない。モモを抱いていても。触れあったところから滲む汗が、ぺとぺとといいだしても。サワタリは淡々と丘を降り、でこぼこの道を歩み、昨夜も泊まった廃屋に辿り着いた。
廃屋の裏手に、井戸があった。枯れてはおらず、つるべで汲んだ水は清涼だった。頭から血をかぶっていたモモを、サワタリは抱いたまま洗ってくれた。魔物のすがたの時にするよう、丸洗いするには、人のすがたのおれはかさばる。それでもサワタリは、モモを降ろそうとしなかった。
「おまえは、真っ白だったのに」
蒸された風に紛れるよう、つぶやく。血をいくら洗いながしても、人を殺したことで汚れた手は、手ではないどこでも、汚れてしまってもうとれない。
「真っ白なおまえが、この世界を吸収してゆくのを、見るのが、好きだった」
「嫌いになったか?」
「……、」
いつか、サワタリの手が止まっていた。代わりに。
「……」
「……?」
ご主人の、首が動いていた。抱いたモモの方にかたむき、そして顔が。
「あ……」
顔が、かげる。ご主人の顔が、月の星の光りを短く遮る。綺麗なものから隠すよう、おおいかぶさってきた人を、ぼんやりと見あげても。輪郭もなにも滲んで、もう見えない。
「……」
「……」
キスが、ひとつ。落下して、熱を少し落として、ゆく。
「……」
「……ん、う」
ふたつめのキスは、深くあわさっていた。大きく口をあけ、かぶりつくようにキスをされ、モモは眼を見開く。
「ごしゅ、じ──う、んう、う──」
みっつめ。よっつめ。いつか数は隣りの数に融け、ただ長い。キスは、唇だけでなく口内を犯す。息を吸おうと開いた口唇に、すべるよう舌がはいりこんできて。激しく口のなかをのたうつ舌に、モモは眼を瞑る。眼を瞑って──。
「ご主人──!」
思いきり、両手で。サワタリの胸を押す。僅か、唇が離れた。顔が離れた。輪郭。眼の、色。ご主人の赤い瞳が──熱心に、モモの瞳を見つめている。
「もうするな、って云った。もうこんなことはするなって」
「云ったな」
「だめ、だめだって」
「うん」
うなずくくせに。どうして。サワタリの唇は、また、何度でも、モモの唇をふさぐ。喘いだ。呻いた。苦しい、キスだった。
「い、き」
苦しい、とは、つらいことではないのだと、思った。
「いき、したい、──んっ、う、う、い、き」
すう、と口の中に空気が入ってくる。貪るように息をしていると、首筋にちかりと、小さな痛みがはしった。
「ご、しゅじん?」
散々モモの唇をなぶった唇が、首筋にあてられていた。じゅ、と吸い、かし、と歯をたてる。擽ったい、などと感じるよりも先に、どくどくと心臓が鳴っていたのは、それがキスにつづく行為だと──性的な戯れだと体がもう、感じてしまっていたからだ。
「ご主人、サワタリ……っ」
キスが首筋を渡り、鎖骨に、胸に達した時、モモは震えていた。チュニックは濡れて脱がしにくかったせいか、破れている。──破った、のだろうか。ご主人が?
