1月 : 小雪
◆小雪◇
小さな雪。
いかにも儚げで、すぐにとけて消えてしまいそうなその名前が、どうにも自分には似合わないと感じていたからだ。
小雪は上背があり、スラリとした肢体を持つモデル体型の女性だ。
肌も健康的に浅黒く、日焼けをしているように見える。
これは彼女の生まれつきの肌の色で、色素の薄い髪の色は太陽の下では橙に似た金を帯びた赤茶色。更には目鼻立ちのはっきりとした顔立ちと来たものだから、幼少期から今に至るまで何度もハーフか、外国人なのかと訪ねられた。
それを疎ましく思っていたような気もするし、誇らしく思っていたような気もする。
思春期の頃の自分は自分であって自分では無いもののようだったと、小雪は思う。
小雪は特別に運動が好きなわけでは無かったが、その見た目からなのか、よく体育会系の部活やクラブに勧誘された。だが、実際の所運動は大の苦手だ。
水泳以外はからっきしで、がっかりされることばかりだった。
期待していた目があっという間に正反対のものになるのを見るのは、他人の機微に疎い性分の小雪にとってもあからさまで、嫌なものだった。
運動ができないというだけで人間の価値はそんなにも下がるものなのだろうか。
口数が多いわけではない小雪は、理不尽な想いや憤りが自分の中に生まれるのを感じてもそれを発散させるすべを持っていなかった。
水泳が妙に身体に馴染むことに気づいたのは中学に入ってからで、それが少なからず、自分のストレスを発散させてくれるとわかると、小雪は毎週1度は水に入れるように近所のジムに登録をした。
そのジムはスイミングスクールが併設されたこじんまりとしたプールで、市民なら300円、市民で学生なら150円で入ることが出来た。
温室のような、あのムアリとする湿気を含んだ空気の重さ、鼻の奥に無遠慮に侵入してくるような塩素のツンとした匂いは苦手だった。けれど、水面を割って入っていく瞬間の、あのスルリと違う空間に連れて行かれるような感覚がどうにも好きだった。小雪の表皮に張り付いたもやもやとした何かをすっかりこそげ落としていくような気がするからだ。
小雪に子どもが生まれたのは、18歳の時だった。
相手はそのプールで知り合ったずいぶん年上の人で、でも傷つけられた少年のような、儚げな目をした人だった。
「誰もいない海で泳いでみたい」
そう言った小雪を、一度だけ貸し切りの海に連れて行ってくれた男。
名前は知らない。
年齢は12歳上で、車体の低い車に乗っていた。
あとは、そうだ。心臓の弱い人だった。
あの人のことを何もかも知っているようで、何もかもを知らない。
身体が触れ合うたびに、でもそんなことはどうでもいいことだ、と思った。
あの人も、小雪の名前や、年齢や、連絡先さえ知らないままだ。
あの時の二人はそれで良かったし、そうしたかった。
そういう関係でいなければきっと、もっとずっと早く壊れてしまっていただろう。
すべてはたった数か月の間のこと。
初夏から初秋までの、瞬きをしていた間に起った程度のできごとなのだと思うと、小雪の心はいつだって驚くほどに穏やかに澄んでいく。
自分のたったひとつの恋だったと思う。
あの、昔話の雪女がしたような恋。
そして永遠に続くような夏の終わりに、男は死んだ。
小雪はそれを見たわけでも知らされたわけでも無いのだけれど、それでもそれが起こったことを体のどこかで感じていた。
彼が自分でそうしたのか、自然にそうなったのかはわからなかったけれど。
◇聡◆
聡の実家は古い家系図のあるような田舎の、まぁ廃れた名家の縁続きで、様々な言い伝えがうっすらと残っている、中途半端な家だ。
本家筋から伝わったどうでもいいような仕来たりやルールが残っていたり、捨て置かれたり、忘れられていたりするような、つまりそんな家で聡は育った。
その中の一つに、本家筋の男が30歳を過ぎて独身の場合は行くように、と言い含められている場所がある。
それが『泡沫の夢』なのだという。
「……風俗?」
そう聞いた聡を、電話の向こう、父親の横で耳を当てて聞いていたらしい母親が汚らわしい、と言い募り、親子の縁を切るとまで言い出したのは昨日の夜のことだ。
聡の父は入り婿で母親の言いなりだから、聡を自分の妻から庇うことなど一度もしてくれたことなど無く、当然その電話の向こうでも無言であった。
いや、咳払いくらいはしただろうか。
だって、泡沫の夢だなんて、あからさまな名前じゃないか。
いつかは消えてしまう夢のような場所というイメージしか沸かない。そう憤りながらも、聡は母の指示に嫌々ながら頷いた。
どうやらお見合いをさせる場所のようなのだが、インターネットでいくら調べても情報は出てこない。
そんなもので出てくるような胡散臭い場所じゃないのだと言う母の言葉を五月蠅く思いながら、聡は頬杖をついてPCで調べた情報を流し見する内に
仕事終わりに、素っ気無い一人暮らしの部屋でコンビニの弁当を温め、一人で缶チューハイを飲みながら両親からの電話を聞きつつ、
ネットで調べた「お見合いサイト」の『充実した日々が始まったのはお見合いをしたから』とでもいうような画像や利用者からのメッセージに触発された、ともいえる。
「いくらか金がかかるのか?」と聞いた聡に
「相手によるらしい」と言う母親は、それでもいくらかかってもいいからそこへ行けと言う。行って嫁を取れ、と。
相手によるって何なんだ?
