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「タンホイザー! 聞こえているのか⁉」

 副大統領の胴満声がタンホイザーの意識を現実へと引き戻した。もうずうっと感じていなかった熱気が彼の身体を再び蝕もうとしてる。背中を伝う汗は身体の焦熱を知っているようだったが、タンホイザーの頭はひどく冴え冴えとしていた。

 瓦解した船が突然そっくりそのまま元通りになる奇跡を目の当たりにしたような、驚嘆と達成感。タンホイザーはもういちど、過去の記憶を眼裏で明滅させた。

 稚い万能感は打ち壊された。タンホイザーがかつて愛したものは薄弱でちっぽけなものだったと理解した。

 母の遺骸は見つからなかった。探そうともしなかった。生き残った同胞が土に還したか、それとも再開発の折に土に還されたか、確かめる術も気力もなかった。

 父の墓参りには一度も行ったことがない。母に内緒で行った、遺体安置所で焼け焦げたその姿を見た、それきり。

 自分で作った友人の墓はどうなっただろう。彼の家族は、彼の頭がどこで眠っているかを知っているのだろうかというのが、タンホイザーの心に今更ながら突っかえた。

 誰にも見つからずにB地区から脱出したタンホイザーはしばらくの間をH地区のスラム街で過ごす。実になる出来事こそなかったが、思案に暮れる日はなかったのが幸いだった。

 体を動かしていれば、何も考えることはなかった。何も考えていない間はまがい物の善がとやかく言うこともなかった。B地区の何もかもを見殺しにした自分の罪はその日暮らしの生活に息を潜める。

 幾何もなく他国からの侵攻があったT国は内輪揉めをしている余裕もなくなる。協力して他国を退けた後の対話では異例の和解をし、程なくしてT国は本当に1つの国として統合された。その数年の間にタンホイザーは支援活動を行っていた夫婦のもとへ引き取られ、彼らからの施しのもと成長した。過去を捨て、追い越し、そうして大統領になった。

 靴を失くすことはもうない。走る必要もないからだ。

 瓦礫や死体を見ることもない。それの処理を指示する側になったからだ。

 奪われるものはなくなったと思っていた。

 ——でも今はどうなのだ、とタンホイザーは自身に問いかける。利己的な情動はそこになく、彼は国民を愛していた。初めは投票率欲しさにそう思い込んでいただけだった。しかしいつしかそれだけではなくなっていた。

 国民の中にはかつて家族や同胞たちを殺したH地区の人間もいる。副大統領の父なぞはH地区T国軍の中級指揮官だった。それでも良かった。自身の尊厳喪失を前にして、逃げ出したいと本心ではそう思っていても行動に移さなかったのは、タンホイザーが国民を慈しむ心が確かだったからに他ならない。

 T国を守るためにはどうすればいいのかと考えた時、タンホイザーが真っ先に思いついたのが戦争だった。抵抗できない人間を蹂躙せしめたあの力こそが、国民を守るに足る力なのだと、無力感に苛まれた少年がよく知っていた。そして捻じ曲げられたT国の歴史が物語っていた。

 父の手、母の服、友の顔。

 どれも思い出せない。追憶の機会はとうに過ぎ去った。どうして失った? 何が奪った?

 戦争、全ては従来の戦争が奪ったのだ。ならばそれで空虚な記憶を埋めれば良い。そうすれば満たされた気になれるのだ。誰かの幸福を奪い、奪われたものを詰る。人類はこれまでもそういった無益な自慰に耽っていたのだ。

 ——『神』が従来の戦争を奪った? だからなんだというのだ。

 どれだけの武器を奪おうが、如何に知識を改竄しようが、人は醜い争いをなくせない。一度奪ったところで直に新しい格差が芽生える。従来の戦争がなくなった世界ですら、人々は隣人を愛しはしないだろうとタンホイザーは直観していた。なぜなら生そのものが本能へ至る病なのだから。

「非国民だから殺してもいい」と。

「敵だから快楽のために残虐な方法で命を弄んでもいい」と。

 そうタンホイザーに見せしめたのは紛れもないだった。

 ——『神』の宣う「美しい争い」などというものは、人が本能へ至る病を持ち続ける限り、一時的にしか存在し得ないのだ。

 醜い争いは本能へ至る病が産み出した。生を得ている限り人は道徳を忘れ、加虐性を剝き出しにする病状に侵され続ける。道理のない生と本能が唯一作り上げた文化がそれだった。