「サワタリ、おれだぞ」
「知っている。おまえに、している」
「おれなんかに、なんで、どうして」
「……から、といって」
不意に、胸のあたりに蟠っていたサワタリの頭が、もちあがる。赤い瞳が、モモのひとみを射ぬくよう見つめてくる。切迫した──切ない、視線。
ぎゅ、と。軈て、きつく瞑られたのは、サワタリの瞳の方だった。
「ご主人……?」
顎を引き、浅い呼吸を繰りかえす。サワタリの瞼はかたく閉ざされ、手指は微かに震えてさえいた。
でも、それでも。
呼吸はすぐに、いつもの落ち着いたものに戻り。手指の震えも止めて。サワタリは瞳をひらく。
「モモ」
かれは太腿に巻いたベルトの鞘から、ナイフを抜いた。つい先刻、モモが無断で持ちだした杭のかたちのナイフ。それを、今度は。サワタリの手がモモに握らせる。
「それで、俺の喉を突き殺せ」
「なにを、云うんだ、ご主人」
杭のナイフは、重い。さっき男を殺した時は、重さなんて感じなかったのに。
「俺はおまえを、強姦しようとした」
「ちがう。それはちがう」
「俺が今まで殺してきた男たちと、なにが違う」
「なにもかもちがうだろう。ご主人、キスは、おれがさきにしたんだ」
「その前に、帝都で──媚薬で動けないおまえを、俺は──」
「あの時だって、ご主人はおれの苦しみをらくにしようと、処置をしてくれただけだ」
モモはサワタリに抱かれた体勢のまま、むりに体をひねる。遠くに、夜の遠くに、杭のナイフを投げ捨てる。
サワタリが再び、装備していた杭のナイフを手に取る。モモは──その手の甲に思いきり噛みついた。
痛みよりも驚きでだろう、サワタリがナイフを取り落とす。モモは噛みついた手を掴むと、もう一度、唇を寄せる。モモの嚙んだ痕が赤く滲むそこに、キスを押しつける。
「……っ」
「! サワタリ」
ご主人の上半身が、覆い被さってくる。抱きすくめらて、好きだ、と爆発するよう思う。サワタリのことが好きで、好きで、大好きで。昨日よりも今日が好きで。毎日毎日、好き、を更新していって。これ以上好きになることなんてないって思うのに、またどうせ、明日、おれはこの人をもっと好きになる。果てなく好きだと、思う気持ちのままに、おれだって抱きしめたいのだと、両腕を伸ばした──その時だった。
「!」
「!?」
咄嗟に、眼を瞑る。光りが廃屋を焼いている。なんだ、と思う間もなく──事態は展開する。
「いたぞ!」
「おまえらの地主を惨殺したのは、この男で間違いはないか!」
無数のランプが、ランプの油さえ買えぬ貧しい村を照らしだしていた。ランプを持つ者たちは、兜をつけ、鎧を着ている──近隣の寨か、町に駐屯する兵士だ。警察の役割も担う兵士のもとへ、地主が殺されたと、屋敷の者が駆けこんだのだろう。だから、兵士たちが犯人を捕らえに来た。
モモは、サワタリの腕から飛び降りた。ランプの光線に身を曝し、声を張り上げる。
「おれだ」
虚を突かれたのは、兵士たちだけでなかった。
「おれが地主の男を殺したんだ」
みなが数瞬、動作を止めた。そして、そんな時最も速く動きだすのは、いつだってご主人だった。瞬く間にナイフを抜き、この程度の兵士ならば一息で全滅させている。
だが、この時は。
「パクスアニミ他、町々で被害が確認されている──連続殺人犯は、見つけ次第斬り捨ててよし!」
叫んだのも、剣を抜いたのも、踏みこんだのも、なにもかも兵士の方が速くて。
サワタリが、遅くて。
遅くても、それでもサワタリは──。
「ご主人……?」
ナイフを抜くことよりも、かれが優先したのは、モモを抱きしめることだった。
ど、と。跳ねた。モモをしまってしまうモッズコートは、暑い南域では脱いでしまっている。それでも、大切なものをしまうよう抱きしめた、ご主人の体が、跳ねた。
なにかが、おちてくる。滴だ。ぬるりとして重い。赤い。滴る血は、サワタリの口から溢れていた。
「ご主人!!」
サワタリの背中に、剣が突き立っていた。心の臓を貫かれても尚お、サワタリは自身の胸筋に力をこめた。貫通した剣先が、抱いたモモに届かないように。身を盾にする、という表現がこれ以上合うこともない。サワタリは、文字どおり自身の肉を盾にし、剣を遮り、モモを庇ったのだった。
「ご主人! ご主人!!」
「……俺は、重いだろう」
サワタリの体が、かしぐ。それでもまだ、まだモモを守ろうとする。その体をモモは飛びついて支える。だけど、モモの小さな、貧弱な体で、背の高いご主人を支えることなどできなかった。もろともに転び──また、這いずってサワタリは、モモの上にかぶさってくる。
「重いだろうが……俺の死体を、盾にして……」
ごぼ、とサワタリが血を吐く。声が。聞こえない。唇のかたちだけで、サワタリは云う。
俺の死体を盾にして、おまえは生きろ。
「あ……あ……」
サワタリから、急速になにかが失われてゆくのが、モモにも判った。心臓を貫かれては、いかなサワタリといえど──命が。命が、失われてゆく。
「サワタリ……?」
重たい、死体に向かって。ご主人、ともう一つだけ、モモは声かけた。
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