聡はそう思ったが、ここでこれ以上口を挟むのは経験上よろしくないぞ、と唇をきゅっと引き締めた。
聡の母親は昔気質な人で、聡と二人きりの時は比較的頭の柔らかい父親よりもずいぶん厳しかった。
悪い言葉を使ってはいけない、髪を染めてはいけない、金の貸し借りはいけない、飲む、打つ、買うはご法度だと言われて育った。
母親の教育方針に反抗するほどの気概もなかった聡は、清く正しく美しく生きて来たのではないか、と自分では思っている。それなりには。
ちなみに、付き合い程度の酒は勿論母親からも許されている。
過度に飲むな、と言うことであって。
兎に角、そんなかたッ苦しい母親が『いくらかかってもいいから』などと言う状況は珍しく、聡は内心で驚いていた。
こんな訳の分からないことを当然のように受け入れて指示するような母を見たことなど今までに一度も無かったのだから。
お見合いをしろ、までは分かる。母の言いそうなことだ。
お見合いで食事代やなんかを男側が払うのも普通にありそうだ。場所代だってあるんだろうし。
でもやはり引っかかるのは「相手による」の部分だ。
一度飲み込んだ疑問が、8割方酔いかけた聡の口からポロリと滑り出る。
「なぁ、普通のお見合いじゃないのか?
成約金とか、結婚すると相談所に支払うって書いてあるぞ、ネットには。
相手によって変わるなんて、おかしいんじゃないか?
騙されてるんじゃないのか、その、ちょっと変だし?今日の母さんは」
聡がそう言うと、とうとう父親から受話器を奪い取ったらしい母親がこう言った。
「あんたは二言目にはネットネットって、都会かぶれして!
狩納家の言い伝えだから行かなきゃならないんよ!
そうしないと、あんた死んでしまうかもしれんでね!」
「はぁ?」
「いいから、行くんよ?明日、私らもそっちへ行くけんね!」
電話を切った後、飲み切ったチューハイの缶を潰してから、冷蔵庫の前でビールを飲むかしばらく考えて伸びかけた手を、止める。
酒は好きだがすぐに酔う、安上がりに楽しめる人生だ。ほろ酔い気分を長く楽しめる、そんな自分の身体を気に入ってもいる。
聡は良い気分で風呂に湯を張るためのボタンを押す。それを待つ間、布団を敷いた横の畳に寝転がって天井を眺める。畳が恋しくてこの部屋に越してきたのは1年前だ。
叔父の7回忌が早まって地元に帰った時に畳に触れたのがきっかけだった。
鼻の穴からスンと大きく空気を吸い込むと、真新しいわけでもない畳から、青い草の匂いがする。
叔父は心臓が悪かった。
少し体調を崩すと寝たきりになることもあった。
医師に勧められて通っていたプールに行った次の日なんかは、いつも畳敷きの寝室で布団に横になっていた。
聡は子供の頃から勉強やコマ遊びやゲームにつき合ってくれる年の近い叔父に懐いていて、大学に行くまではその畳敷きの部屋にほとんど毎日通っていたほどだった。
叔父が寝ている時は、横で静かに本を読んだ。
畳の匂いには、叔父との思い出が染みついている。
ふいに天井に浮かんだ叔父の顔が薄れて行って、母親の顔になる。
年の離れた姉弟だったがよく似ていて、年を取って皺の増えた母には未だにどこか叔父の面影がある。
叔父が線の細い人で、中性的ともいえる顔立ちだったせいもあるかもしれない。
『あんた死んでしまうかもしれんでね!』
母からの、電話先での言葉がパッと蘇る。
「…死ぬってなんだ?」
未婚男性の寿命が短いってやつかな?そう思いながら、聡はのそりと立ち上がって、夕食と晩酌に使った箸と小皿を軽く水で洗う。
コンビニや弁当屋で渡される割りばしの匂いがどうにもダメで、小さな食洗器を買ったのは数年前だ。
水道代も節約になるし、手では行き届かない部分もしっかりと熱湯やら何やらで消毒してくれる。
毎日の食器洗いの手間が省けて初期投資に5万と月々の電気代程度なら、社会人になった自分が手に入れるには安いと聡には思えた。
ボーナス払いという魔法の言葉が使えるようになって5年もたつと、大学生の頃とはずいぶんと金銭感覚が変わって来ている。
数年前の金の無さを思い出すべきだ、とは思う。
贅沢が身について良いことなど何もない。
100円均一で買い揃えた食器はいまだに現役だし、十分に役目を果たしている。こいつらの方が先輩だからな、と思いながら食洗器の扉を撫で、中に食器を入れる。
食洗器よりも、この食器の方が年数的には頑張るだろうな。
一人分の食器や小さなアルミ鍋なら、大きな食べカスを取ってサッと水で流してここに入れれば洗っておいてくれるのだ。とても便利で助かるが、機械は複雑だからどんなに大切に使ってもいつか寿命がやって来る。箸や食器は割れたって少しくらいなら使えるし直せるけど、機械はそうはいかないだろう。
人と同じように、こいつともいつかは別れることになる。
(なんだか寂しいな)
聡はそう思い至ると、うるんだ目で同じように買った自動走行型の円盤型掃除機ロボットを見つめる。
これには届いたその日に愛着が湧いた。一緒に暮らし始めて3年経ったが、未だに充電ホームに自力で戻れなかった姿を見つけると「かわいそうにな、がんばったな」と声をかけてしまうほどだ。
集めたごみや塵を捨てて手入れをしてやる度に、やはり「いっぱい集めたな、がんばったな!」と褒める。
聡はとにかく誰かや何かが頑張る姿に弱いのだ。
それはきっと頑張って生きる叔父を見ていたからだし、叔父が聡をよく『頑張ったな』と褒めてくれたからだと思う。
