8th. きみの人殺し

 癒やしの珠を作るために借りた小屋には、その作業で用いた道具が方々に散らかっていた。それを片づけるつもりだったが、後まわしにすることにして。モモは盥を持ちだした。いっぱいにお湯を張り、その盥の前に椅子を置く。

「ご主人、座ってくれ」

 サワタリはなにも云わず、椅子に腰をおろす。

 モモはその傍にひざまずき、サワタリの靴を脱がせると、ズボンの裾をまくり上げる。

「足湯なんだ」

 パクスアニミの町の宿では、下男が足湯を使わせてくれた。それを隣りで見学していたのは、今日みたいな日に、少しでもご主人を癒やせないかと思ったからだ。

 サワタリが裸の足を盥の湯に沈める。モモは両手を湯の中に入れると、サワタリの足を湯の中で揉みほぐす。

「暑いな」

 サワタリのつぶやきに、モモはあっと声をだす。

「そうだった! 足湯は冬にやってもらったんだった!」

 パクスアニミの町に滞在したのは冬だった。今は真夏である。南域の、真夏である。

「すまないご主人、暑いよな」

 慌ててサワタリの足を盥から出そうとしたのだが。

「暑いが、気持ちいい。続けろ、モモ」

「は、はい!」

 ご主人、笑ってる。今日も今日とて間抜けな従魔に、愛想を尽かさなかったら良いのだけど。いや、アイテムの力であるじは従魔を思う作用があるのだから、クビになることはないだろうけれど。

 顎から滴る汗が、盥の湯に落ち幾つも波紋をつくる。暑い。だけれど、モモは懸命にあるじの足を揉む。撫で、さすって、少しでも強ばりを解くように……(強ばり?)

「モモ」

 顔をあげると、窓から入るぬるい風が頬にあたった。ぬるくとも、汗にまみれた肌に気持ちいい。

「この町から三時間ほど歩いたところに、村がある」

「村……ご主人がこの小屋にいなかった時、その村に行っていたのか?」

 思いつくまま云うと、サワタリはうなずく。

「俺の生まれた村だ」

「え……」

 モモは眼を瞠る。確か、サワタリは──。

「ご主人は、旅をしていて──それで、ジルを助けて、ふたりで旅するようになって──」

「さすがに、生まれた時から旅をしている者はいないだろう。ああ、旅芸人の子などはそうか」

「ご主人が旅に出るまで、暮らしていた村なのか」

「旅に出る、という明確な意思はなかったな。気がついたら、村を出て遠くを、歩いていた」

 ご主人の顔を見あげる。無表情に──サワタリは云った。

「父を殺した」

「──、……」

 息をのむ。ぬるい空気が喉をとおり、落下してゆく。

「父は、姉を強姦していた。俺はいつも、それを廊下から見ていた」

 サワタリの、赤い色の瞳は静かで。

「ちょうど、こんな風に暑い日だった。姉が、俺を呼んだ。最初で最後の言葉だった」

 囚われるよう、モモはその瞳から眼が逸らせない。──逸らしたくもない。

「たすけて、と」

 ああ──。

「姉は一言、云った。俺は台所に行き、朝に母が桃を剥いた果物ナイフを握り、引き返した。姉に覆い被さっている父の喉を、どうやって突いたのかは判らない。だが、口の中にナイフを押しこめ、喉を突いたことは覚えているんだ。手のひらの汗が酷くて、ナイフを取り落としそうで、ぎゅうぎゅうと握っていた……そんなことばかり覚えている。うまくできず、何度もやりなおして……気がついたら父の顔は血だまりの中で潰れ、原形をとどめていなかった」

 これが、サワタリの最初の、殺人。

「俺は父を殺したナイフを握ったまま、家を出て、村を出た──らしい。気がついたら、全く見知らぬ土地を歩いていた」

 サワタリの大きな手が、モモの頭に置かれる。

「……おまえは、よく泣く」

「ご主人が、泣かないからだ」

「そうか、俺の代わりに泣いてくれているのか」

「……うそだ。おれはおれのために泣いている」

 ぽとぽとと落ちる涙を、どうして止められないのか判らない。

 ただ、まだ真っ白な子どもだったサワタリが、朝食べた果物を剥いたナイフで、父を殺してしまったことを思うと。そのナイフを握ったまま、あてどもなく暑気のなかを放浪したことを思うと、心臓をしぼられたよう痛み、涙が溢れてくる。

