最終話

 その瞬間、一発の銃声が響いた。やがて力を失ったかのように彩香がくずおれた。両手に構えた千里の拳銃の銃口から煙が上がっている。彩香よりも千里の引き金を引くタイミングが幾分速かった。彩香からやや離れた床の上に拳銃が転がっている。千里は的確に、彩香の握る拳銃をはじき飛ばしていたのだった。


 顔を伏せて横座りになっている彩香に、千里は歩み寄ってしゃがみ込んだ。そして、彩香の両手を自分の両手で緩やかに包んだ。

「あなたはもうなにもしなくていい。なにもしなくていいの」

千里の温厚な言葉に、彩香は涙を流しながらすすり泣いた。


 警視庁の大会議室。綿矢は手を後ろに組んで直立したまま、窓に映る曇った遠景に目を遣っていた。後ろで、千里が壁に寄りかかって腕を組んでいる。室内にはそのふたりしかいなかった。

「辻井彩香が所持していた拳銃と事件に使用された弾丸の線条痕が一致した」

綿矢が深みのある声で切り出し、千里に伝えた。

「彼女が取り調べで口述していたそうだ。自分のしたことは正義だと」

「わたしにも似たようなこと言ってた」

千里は綿矢に目を背けたまま返した。

「きみはこれをどう思う?」

綿矢が問うと、千里は自身の意見を簡潔にひと言で済ます。

「正義なんて人それぞれでしょ」

千里の答えにしばらく沈黙していた綿矢が口を開く。

「そうだな」

わずかにうなずいた綿矢は語った。

「正義と悪は、その人間によって判断が異なる。正義と考えてした行為でも、別の人間からすれば悪行に見える。この世の中は、そういう判然としない状態で成り立っているのかもしれん。だが、警察組織は法に則り悪を判断する」

続けて綿矢が厳しい口調で言明した。

「辻井彩香は悪だ」

綿矢の見解に千里が異を唱える。

「でも、彩香さんの気持ちはわかる。私も同じだった」

振り返った綿矢がサングラス越しに千里を睨みつけ、重々しく見定めた。

「とすれば、きみは警察官でありながら彼女の言う正義を認めることになるぞ」

「それでも構わない。本当にそう思ったから・・・」

千里は素直に真意を述べた。


 綿矢は顔をこわばらせながらも千里に訊ねた。

「それで、珍しくきみが私を訪ねたのはなぜだ?」

「あんたに貸しがあったわよね」

千里は今まで逸らしていた視線を綿矢に合わせると、怪しく微笑んだ。

「早速返してもらいたいんだけど」


 翌日、ニュースや新聞が大々的に嶋本の不祥事を報じた。そして、杉内の死に関する実情も。千里の強硬な申し入れで綿矢は仕方なく、秘かに捜査情報を報道機関に流すことで、その貸しを帳消しにしたのだった。寝耳に水だった警視庁の上役たちは、報道陣の対応に苦慮する事態となっていた。


 七節警察署の屋上では、千里が柵に腕を置き、放心した様子で青い空と街並みの境目を見つめていた。

「緋波さん」

階段を上がって来た滝石が千里に声をかけた。

「なに?」

滝石を一瞥いちべつした千里が訊いた。

「事件がひと段落ついたので、ちょっと休憩です」

千里の隣に立った滝石は、両手で柵を摑んで景色を眺めた。

「べつに私んとこで休憩しなくても・・・」

釈然としない千里に、滝石が話し始める。

「本庁の方が話してるのを聞いちゃいました。嶋本理事官、辞表を出したそうです。事実上の懲戒免職でしょう」

少し間を開けて千里が無情にあしらった。

「嶋本はこれからが地獄よ」

どこか浮かない表情で滝石が言う。

「辻井さんはどうなるんでしょうね。動機が動機ですから、情状酌量の余地はあるんでしょうか」

滝石は彩香が犯人だということが内心信じ難かった。

「どうだろうねえ。理由はどうあれ、四人も殺してるわけだし」

千里が現実的な答えを示した。滝石は精神的打撃を受けたようだったが、なんとか気負いを拭った。


「緋波さんは彼女を逮捕したあと、また会ったりしたんですか?」

 滝石がなんとなしに質問すると、千里は首を振った。

「逮捕してからは会ってない。でも近いうちには会いに行くつもり。ちゃんと生きてるか確かめないと」

千里の愁眉しゅうびな表情を見た滝石の顔が自然とほころんだ。遠回しな言い方だが、千里も彩香の身を案じているのだと思ったからだった。すると、滝石のスマートフォンが振動音を鳴らした。