今の時代、わざわざ食事を作らなくても自分でキチンと選ぶことさえすれば栄養が偏るということはないが、それでも店の厨房で見知らぬ誰かだろうが、人の手で頑張って作ってくれたのだと感じる出来立ての食事は栄養まんてんな気がするし、美味いと感じる。
宅配便だって宅配ボックスや郵便受けが受け取ってくれるけれど、それは配達会社で働く人たちが柔軟に対応を変化させてくれているおかげだし、
建物の設計や整備の人たちが住人の住みよい暮らしを頑張って良くしようとしてくれているおかげだ。
都会ってみんなが頑張ってるんだなと、社会人になったばかりの聡は感動したものだった。
風呂もエアコンも洗濯も予約すれば全自動だ。干すだけだったり、あるいはもう乾燥までされている。
「あとは畳むだけだな!がんばれ、洗濯機!」と、酔って語り掛けることは数回ではきかない。
こんな風に、生活はどんどん便利になっていて、結婚の意味って何だ?と聡にはわからなくなってきてもいる。
家族のありがたみはわかる。でも、その代替行為を補ってくれるサービスや機械があると、残るのは愛情だけだ。そうなるととたんに聡は迷路に迷い込む。
一生好きでいられる相手なんているんだろうか。
金銭面や生活面では多少楽になったり優遇されたりするのだろうが、子どもを持てば金がかかる。
補助金やら支援やら制度は多様にあるものの、学費のことを考えれば完全にマイナスだ。
ただ子どもを生かしておけば良いとでも言うつもりなら今のままでも良いのかもしれないが、将来子供に自分の世話を背負わせるためなんて言うのはお門違いだ。
子供に支えてもらうつもりなんて毛頭ないし、子どもが出来ればやっぱり教育の機会は与えてやりたい。昔気質の母のように、聡もそう思っている。
人の一生を背負うと言うのは簡単にいくわけじゃない。
せめて出産にかかわる費用と併せて幼児期から大学卒業までの学費と医療費を全部0にしてくれ。そこが子どもを作ろうと思えるスタートラインだ。
自分とパートナー以外に子どもを守れる人間がいないという状況が当たり前な時代に、それくらいの保証が無ければ子どもを持とうとは思えないだろう。
俺が死んで、パートナーが死んだら、子どもは進学できるのか?
絶対に学費なんか気にせずに選択できるのならいい。
生活に追われて、行きたいのに学校が選べない、そもそも学校なんか行けないのなら駄目だ。
生命保険会社が『残し行く子どもの進学のために』とかいうCMを作ったが、あんなものが無くても行きたい学校に行ける、そんな国にならないと安心して子どもなんか作れない。
大人になって親のしてくれたことや責任を理解するほど、結婚と子育ては遠いものになっていく気がしている。
「本当に、子育てしてる全ての人を尊敬するよ…」
頑張ってるよな、本当に。
聡は心の底からそう思う。
ピーピーと鳴るガス給湯の管理画面を見上げると、風呂が沸きましたというメッセージが点滅していた。
聡は服を脱いで洗濯機に入れていく。
子どもの時には、料理や洗濯や家の管理なんていうものが自分にできるなんて到底思えなかったな、と思いつつ、惰性でこなせるようになった家事は自分でもそこそこ程度にはできている方だと思う。
汚部屋の住人とは、多少仲良くはなれても恋愛感情は抱かないし、一緒には暮らせないだろうなと感じる。
女性に生活面での世話をしてほしいとは思わない。
そりゃ、やってもらえば楽だろうけど、タスクが終わっていく感じが心地いいと思えるのだから、自分は家事が嫌いではないのかもしれないと聡は思う。ただ、他の人の面倒まで見たいかと言われたらそれは違うのである。
身体を洗って湯船にもぐりながら考える。
今回の電話をきっかけにして、聡は『結婚=子ども』だという意識が自分の根底にあることに気が付いた。それは一つの収穫だなと思う。
だからこそ今までの恋人と結婚しようと思えなかったのだろう、ということにも思い至る。
聡の人生で今までにできた恋人は二人だ。
一人は学生時代に浮気をされ、愛情なんて初めから無かったのかもと思うほどに一気に冷めた。
聡は浮気する『母親』なんて許容できない。子供を育てながら他所で女の顔をするような妻を母と慕う子供の姿…そんなものは見たくない。
だから浮気をした恋人との結婚なんて当然考えられなかったのだ。
もう一人はキャリアウーマンで、彼女からは子供が欲しくないと言われた。
ずっと働いて、自分の好きなことにお金を使いたい。
老後を楽しむために二人で生きていくプランを一緒に考えてほしいという彼女の言葉に、そういうのも楽しそうだな、と思った自分もいた。それでも結婚しようと思えなかったのはそういうことだったんだろうな、と聡は思う。
彼女のことはしばらく引きずった。それでも聡は別れを選んだし、忘れることもできた。
「俺が求めているのは、子どもにとって理想の母親、かな」
都会の道を歩けば恋人たちが歩いているのがいくらでも目に映る。彼らは結婚するのだろうか?それとも別れるのだろうか。
スーパーや公共施設で休日に見る家族連れの姿はいかにも幸せそうなものに見えるが、実情はそんなに甘いものではないだろうとも思う。
若い頃のように、リア充爆発しろ、などとは言えなくなってきている。
そんな風に思う焦りも勢いももう無いし、家族連れで出かけるという行為自体が出来ている時点で、彼らが頑張っていることがわかるようになった今は、おお、休日なのに偉いな、お疲れさん、楽しい思い出になるといいな、と心から労いの気持ちが浮かぶ。
彼らにかつての焦燥感や嫉妬心の塊のようなそれを言ってしまえば、聡は明らかに自分の在り様を惨めだと感じてしまうだろうとも思う。
『リア充爆発しろ』と言うあの言葉は、リアルを知らない馬鹿で無知な若造が口を滑らせるか、