「でも、だけど、ご主人は、ジルと出会ったんだろう」

「ああ。その辺りから、また記憶がはっきりし始める」

 食い物を盗んで、袋だたきに遭っていたジルを、サワタリは助けた。その後は、ついてくるジルと食糧を分け合いながら旅をした──盗賊団に捕まるまでは。

「ジルが──守るべきものがいるというだけで、俺は自分の存在をゆるすことができていたのかもしれない」

 泣きながら、うなずく。どうしたって嫉妬が混じって、汚い気持ちになって、それがかなしいけれど。ジルがいてくれたから、幼いサワタリは救われていた……。

「もう泣くな」

「泣く。ご主人とジルが一緒にいられないことは、かなしいことだ」

「おまえがいるだろう」

「……?」

 ハーフアップの頭を、大きな手のひらに撫でられる。

「俺には、おまえがいる。傍にいてくれ、モモ」

「……っ」

 身代わりでも、アイテムの力でも、なんでもいい。

「はい、ご主人」

 モモは折っていた膝を伸ばす。両手をご主人の首の後ろにまわすと、膝の上に抱きあげてくれる。思いきり抱きついても、全然揺らがない。揺らがないことが、また、かなしい。汗で湿った体を寄せあうのは、結して気持ちのいいものではなかった。それでも、抱きしめたかった。揺らがなくとも、不快でも、抱きしめたかった。

 サワタリを抱きしめて、ご主人に抱きしめられて、モモは泣いた。



 サワタリの生まれた村に連れて行ってくれと、モモはねだった。

 淡々とうなずき、ご主人はモモの手を引いてくれた。その手を一瞬でも離したくなかったから、モモは魔物のすがたに変げしなかった。

 サワタリの足で三時間かかる道程は、ふつうの人間──とりわけ体躯が小さく貧弱なモモの足に合わせると、その倍以上かかった。村に着く頃には夏の日もとっぷりと暮れていたが、小さな村に宿屋などはない。だが、サワタリは村の端にある一軒家にすたすたと入ってゆく。聞くと、住人のない空き家なのだという。サワタリは、あの養蜂の町からこの村に通うにあたって、この廃屋を拠点としたらしい。

 腐った畳のせいでなく、眠れないだろうと思ったが。いつもどおり、ご主人に抱かれると眠りに落ちていた。真夏の強烈な朝日で、モモは眼を覚ます。

「自分が産まれ育った村のことなど、忘れていた」

 サワタリは窓辺にいた。焼けつくような陽射しに眼を細め、起きあがったモモを見るともなくつぶやく。

「南域であったことは覚えていたが、それがどこであったのかなど、忘れていたんだ」

「でも、ここなんだろう? 思いだしたのか?」

「最寄りの町に、巨大な養蜂場があったことを思いだした」

「あの町に辿り着いたから……」

 ケマを求める旅の最後に、辿り着いた養蜂の町アピアリウム。あの町に足を踏み入れなかったら、今もご主人は、自分の産まれ育った村のことを忘れていた……。

「どうする? 何もない村だが、見てまわるか?」

「うん」

 うなずくと、サワタリが近づいてくる。上半身を起こしたモモの背後にまわると、髪に触れた。

「紐は?」

「あっ、ここにある」

 サワタリは器用にモモの髪をまとめ、ハーフアップにしてくれる。身なりを整えるのは、それだけで事足りた。ご主人が差しだしてくれた手に掴まり、モモは家の外へといざなわれる。

 南域の激しい陽射しが照りつける、村はそれに疲れたよう、色褪せてそこにある。家屋は見窄らしく、道はでこぼことして歩きにくい。ところどころに畑が広がっており、そこに育つ緑ばかりが眼に眩しい。だが、あまりに陽射しが厳しいため、収穫できる作物は少ないのだという。アピアリウムの町や──近隣の町で雇われ仕事をするほうが、よほど実入りが良い。だから村を捨て町へと移り住む者が絶えず、年寄りばかりが細々と暮らしている。