 そうして、そうやって、生きてきた。

 野蛮で、原始的で、美しくないもの。——だからなんだというのだ。そんなことは『神』が現れる前からさんざ言われてきた綺麗事だったろう。それでも『神』の出現まで大国が大量殺戮兵器を持ち続けたのは、それが本能へ至る病を抑え込む理性となり、同時に交渉材料になると知っていたからに他ならない。

 しかし人類は物理的な攻撃手段への一切の理解を放棄してしまった。そしてだけが残された。『神』が従来の争いという名の文化を奪った、というのは、それ以外のあらゆる方法で死以外の全てを奪われるということだ。それは目に見えない人の心を破壊し尽くし、やがて生き地獄となるだろう。

 この悪趣味なYAKYU-KENなどという非暴力戦争が顕著だ。負けた方は裸体を全世界に晒して尊厳を奪われる。負ければ最後、消えない炎の苦しみがタンホイザーを待っている。恥を晒して生きることと、すぐに過ぎ去る死を迎えることなら、どちらがより効率的かなんてわかりきっていることだ。

 T国はきっと、奪われる側だ。その前に従来の戦争を取り戻さなければならない。この手で本能へ至る病の根源を滅する手法を憶えている人間こそ、この狂った世界では真の強者なのだ。

 国民が平和でいられるなら、戦犯になろうが愛国者になろうが構わない。私は勝たなければいけない。そして守らなくてはならない。T国から領土を、国民を、そして戦争という文化を。

 ————そうか、私は初めから戦争なぞ……。

 タンホイザーは目を開く。強い光が瞳孔を刺し、天井が見える。堅牢に見えていたそれも、なんとか開けられそうな気がした。

 もう弱い自分ではいられないのだ。守られていた子どもは成長した。T国が従来の戦争を喪って転換期を迎えているように、守るものの増えたタンホイザーにも強くなる時がきたのだ。

 刹那、タンホイザーは小さな死を迎えていた。幼少期に目の当たりにした死を反芻して、潰しのきく過信ではなく、馬齢を重ねたタンホイザーが今まさにこの時、使命感を得ていた。愛する国民を守らねばならないという使命感だ。

 ————どうすれば強くなれる。どうすれば……。

「あのぉ……そろそろいいでしょうか……?」

 マヤが背を縮こめて、こちらの顔色を伺うようにして言った。タイムをとってからどれくらいの時間が経ったのだろう。タンホイザーはイェメリノの方を向き直った。

「マグナムお披露目の準備は万端か?」

 イェメリノは左の口角を上げ、こめかみとトントンと叩く。

 ——その動作が気になっていた。試合が始まってから何度それを見ただろう。

「君は愚かじゃないと信じていたのだけれどね」試合前もそう言って同じようにこめかみを叩いていた。試合中はさらに頻繁だった。ただの癖だろうと思っていたが、以前会ったときにはそのような癖は見られなかったと思い返して気付く。

 ——そうだ。Y国はIT大国として有名になりつつある。考えるだけで操作可能な電子機器の研究に力を入れているという噂は私の耳にも入ってきている。まさか、私の考えを姑息な機械で読んでいるというのか⁉

 突飛な考えではないだろう。0勝69敗などという勝敗数は、奇跡の2文字で手軽に表せられるものではない。なんらかの作為があると考える方が普通だ。

 そしてY国が力を入れている研究……考えて操作するという機能を分解すれば、思考を読むというプロセスは確かにある。こめかみにスイッチが内蔵されていて、それを叩くことで思考を読む機械が作動するとすれば、イェメリノの奇妙な癖にも納得がいく。

 ——しかし、どうやって勝てばいい?

 何の対抗策も見いだせないまま、マヤに促されてタンホイザーは所定の位置へと戻る。観客席から聞こえる声が何を求めているのか、タンホイザーにはもうわからなくなっていた。

 イェメリノはタンホイザーの思考をどこまで読み取れるだろうかと考える。出す手を予想できるのだから、表層の心理くらいは容易く読めるのだろう。読み取れる時間は? こめかみを叩くことで思考を読み取るスイッチが起動しているのだと仮定すると、その頻度から長くとも3分が限度なのだろうとタンホイザーは結論づけた。

 しかしそれを考察してどうなる? 指摘したところで体内に機械があるのであれば、その場で解剖でもしない限り確かめる術はない。さらに言えばルール違反になるかどうかは審判のマヤ次第だ。タンホイザーの圧にも萎縮するような男が、イェメリノに物申せるだろうか。しかも当初の懸念通り、マヤがY国に買収されていれば、タンホイザーが指摘したとしても一蹴されるだろう未来は容易に予測できる。せめて、YAKYU-KENのルールに——

「YAKYU-KENに相手の思考を読んではならない、というルールでもあれば話は別だがね」

 イェメリノが左の口角を引き上げる。耳のすぐそばで動悸が聞こえる。自分の仮説のおおよそは合っているのだろうという悦楽と、逃げ場も勝ち目も奪われてしまった絶望。会場の湿度に混ぜられて、自分の汗が鼻に詰まる。

 ——いま、私はどこまで奪われている? どうすればこれ以上奪われずに済む?