そう思いつつ、風呂上りに飲んだ小さな小さな缶チューハイでしっかりと酔って眠る頃には母親からの電話の内容などほとんど忘れていて。
聡は、なんでこんなに『結婚感』やらを考えているんだったっけ、と不思議に思いながら、久しぶりに心地よく夢に落ちた。
◆聡◇
誕生日を昼過ぎまでベッドの中で過ごすはずだった聡は休日の朝早くに田舎からやって来た両親に叩き起こされた。
昔から母はなんでもお見通しだ。
父は苦笑いしながら、重そうな紙袋を持ち上げて見せた。あの中身は母の手料理だろう。聡の好物ばかりを詰めた保存パックの山を目の前に口答えなどできようものか。
形ばかりに「誕生日おめでとう」と言った父を押しのけて、母は口を開いた。
「この招待状を持って、この案内の通りに道を歩いて行かなければ辿り着けれんけんね」
そう言うと母は聡に一枚の封筒を握らせた。
白地に浮き上がるように加工された薔薇の形がしっかりと指に伝わってくる。刺さるような棘までも再現されたそれにはカードが差し込まれているようだ。
開いてみると地図が挟まれていて、カードには聡の名前だけが書かれている。
食料を冷蔵庫に詰め込んだ母がさてとと言うと、いつの間にか椅子でくつろいでいた父が立ち上がる。
「じゃあ、行くけん」
聡の貴重な休みを奪いに来た二人は、来て早々に出るという。
「久しぶりに来たけん、美味しいもの買って帰るんよ」
まだデパートは開いてないぞ、と聡が言うと
「スタバに行くけん。あそこのワッフルが美味かってお隣の唯ちゃんが教えてくれたんよ」
そう言って目を合わせて笑った二人の自由そうな姿に面食らう。
聡は、家を出てからこっち、自分がいなくなって二人が気まずく暮らしているんじゃないのかと思っていた。
聡が高校を卒業して大学に入るために上京する時、母の小言の矛先はこれからすべて父に向くのだと申し訳無い気持ちになった物なのだが。
「スタバね…」
寄り添って歩く二人の背中を見送って、聡は家の中に戻った。
喉の奥に、異物が放り込まれたような気持ちだ。
顔を洗って、身支度を整え、財布と招待状だけを持って家を出る。
火照った頭に冷たい風が当たる。
冬は好きだ。
しかし今時、昔ながらのお見合いなんて、もっとずっと高貴な家柄だって自由恋愛の時代だぞ。
学生時代を逃せば出会う機会が少なくなっているのはわかるが、インターネットで見た婚活はもっと気軽にチャレンジできるもののように見えた。1対1での合コンやサークルの飲み会のような気軽さを感じる。
ただ、聡の求める女性がそういう所にいるのかと聞かれれば…いるとは思わなかった。
そんなことをつらつら考えながらも、じゃあこれから向かう場所は何が違うのか、とも思う。
『つき合うために出会う』のと『結婚するために出会う』のとは、どう違うのか。
根が真面目な聡にはつき合うことは結婚の地続きだ。
そうじゃない人がいることも知っているし理解しようと試行錯誤する性質だから、頭の中で矛盾が生じる。
そんな風に頭をひねりながらも、聡は地図通り、正確に道を歩く。
休日の朝10時すぎだ。
目線を上げる度に目に飛び込んでくるのはカップルや夫婦らしき人たちばかり。
立ち止まった横断歩道の赤信号の下で、玄関先で見た両親の笑い合う姿が目の裏に浮かんで来たりもして。
「まぁ、でも。見合いじゃなくても、そろそろ真剣に結婚相手を探してもいいかもしれない…よな」
信号が青に変わる。
聡が歩き出そうとしたとたんに、足元を低く飛んだ鳥がピュウと横切り、信号の上にとまっていた数羽の小鳥が煽られたように飛び上がった。
聡は、頭の中のぐちゃぐちゃとした雑多な考えがすうと消えるのを感じた。
アルコールが抜けて行く瞬間に飲む水が通っていくのに似た感覚。
頭頂部から下へ、目から鼻先へ、首から胸をゆっくり通って胃を浄化して冷やしていく感じ。
冬の空のように澄んだ頭の奥で、聡は鳥を見た。自分の頭の中にいる、他人のような目でこちらを見ている鳥を。
◇聡◆
駅から30分以上歩いてたどり着いたのは、鬱蒼と木々の生い茂った森のような場所だった。
都心にしては珍しく大きな庭の多い家が立ち並ぶ地区で、閑静な住宅街なのだが、きちんと整備された道を行けばアクセスの良い駅にも程なく辿り着く。
ゆるりとした坂を小さく短い階段や遊歩道を経由して上ってきたが、振り返るとどこから歩いてきたのかわからない、そんな不思議な場所だ。
「なんでこんなに回りくどい地図なんだ…?」
そう呟いてから、
『この紹介状を持って、この案内の通りに道を歩いて行かなければ辿り着けれんけんね』
そう言った母の真剣な顔を思い出す。
この通りに歩かなければ辿り着けない。そんなことがあるだろうか。
「まさかな」
聡は首をぐるりと回して示された場所を見る。
レンガ造りの塀の上部はロココ調に細工を施された精密な鉄のフェンスでできていて、外部からの侵入を拒むように薔薇のツタが絡まっている。
豪奢な鉄の開き戸は電動のようで、聡がそこに立つと音もなく開いた。小道からは静かな水の音と共に、どこからか流れて来る音楽が聞こえてくる。
美しく苔むした石畳に誘導されるままに進むと、それまでが嘘のように開けた場所に出る。
背の高い木に囲まれた小道から抜けたそこは広い英国風の庭。
寂しいはずの冬の花壇にはクリスマスローズや水仙が花びらを揺らしていて、外周には山茶花や椿、木瓜の枝に、今にも落ちそうな、ふくよかでくっきりとした花が咲き誇っている。
「早咲きだな…ここは陽があたって暖かそうだから」