「サワタリのお姉さんは、どこにいるんだ?」

「……会ってやってくれるか?」

 うん、と大きくうなずく。サワタリはモモの手を引き、坂を登る。村を見おろすような丘があり、そこには今までこの村で見たどの家よりも立派な屋敷が建っていた。

「俺の生家はこの辺りの地主なんだ」

「地主」

「村人に土地を貸し、耕地料をとる。法外とまではいかないが、収穫から耕地料を支払えば、村人の懐に残るものは僅かなもので──かつかつの生活を余儀なくされる」

「ここの村人が貧しいのは、貧しい畑からやっと収穫した富を地主が独り占めしているからで──その地主が、サワタリの家だった」

「それで合っている」

「サワタリの家はお金持ちだったのか」

「所詮さびれた村の地主に過ぎないが。食う物や着る物に不自由した記憶はないな」

 サワタリは玄関をくぐらなかった。敷地の裏手にまわると、植えこみの上をモモを抱え飛びこえる。母屋と思しき最も大きな家屋は素通りし、庭の端にある小屋の戸を開けた。

「ここは──」

「家畜小屋だ」

「なんだって!?」

 ぷんと、動物特有の臭いが鼻を衝く。庭で鶏を見かけたが、あんな風に家畜は昼間、屋外に出されているのだろう、小屋の中は空っぽだった。──否。

 サワタリはモモの手を引き、すたすたと歩く。小屋の最奥に──彼女がいた。

「姉だ」

 彼女は──サワタリの姉は、放り捨てられたよう、藁の上に横たわっていた。毛布代わりに布がかけられていたが、方々が破れた襤褸だった。

「……、」

 モモはサワタリの手のなかから、自分の手を抜き取る。そのまま、彼女に駆け寄った。ひざまづくと、藁がちくちくと足を刺す。かまわず、覆い被さるよう彼女の顔に顔を近づける。

「こんにちは」

「……」

 眼は、開いていた。サワタリと同じ、赤色のひとみだ。うつろに宙を見る瞳を見つめ、モモは彼女に笑いかける。

「サワタリの──あなたの弟の従魔の、モモという。よろしくな」

 彼女の瞳が、のろのろと動く。視線がモモをとらえると、彼女は少し、首を動かす。それから、またのろのろと──動く。

「……」

 自分の上にかけられていた布を取り去り、それから──彼女が魯鈍な動作で取った体勢は。

「……っ」

 彼女は、モモに向かって、両足を広げたのだ。

「──男を見れば、足を広げる。そういうものになっていた」

 サワタリがつぶやく。モモは振り向かない。

「……まさか、ご主人が声をかけても、こうしたのか」

「ああ」

 ずきずきと、胸が痛む。──痛いのは、彼女だ。そして彼女の弟であるサワタリだ。おれは痛がる資格なんかない。

「出血しているな」

 彼女の腰の下の藁が、黒く変色している。血で濡れているのだ。彼女もまた、陰部からの出血が止まらぬ病いに冒されている。また、と表現するのは、モモの姉も──ほんとうは母であったのだが──出産時のダメージで、出血が止まらぬ体となり、十九才になってもおむつをしていた。

 だが、サワタリの姉は、おむつすら履かせてもらえず、藁の上に捨てられたきりなのだ。

 モモは彼女の足をそっと閉じさせると、もとどおり布をかけてやる。それから、ポーチの中を探り、丸薬を取りだした。

「口を開けてくれるか? 病気を治す薬を飲もう」

 唾液で融ける薬だから、水がなくとも飲みくだせるだろう。ぼんやりとモモを見ている彼女に、根気強く、口を開けてくれ、と頼む。

 そのモモの声を聞いたわけではないのだろう、だが、彼女の口が緩くひらいた。モモはそっと、その口に丸薬を含ませる。

(歯が──)

 彼女の歯は、ぼろぼろだった。殆どが抜け落ち、残った歯も虫歯だらけで、この家畜小屋の中でも臭う。頬の筋肉も衰えているのだろう、口の端からだらだらと涎を垂らしている。丸薬が融けだした、緑の涎だ。モモはそれを、手のひらで拭う。

「──屋敷に囲われている女たちが、日に一度だが、世話をしに来てくれている。うち捨てられた女などにかまったところで、何の利もないのに──よく来てくれて……それで、姉はどうにか生きながらえている」

 痩せ衰えた腕は、貧弱なモモの腕よりもなお細い。それでも、彼女は生きている。女性たちの思いやりによって、生きている。

「どうして、お姉さんはこんなところにうち捨てられているんだ。地主の娘、になるんだろう?」

「俺が父を殺したから」

 サワタリの答えは明快だった。

「いくら地主の家だとて、母と姉の女だけでは立ちゆかない。母はすぐに再婚をした。その継父からも、姉は繰りかえし強姦された。母が死に、性暴力はエスカレートし、果てに姉は廃人となりうち捨てられた。継父は新しい妻を得て、新しい娘を得て、若い女を次から次に得た。うち捨てた先代の娘のことなど、疾うに忘れてしまっている」