 考えて、考えて、考える。何もかもを踏み抜けて逃げた弱さが逡巡する。

『私の事は考えなくていい。何も考えないで、ただ走りなさい』

 母の声が聞こえた。気がした。

「やはりT国民は愚かだな」イェメリノは顔を歪ませ、それっきり口を結んだ。

 タンホイザーは一つの結論に辿り着いた。頭の中を読まれるのなら、対策はただ一つ。

 ——何も考えないことだ!

 タンホイザーは手の動きに関する思考の一切を放棄した。何も考えない。逃げるためではない。勝つために敢えて何も考えなかった。ただ身体の思うままに手を開き、閉じる。思考の余地はない。脊髄が反射するままに、タンホイザー自身の悪運に全てを賭けた。

 反転攻勢。そこからのタンホイザーは負けなしだった。Y国大統領の衣類を次々にはぎ取っていく。ジャケット、ベスト、ネクタイ、シャツ、肌着、スラックス、靴下。そして——。

 引き締まった腹に生えた腹毛が躍る。残りは靴下片方、そしてパンツ。全身から汗を流すイェメリノの顔からは余裕が失われていた。ご自慢のオールバックから髪が一束崩れる。奇妙な癖はいつの間に使わないようになっていた。無駄だと気付いたのだろう。この状況に興奮しているのか、ゆとりのあるトランクスの中で窮屈そうに蠢く大砲をどこかの国のメディアが抜いたのが見える。私より長そうだな、とタンホイザーは思った。ギャランドゥの向こう側にある大西洋を大衆に晒してやる。今度はタンホイザーが右の口角を引き上げた。

 それが運の尽きだった。

「あ!」

 出した握りこぶしが震える。

 ————負け、た?

 会場が沸き上がる。タンホイザーの大航海時代を見たいと誰もが唾を吐いて待っていた。

「棄権だ! 棄権しろ!」

 副大統領の声が酷く煩わしい。

 全ての音がタンホイザーの身を揺らす。それが脳に達したとき、眉間が熱く疼いた。

 ————私はYAKYU-KENで敗戦したのか。

 1人納得し、空を仰ぐ。虫かごから逃れられはしなかったのだと自分を収めるほかなかった。

「あのお、ルール、ですのでぇ」

 マヤの柔らかい声が聞こえる。愛想笑いを含めたいつもの声だ。しかしその表情をタンホイザーは見ることができなかった。天井に視線を移したまま、何を見るのも恐ろしかった。世界の全てが自分を嗤っているとさえ錯覚していたからだ。

 タンホイザーは短い呼吸を繰り返し、視線をゆっくりと元に戻した。

 マヤのこちらを斟酌だけはしてやろうという顔。副大統領の「なにもかもおしまいだ」という諦観の顔。観客の人々はどんな顔をしているだろう。近視のタンホイザーには想像しかできなかった。

 子どもの笑い声のようにも、三人称視点で見る夢のようにも思えた。

「奪われまいと、ただそれだけ、あの日に誓ったのだが……」

 誰にも聞こえない。マヤにすら聞こえない。『神』にしか届かないであろう声。父と母には届いているだろうかとチラリと上を見て、すぐに現実を見据えた。

 パンツのゴムに指をかける。震える指で持ち上げようとして、ゴムの弾性がパチンと肉を鳴らした。何度か繰り返し、爪でこそぐように引き延ばしたところでようやくパンツに指を入れることができた。

 「もったいぶるな!」頭上で叫ばれながら、社会性たらしめていた最後の1枚をゆっくりと引き下ろす。目の前では、タンホイザーが漸く直視することができたイェメリノがにこやかな笑みを浮かべて、ボディーガードの拾い集めた衣服を着用し始めていた。

「君のように好き好んで全裸になる暇はないのでね」

 枯れかけた回虫のような男根が現れ、悲鳴と興奮の声が会場に入り混じる。カメラも今日一番に近づいてくる。侵略者になり損ねた寄生虫の末路が全世界に晒されていることに、実感が持てずにいた。