やわらかな紅色に思わず頬が緩むのを感じる。
聡は母の影響で花が好きだが、その中でも特に椿が好きだった。
控えめながらもひたむきに咲く凛とした姿。ぎりぎりまで美しく咲き、そのままの姿でポトリと落ちる潔さ。
聡は、自分はこんな風には死ねないだろうと思う。
自分が死ぬ時にはきっとみっともなく怖がって怖がって…誰かに側にいてもらわなければきっと、死ぬに死にきれないのではないかと思う程だ。
理想の結婚相手に『死ぬ時に側にいてくれる人』を追加しないといけない。
そして、子どもを中心に考えられる母性のある女性だ。
そんな風に言ったら、今時のお見合い相手なら嫌われてしまうだろうが。
やわらかな光に満ち溢れた秘密の花園をゆっくりと遠回りをしながら玄関に向かう。
遠目で見た建物は鹿鳴館のミニチュア版のような作りで、アーチ型の窓やテラスから冬の澄んだ光を反射している。
奥には渡り廊下に繋がった鳥籠型のサンルームがあって、その中には高い位置までツタを伸ばしてる植物や、背の高い熱帯系の大きな花が見える。
正面玄関の扉には船舶用の丸窓が取り付けられていて、それも聡の好みだった。
「だけど場違い感がすごいな…やっぱり今日は帰ってもいいか?」
去り際の母親に正装で行くように言われて、今まで買った中で一番高かった仕立てのスーツを着て来たものの、この場にはこれでも足りない。そう思わせる雰囲気が漂っていた。
踵を返そうとして、ふと母の声が脳裏に響く。
『狩納家の言い伝えだから行かなきゃならないんよ。そうしないと、あんた死んでしまうかもしれんでね』
ドキリ、と小さく心臓が跳ねる。
聡は胸に手を当てて、深呼吸をしてから息を止める。緊張を和らげる聡のルーティーンだ。
うん、挨拶だけして、謝って帰ろう。そうすれば死ぬなんてことはないだろう。そう思いながらゆっくりと歩を進めると、数歩先で観音開きの扉が向こう側から押し開かれた。
はじめに目についたのは、その白い手袋だった。
「こんにちは狩納聡さん。
ようこそ『泡沫の夢』へ」
人ではない。
漠然とそう感じた。
まるで人形のように髪の毛の一本一本までもが計算されたように美しく、作り物めいて見えるからだろうか。
「初めまして。私の名前はスワロウ。
今日を選んでいただいて、本当によかった」
スワロウと名乗ったその人は、美しい動作で手を広げてほほ笑んだ。
夢か?撮影か?異世界か?
聡は緊張を解そうとして思考を巡らせる。
小さくゆっくり息を吸う。
ほんの少しだけ呼吸が整うと、今度はチカチカとし始めた目の端を瞬きで落ち着かせた。酸素が足りないのかもしれない。
聡は手に持った招待状をぎこちない動きでスワロウの前に差し出す。
「あの、そうです。狩納聡です。宜しくお願いします」
開いた扉の前で丁寧にお辞儀をした男装の麗人がそれを流れるように受け取ってくれる。
聡は帰りたくてそわそわとする気持ちを抑えてそっと顎を上げた。
スワロウの後ろには、人形のように無表情な美少女がメイド服に身を包んで立っていて、それ以外にも何人かの女性たちが思い思いに座っている。
その目は聡を見ているようで見てはいない。
ーと、
一人の女性と目が合った。
彼女はスッと立ち上がって、聡の前に立った。
魂が抜き取られたかのように吸い付けられ彼女への不躾な視線が縫い付けられる。
固まってしまった自分の身体を疎ましく思いながら、聡は彼女に会うためにここに来たのだとわかった。
運命があるのだとしたらこういうことなのだろうか。
何も考えられないほどに、頭の中が彼女で埋め尽くされる。
目の前の女性は、今まで見たどの女性よりも美しく、輝いて見えた。
聡は30歳になった誕生日に、偶然彼女に出会えたことに感謝した。
…イヤ、母に言われてやって来たのに偶然も何もあるものか。母がこの人を選んだのかもしれないじゃないか。だからスワロウは名乗る前にこちらの名前を呼んだし、それを聞いた彼女が立ち上がったのではないか。聡はそう考え直す。
そして同時に、母の言った
『行かないと死んでしまうかもしれない』と言う声が、なぜか耳の奥で何度も再生されたのだった。
◆小雪と聡◇
「子どもがいて、幼稚園に行っています。
その時間しかあなたには会えません。
子どもが熱をだし、幼稚園に呼び出されればすぐに帰ることになります。
大樹は体が弱く、よく熱を出すのです」
小雪がそう言うと、小さな顔のまわりに白い息がふわりと舞った。
「わかりました」
聡がそう言うと、小雪が首を傾げて笑う。
「聡さんは物分かりが良いんですね」
小雪の髪が風に流れる度に聡の心が揺れた。
身体が凝り固まっていて、どうにも調子が出ない。
「さっき、小雪さんに会うためにここに来た、何故だかそんな気がしました。
だからでしょうか、あなたのことが知りたいんです。
物分かりがよく見えるのは、そのせいかもしれません」
他にいた女性たちもそれぞれに美しく、むしろ小雪よりも聡の好みに近いような女性もいたように思う。
小雪は背が高く、身長175センチの聡よりもほんの少し小さいか同じくらいに見える。ヒールを履けば聡を軽く追い抜いてしまうだろう。
自分だけなら気にならないが、相手が一緒に歩いて気にしないかは別の問題だ。
今まで目にしたカップルのほとんどは男性の方が背が高かったことを考えると、そういう事を気にする方が一般的なのかもしれないと思う。
「私も、なぜだかあなたと話さなくては、と感じました。
あなたを知りたいと、そう感じます。不思議ですね」
そう言って小さく笑った小雪は、指先をこすり合わせて息を吹きかけた。
「あ、そうか、寒いですよね?