「失礼」

滝石がスマートフォンを取り出して電話に出る。

「滝石です。はい・・。はい・・。わかりました。すぐ向かいます」

通話を終えた滝石が千里に言った。

「係長からでした。九丁目界隈で傷害事件とかで」

「忙しそうね」

千里はひと言発して眺望を続ける。

「警察は暇なほうがいいんでしょうけど、ここじゃそんな余裕与えてくれませんよ」

答えた滝石は、スマートフォンを上着の内ポケットに入れると千里に挨拶した。

「行ってきます!」

一礼した滝石は駆け出していった。


 警視庁の監察官室。監察官の磯淵才蔵いそぶちさいぞうは自席に腰掛け、疲弊した様子でため息を吐いていた。その前の応接ソファには綿矢が座っている。

「被疑者が供述した音声データとやら。聴いたよ。まさか笠岡議員がねえ・・・」

磯淵はわが目を疑うような口ぶりだった。

「問題は警視庁の警察官が四人も、不正行為に加担していたことです」

正面にある低い机の一点を凝視しながら綿矢は言った。

「わかってる。こっちはその対応に追われてるよ。きみも知ってるだろ」

磯淵が粗略そりゃくな返し方をすると、綿矢は呟いた。

「だが、四人ではなさそうだ」

おもむろに立ち上がった綿矢は真向いに目を遣り、手を後ろに組んだ。

「磯淵監察官。あなたは三年前、笠岡議員に何度か接待を受けていますね」

「な・・!?なぜそれを・・・」

誰にも他言していないはずのことを突然振られ、磯淵は驚いた。

「被疑者が供述した黒沢という記者についてこちらで調べたところ、彼は銀行に貸金庫を持っていました。金庫の中には、笠岡議員の不正を示す資料が数点入っていました。そのうちのひとつに、あなたと笠岡議員の談合の様子が記録された映像と音声データがありました」

綿矢は磯淵を視界に入れずに続けた。

「彼が盗撮や盗聴をしたものでしょう。内容はあの四人の昇進や配属に関することでした。当時、磯淵監察官は警務部人事一課におられた。一部は管轄外ですが、長年警務に携われているあなたには伝手つてがあった。それだけならば申し分はありません。重要なのはそのあと・・・」

磯淵の背筋に悪寒が走る。

「あなたがその際、多額の賄賂わいろを受け取っている姿が映っていました。磯淵監察官、あなたも金で笠岡議員に買われたひとりだったわけだ」

綿矢の暴露に磯淵の心臓の動悸どうきが激しくなる。

「古橋警部補の処分を下したのもあなただそうですね。彼とも裏の繋がりがあったのではないのですか?」

その問いかけに、磯淵は口をつぐんでいる。

「黙秘したければそれで結構。このあとは私の仕事ではありません」

綿矢はそう言うと、磯淵に告げた。

「つい先ほど、警察庁の首席監察官にこと顛末てんまつを報告いたしました。近いうちに磯淵監察官のもとへ聴取にやって来るでしょう」

磯淵の顔が次第に青ざめていく。

「ある意味あなたには感謝しています。この一件で私は、またひとつ高みに登ることができる」

言い放った綿矢は満足げな笑みを浮かべ、サングラスに隠された隻眼せきがんは、あざけりの様相を呈していた。


 彩香は警視庁の留置場にある簡素なベッドで、うずくまるように横たわっていた。

「It can really make me cry・・ Just like before・・・」

そして兄が生前好きだった洋楽の歌詞を、壁に向かって小さな声で口ずさんでいた。その姿はまるで抜け殻のようだった。


 千里は未だ警察署の屋上でぼんやりと余韻に浸っていた。

「正義と・・、悪・・・」

頭の中で綿矢との会話を反芻はんすうしていた千里にある意識が及ぶ。

「私はどっちなの・・・」

自問した千里だったが、深く考えるのをやめた。ふと気づいて腕時計を見る。

「もう帰ろ・・・」

呟いた千里は歩き出した。背後で小鳥のさえずりが聞こえる。自分にとって平穏な日常がまた戻りつつあると、そのとき感じたのだった。

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