 ——失った。奪われてしまった。私の尊厳が。武力さえあればY国なぞ容易に捻り潰せたというのに。それもこれも、あの『神』さえ現れなければ。『神』が正しい戦争を奪いさえしなければ……。

「うわあああああああああああああああ!!!!」

 国家の象徴をボリュンボリュンと振り乱しながら走り、タンホイザーはイェメリノの首に飛びついた。

 会場にいた人々は、それを友好のハグだと信じて疑わなかった。しかしイェメリノの苦しむ顔を見て訝しんだ。前時代的で野蛮な方法は忘れてしまったのだから無理もない。

「殺してやる! こおしてやる!」

 Y国のボディーガード2名に取り押さえられながら顔を真っ赤にするタンホイザーの顔は全世界に放送された。

 火事場の馬鹿力とでも言おうか。タンホイザーは自身の腕を掴むボディーガードを振りほどき、座り込み呆然とするイェメリノの首に再び手をかけた。今度はより強く。より正確に。喉仏の外れを両親指で挟み込んで、床へ押し付けるように圧し掛かった。タンホイザーの身体は前時代の物理的な攻撃手段を憶えていた。あのT国軍がそうしたように、本能へ至る病がタンホイザーにそうさせた。

「不思議な話じゃあないか。窒息死という言葉は知っている。気道で呼吸をすることも知っている。ではなぜ縊ることを理解できないのだ。それは最後のプロセスへと辿る道を『神』の大いなる指が塞いでいるからに違いない。しかし私は、今、この時! それをすり抜けたのだ!」

 生え揃った永久歯の隙間から息を噴き出し、タンホイザーの下卑た声が静まり返った会場に響く。瞳孔を開き、上唇を引き上げる様も、猛り勃ち汁を噴くタンホイザーの陰茎も。テレビ局のマイクとカメラを通じて全世界に轟いた。 『神』に勝ったのだというたどたどしい万能感がタンホイザーを唯々支配した。

「将来はパパみたいに頼られる人になるわね」白い服の裾が見えた。タンホイザーは発条が切れたようにフッと手の力を緩めた。貌が赤黒く膨張していたイェメリノは息を吹き返し、気道で暴発した咳とともに出た唾がタンホイザーの顔に掛かった。

 ——私は頼られる人間になれなかった……でありだ。従来の戦争も、過去も、国民も守ることができず、もういない人間の幻想に撃たれた中途半端な理性が復讐の邪魔をしている。

 日本がそうなったように。社会が、視線が。戦争という文化を終わらせる。

 矮小な民族文化は残されるのに、なぜ紀元前より世界中で蔓延る戦争はなくなってしまえと願うのだ。どちらも同じ文化であろう。同じように、人が生み出し、育んだだけだ。「人道的ではないから」という社会的抑圧が私から悲しみを、憎しみを奪う。それに執着するのは間違いだと諭そうというのか。道徳などというまがい物如きが、戦争という本能に至る病を消し去ろうというのか。要するにそれさえ言葉による戦争。テロ。蹂躙に他ならない。

 矮小、矮小。矮小! なんたる矮小さ、傲慢さなのだ! たとえ考えぬ葦であろうともその身体が光を求める限り、他者との奪い合いに勝ち残ろうとする。国という1つの共同体同士で資源の奪い合いをするのが戦争なのであれば、人間に心がある限り戦争は失くならない。武力を用いた正しく効率的なものがそれであれば、誰もやめる理由はないはずだ。——そうわかっているはずなのに。

 再びY国のボディーガードに両腕を捕らえられ、タンホイザーは地面へうつ伏せになるよう引き倒される。先ほどとは逆に、今度はボディーガードがタンホイザーに馬乗りになった。

「YAKYU-KENはこれで終了です! 観客席の皆様はご退場下さい! 退場して!」

 マヤの悲鳴じみた声と、観客席からのけたたましい声が聞こえる。合図よりも前に私の人生は終わっていたというのに。とタンホイザーは笑みをこぼした。

 度重なる緊張から溜まりに溜まった小便が、弛緩したタンホイザーの生殖器からとめどなく溢れ出る。下瞼を伝って零れた涙と、アンモニアの液体が交じり合った。

「ああ……母よ」

 半分だけ残った生に安堵して力なく発せられた言葉は、もうどこへも逃げ出せなかった。

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ハッピー戦争ウィーラヴ野球拳 下村りょう @Higuchi_Chikage

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