すみません、テラスから庭が見えると聞いてこの席を選んでしまって」
『昼食を用意するので、二人は好きな場所で何か飲み物を。』
そう言ったメイド服の少女に2階の踊り場から出られるテラス席を教えられて、聡はすぐにそこを選んだ。
話のタネに庭が見えたらいいと思っただけで、他に理由などなく。
寒いかどうかなんて考えもしなかった。
「気が利かなくて…すみません」
どう見ても年下の小雪に頭を下げる。
小雪はいいえ、と言ってからカップを持ち上げた。
「瞳子ちゃんが用意してくれたこれが飲めるなら、ここが正解です」
そう言って息を吸うように甘酒を一口飲んだ。
聡もそれを飲む。頬の内側が温まるのがわかった。温度差で顎の先がキュウ、とする。
「すみません」
「いいえ、冬の空気も、甘酒も好きなので」
もう謝らないで。
そう言った小雪に聡は嬉しくなって声を上げた。
「僕も好きです。冬の空気。それに冬の海が特に好きで」
ニコニコと話を聞く小雪が口を開く。
「いいですね、海」
小雪の頬がほんのりと染まっているのを見ながら、酒で熱くなった自分の首を擦る。自分の方が弱いのだろうが、小雪も酒に酔いやすいのかもしれない。そう聡は思った。
「少し遠いんですが、本家の別荘があって、そこはプライベートビーチなんです。貸し切りにできる砂浜で。海がお好きなら、いつか一緒に行きませんか、もちろんお子さんも…大樹君も一緒に」
聡は言いながら焦りだす自分の心臓を直に叩きたい気持ちだった。初めて出会った女性だ。子どもだっていて、まだ幼稚園ならば、これからまだまだ手がかかる。五歳か六歳だとしても、大学を卒業する前後まで、あと二十年ほどは親に責任があると聡は思う。
冷静になれ!
そう自分の心に言い聞かせる。そう簡単なことじゃないぞ、と。
それでも、彼女の目を見るとこの人なのだと心が騒いだ。
この人を守りたい、そんな思いが噴きあがってくる。
「海を貸し切りに…素敵ですね」
小雪が考えるようなそぶりを見せる。聡はさっき口にした自分の言葉が自慢に思われたら嫌だと思って手を振ってみせる。
「僕も本家も別に金持ちってわけじゃありません。古い家っていうだけなんです。別荘も豪華なものじゃなくて普通の家みたいなもので」
「…いつか、ぜひ」
小雪がそう言うと、一つ風が吹いてテーブルの上の梅の枝を揺らした。
「きれい」
小雪が間を埋めるように、庭を眺めて言う。
聡は小雪が何を見てそう言ったのか知りたかった。
彼女の目線を追って、それが自分の一番好きな花だと気づくと、うれしくなって自分の手のひらをもう一方の手でぐっと握った。
「僕の…」
そう言いかけて、口をつぐむ。何を言うつもりなのか。こんなところで話すことじゃない。そう思った。人が死んだ話なんて。
「聞きたいです」
唇をかみしめていた聡の手を、小雪の指がそっと包んでいた。
ぬくもりに後押しをされるように、聡は小雪の瞳を見つめ返した。
「…僕の叔父は、椿のような人でした」
「叔父様ですか」
「叔父は母の年の離れた弟で、身体が弱くて、本家で暮らしていました。
母の兄が前の当主で、その…叔父は早逝してしまったんですが」
「まぁ」
「うちの本家は…少し不思議で」
聡は、怖がられたら嫌だと思いながら、促されるまま話を続けた。
「当主が女性じゃない時に生まれた男児は、生まれつき身体が弱いことが多いんです。
あ、僕は違います。母は男性当主の娘でしたけど、本家筋の母が女性なので。
母から生まれた僕は女系から生まれたってことになります。
父は入り婿で…
とにかく、どうしようもなく当主が男性になってしまった場合、その子供は女子なら健康。
男子なら不健康で、ほとんどが10代から20代で死んでしまうんだそうです。
だから昔から、本家の当主は女子が継ぐのが決まりでした。先々代には女子が生まれなくて…男子が当主に。
当主になった男性にも、やはり不幸なことが起こるんです。
18歳で結婚して、子を成して、25になる前に倒れてそのままだったそうです…
あの、…怖くないですか、こんな話」
「いいえ、全然。不思議なお話ですね…つまり、叔父様が…?」
「はい。叔父は僕が知っている唯一の男性当主の息子でした」
「…叔父様が亡くなられたのは、ご病気で?」
「はい。心臓が弱くて。ちょうど30歳の冬の前に体を壊して」
小雪が小さく息を吸うのがわかった。
「…」
「叔父も椿が好きでした。毎年、あの冬の海に連れて行ってくれた。夏の海には、大切な恋人と行くんだよ、と教えてくれました」
「夏の海は、大切な恋人と…?」
小雪は聡の口元を見ていた。
そして首元を見てから、鼻筋を通って目尻からなぞるように聡の瞳の奥を探るように見つめた。
「はい。大切な恋人との思い出が、夏の辛さを消してくれるから、だそうです。
これだけ聞くとロマンチストですよね。