 俺の殺人のあとざまがこれだ、とサワタリはつぶやく。

「俺が男を殺しても、女は救われるどころか、また別の男に搾取されるにすぎない」

 それが、この世で。誰よりもサワタリ自身が、よくよく知っていたことなのだろうけれど。

「女を救うためじゃない。俺は、俺のために──行き場のない衝動のために、男を殺している。だが、それは、なんなのだろうな」

 サワタリは──恬淡としていた。悲しいようにも、つらいようにも見えない。どこにもよりかかることなく、すらりと立ち、姉と、彼女に寄り添うモモを見つめている。

「なんなのだろうな……俺は、どうしたらいいと思う?」

 モモは、サワタリの姉に寄り添ったまま、顔だけサワタリに向ける。

「おれは、はじめご主人が嫌いだった」

 従魔契約をしたばかりの頃。サワタリが残忍に人を殺すさまをみては、嘔吐していた。冒険者の従魔となり、その命令に従って人を助けることが夢だった。それなのに、とっておきのアイテムを使って契約をしたサワタリは、冒険者ではなく人殺しだったのだ。

「でも、女の人は、ありがとうって泣くんだ。自分に酷いことをした男を、殺してくれて、ありがとうって」

「おまえが──」

 サワタリが殺すのは、無辜の民ではない。女性に性暴力をふるい、それを罪とも思っていない男たちだ。だから、女性は、ありがとう、と云って泣く。何度も、何度もモモは見てきた。

「俺が父を殺したとき。おまえが、姉にそうやって寄り添ってくれていたら──姉は、心を毀していなかったかもしれない」

 ご主人が最初にくれた命令を、思いだす。

「妄想をしていた。おまえが、レイプされた姉に寄り添う妄想だ。とうとう、ここに来たおまえは、そうして姉に寄り添ってくれている」

 そして、とサワタリは続けた。

「おまえがそうやって、性被害者に寄り添うたび、俺もまた救われていた」

 サワタリの顔色は変わらない。恬淡と立つ姿勢も。淡々と語る口調も、なにもかわらない。

「ご主人」

 モモは片手を、サワタリの方へのばす。

「こっちに来てくれ」

「……俺が行くと、姉はまた足を開く」

「だいじょうぶだ。足を開いたら、閉じてあげればいい」

「──」

 サワタリは──踏みだす。家畜小屋のささくれた床を歩き、モモの伸ばした手を握る。

 モモに引かれるまま膝を折ったサワタリを見て、サワタリの姉が足を開く。何度も──ここへこうして来るたび、サワタリは何度もこれを見てきたのだろう。モモは彼女の足をそっと閉じさせ、それはもうしないでいいんだ、と耳許でつぶやく。

 赤い瞳は、白目の部分が濁っている。口臭も変わらず酷い。涎まみれの口を、モモは心をこめて拭う。それから──。

「弟のサワタリだ、わかるな?」

「わかるまい」

「わかる」

 云い聞かせ、モモは握っていたサワタリの手を、かれの姉の頭に持ってゆく。サワタリの大きな手。ごつごつしていて、でも、モモの頭を撫でてくれる時はとてもとても、優しい……。

「サワタリだ。あなたの、弟だ」

 サワタリの手の甲に、手のひらをかぶせて。指を絡めるようにし、モモはかれの手を動かす。サワタリの手が、モモの導きにより、かれの姉の髪を撫でる。

「あなたの弟が、あなたに酷いことをした男を、殺してやったんだ」

 濁ったひとみが、のろのろと動く。口臭が、モモの顔にあたる。もう一度。二度。彼女は──声をだそうとしているのだ。

 さ、わ、た、り。

 そう、口のかたちが動く。声は出ず、口臭ばかりが撒き散らされる。だが、彼女は確かに、サワタリと──弟の名を呼んだのだ。

「……ねえちゃん」

 ぽつ、とサワタリが呼びかえす。サワタリの手はモモの手から離れ、姉の乱れもつれた髪を撫でる。ぎこちなく、だけれど、モモの知っている優しい手つきで、くりかえし撫でつづける。

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