本当はもっと男っぽい人なんですが。
夏が嫌いな人なんて、叔父以外に出会ったことは無いんですが、叔父は体のことで暑さ寒さにに弱かったから…いつも辛そうでした。
寒いのは着込めばなんとかなりますけど、熱いのはどうにもなりませんしね。
空調がダメなんです。
だからプールに行ったり…車の窓を開けてドライブしたりもしていましたね。風が気持ちいいからって。
本当はバイクが良いんだけど、みんながダメだって言うんだ、って言って笑っていて」
小雪は目を閉じた。
そして聡の手から指をそっと離した。
「私も…夏は嫌いです」
「へぇ…じゃぁ、叔父と気があったかもしれませんね」
聡は小雪のぬくもりが消えていくのを寂しく思いながら手を擦って、紅色の唇を眺めた。椿の色だ、と思いながら。
◇二人◆
「もしよかったら、このままここでお食事になさいませんか?」
先ほど給仕して下がっていったメイド服の少女がそう言った。
「僕はここでもいいですが…」
聡が小雪を見ると、小雪は目を細めて頷いた。
「ちょうどここで、食べたいと思っていたの。ありがとう、瞳子ちゃん」
小雪が嬉しそうにほほ笑んだのを見て、聡はそれが自分の手柄のように感じた。
「…では、ここでお願いします」
瞳子というらしい少女が聡に頷いてから踵を返し、またすぐにカートを押してやって来る。
白い布のかかっていたテーブルに更に金糸の刺繡の入った艶やかな紅赤の布が敷かれ、その上に小さめの重箱が広げられていく。
一人3重の桐製らしい四角いお重の一つ一つは、聡の手のひらを広げたよりも一回り小さいサイズだ。
広げるとそこそこの量に見えるが、中身がぎゅうぎゅうに詰まっているわけでもなく、程よく飾られた美しい料理が少しずつ並んでいるのは目にも楽しい。
「お節みたいね?」
「ええ、ちょうど1月ですから」
「まぁ」
「1月はずっとお正月のようなものです。あとからお雑煮と七草がゆもお持ちします」
瞳子は無表情のままなのだが、小雪はそれを気にも留めずに姉妹のように楽し気に話している。
小雪が笑っているのを見ていると、自分の心の奥が温かくなるのがわかった。
この人と結婚するだろう、確かにそう感じる。
初めての感情だった。『この人と結婚するとわかった』という有名人の言葉を信じていなかった聡にとっては。
自分がこの人とその子供を、幸せにしなければならない。
なぜかそんな風に気持ちが高ぶっていくのがわかった。
二人きりで、ゆっくりと食事をしながら思い思いに言葉を交わした。
お互いのこと、小雪の息子の大樹のこと、その父親について。
小雪は在宅で契約した企業の社員向けのメールカウンセリングをしていて、聡はその企業の社員だったということがわかったり
大樹は身体が弱くて、熱を出すことが多いが原因がわからなかったということ。
名前は知らないけれど、大切な時に助けてくれた相手が大樹の父親なのだということ。12歳上で、心臓が悪かったこと。
その人は車が好きで、窓を開けて高速を走らせること。
その車の助手席に座っていると、まるでわたり鳥になったような気持ちになるということ。
人のいない海で二人、ただ座っていた夏の日のこと。
そして聡は、実家の不思議な言い伝えや、叔父と行った海の話をした。
そうして聡も小雪も、お互いの関係を理解したのだった。
◆泡沫の夢◇
「叔父の名前は正樹と言います」
「マサキ、さん?」
「正しいのまさに、大樹君と同じ樹木の樹です。凄い偶然ですけど」
「知らず知らずに一文字、大樹は父親から貰っていたんですね」
小雪の薄い唇が微かに震えたように、聡には見えた。
「僕と、結婚してくださいませんか」
小雪は素早く瞬きをして、聡の30歳にしては幼い顔つきをぼんやりと捉えてから、その瞳の奥に確かに見える正樹の面影を見た。
「そんな風に、責任を取る必要は無いのよ」
小雪はそう言って頭を左右に小さく振った。
「大樹君を守りたいんです」
「…」
太陽が強く照って、聡の頬を天使のように光らせている。小雪にはそれが、なんだかとても懐かしいもののように感じられた。
「叔父は、母によく似ていました。若いうちから古臭くて、細かいことに厳しくて。でも誰よりも自分に厳しくて、本当に優しい人だった。
6歳しか離れていなかった僕は、母よりも叔父を知っていたと思う。思い込みかもしれないけど、
間違いないのは彼が生きていたらあなたを放っておくわけが無いということです」
「私が、それを求めたのよ」
あの時はそれが必要だった。
聡は小雪の手を握る。
「叔父なら必ず、今もあなたと大樹君を愛して守ったはずです。
あなたがここにいるということは、あなたも誰かを必要としている。そうですよね」
小雪は瞬きをして聡の指に目を落とした。
『誰かを必要としている』のだろうか?それとは違う気がした。
招待状を見て、ただここに来なければならないと感じた。
小雪はそれをどう表現すればいいのかわからなかった。
考える。わからない。
「…」
わからないことは、わからないままでいい。感情を言葉にするのは難しい。色も形も、匂いも温度も無い、体を支配する、得体のしれないもの。
小雪は顔をあげて聡の目を見つめた。
「あの子はあの人に、とても似ているわ」
何も答えずにそう言った小雪に、聡は微笑んで見せた。
「母が喜びます」
そう言った聡を、小雪はじっと見つめた。
こんな風に感じるのはあの頃以来のことだ。
「…聡さん」
小雪は肌がゆっくりと粟立つのを感じた。恐怖ではない。寒いのでもない。
水に入ったあの瞬間のように包まれていく。
群れから切り離されて飲み込まれる一匹の小魚になる。
ただの風が、小雪を撫でていく。
車体の無い車に乗って物凄いスピードで走る車体の無い車にシートベルトなしで座っているような、そんな感覚だった。
身体に閉じ込めていた何かが、それと一緒に飛んでいく。
どこまでも続くような1月の空の高く遠い所へ。
◆七草がゆとお雑煮◇
聡と小雪の間に、長い影が落ちる。
「七草がゆと、お雑煮です。フカヒレ入りですよ。温かいうちにどうぞ」
瞳子がそう言って二人に二つずつ、小さめのお椀を置く。
蓋を外すと、ふわりとした湯気が二人を包むように舞い上がる。
聡も小雪も、無言で匙を手に取った。
白の中に散る緑に、やわらかな甘い香り。一口食べるごとに違う風味が立ち上がる七草がゆは胃に溶けるように落ちた。まるで暖かな雪を食べたような不思議な気持ちになる。
透き通るような出汁に沈む毬のような海老芋に桃色のお麩。丸い焼き餅には花のように削られた真紅色の京人参が飾られている。
まるで小さな花手水のように艶やかだった。
聡にはそれが、正樹の恋のように思えた。
そっと小雪を見やる。
小雪の目には真珠のような、まるい涙が浮かんでいた。
瞳子は小雪の瞳をまっすぐに見つめてから頷いてスカートに入れていたらしいベルを鳴らした。
「…まぁ、瞳子ちゃんたら」
瞳子の表情ははじめと違っていて、聡は思わず息を飲んだ。
無表情だった陶器人形のような少女が笑っていた。ピクリとも動かなかった丸い瞳が柔らかく弧を描いている。
いつの間にかそこにいたスワロウが、瞳子からベルを取り上げる。
悪戯娘め。そんな風に男装の麗人の唇が動いて見えた。
「さて。これは、人魚の最後の食事になったようです」
聡は訳が分からないままに、そう言ったスワロウの細面を見上げる。
人差し指をその唇に当てて麗人がほほ笑んだまま聡を見つめ、シィー、と優しく息を吐く。
「人魚姫が陸に上がるためには魔法が必要なのですよ」
スワロウが高い位置でベルを鳴らす。
「あなたたちにとって、善き食事でありますように」
スワロウの隣に立つ瞳子が、澄んだ声でそう言った。
「…ありがとう」
「…ありがとうございます」
小雪に続いて聡がそう言うと、瞳子は大きな瞳でじっと聡を見つめた。
「一回で人魚姫の夢を手にするなんて。なかなかやるね、キミ」
突然の言葉に面食らったものの、聡は自分より一回りは若そうな瞳子に目線を合わせて言った。
「一回じゃないんだよ、多分」
あの夏のことを、聡は鮮明に覚えている。
大学生の頃、帰省するたびに聡は叔父のドライブや、プール通いに付きあっていた。
叔父が30歳の夏は自分が就職して初めてボーナスに査定がプラスされた年で、夏休みに帰省した時にも張り切って仕事に関する勉強道具を持ってきていた。
それを見て、叔父が褒めてくれたことも、
叔父と過ごす最後の夏だったのだなと冬に思ったことも、覚えている。
それを悲しみだけではない思い出にしてくれたのは小雪だったのだ。
付き添ったプールで叔父があまりにも幸せそうに話している相手を見て、邪魔をしてはいけないと思ったこと。
自分よりも年若い少女が叔父に与えるものはきっと、他の誰からもあげられないものだと聡は思った。
そして、彼女にとってもそれは同じなのだと。
声をかけて帰ろうとして、一度だけ目が合った。
彼女は微笑んでいたと思う。聡に向かって、ありがとうと言ったのだから。
自分は正解を選んだのだ。
正樹や、小雪や聡にとっての。
あれがカウントされるなら、彼女と出会うのは2回目だ。
あの夏、叔父と叔父の車を置いて歩いて帰った聡は、母に散々叱られ、結局その日はまた、歩いてもう一度迎えに行ったというカッコ悪い結果になったのだけど。
『小雪と大樹をよろしくな』
風に乗っていく誰かが、そう言った。
だから聡は高く高く空を見上げてひとつ頷いた。
人魚姫は、泡沫の夢を見る。 wAo @threepeace
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