最終話 心を開く水無月さん

 私は明日香さんという人間を知った。それからは自然と視界の中に「明日香さん」を認識するようになった。これまでただの背景だったのにそれが嘘みたいに「寂しそうにしてるな」とか「作り笑い浮かべてるな」とかそんなことを思ってしまうのである。


 放課後のリレーの練習でも、毎日、明日香さんは一対一で私に走り方を教えてくれた。そして時々、遠くで汗水流しながら練習をしている千夏さんを指さしては告げるのだ。


「愛華のために必死で頑張ってるよ!」と。


 リレーの順番は私が最後から二番目で、最後が千夏さん。これも明日香さんの提案だった。


「水無月さんは愛華の後の方がきっと頑張れると思うんだよね」という言葉に千夏さんは頷いていた。きっと私が走れば周りと大きく差がついてしまうだろう。その差を埋める。私に非難の目を向けさせないくらいの成績を残す。ただその為だけに、千夏さんは必死で頑張っているのだ。


 私はこれまでずっと、自分なんかじゃ千夏さんを引き留められないって思ってた。でも現実はこうで、千夏さんは私のためだけに頑張ってくれている。


 私だって頑張らないと。よそ見をするのをやめて、明日香さんに向き合った。


「愛華もやる気出たみたいだね。私と一緒に頑張ろう!」

「うん!」


 明日香さんも親身に私のために動いてくれている。広く浅い交友関係じゃないと怖い、とか言ってたくせに最近はずっと私に付きっきりだ。明日香さんも頑張ってくれている。


 無駄にはできない。これまで行事ごとに本気になれたことのない私だけれど、今回だけはみんなのためにも一位を取りたい。冷めた心の中に、こんな熱意が残っていたことを意外に思いながら、私は何度も何度も繰り返し走った。


 そうして体育祭の日がやって来る。


 秋なだけあって日陰では涼しいけれど、日差しは強くてちょっと暑い。


 綱引きだとか二人三脚だとか騎馬戦だとか、とにかく「体育祭」って感じの競技がわが校のグラウンドで行われている。人混みの中から、千夏さんと明日香さんと三人でそれらを応援していた。


「頑張れー! 紅組!」


 私と千夏さんの隣では明日香さんが大声で応援していた。みんなの注目を集めることもいとわないのは流石としか言いようがない。私たちも一応は小声で応援しているけれど、やっぱりなんだか恥ずかしかった。


「頑張れー。紅組ー」

「もっと大声で応援しようよ! 二人とも!」


 私と千夏さんは顔を見合わせて、苦笑いした。


 そうこうしているうちに、クラス対抗リレーの時間が近づいてくる。メンバーは待機場所のテントの下に集まっていた。日陰だから涼しいけれど、緊張のあまり顔のほてりは取れなかった。


 中学の頃なんて体育祭は休むこともあったくらいだ。だって運動神経が壊滅的な私は笑われて、馬鹿にされてばかりだったから。でももう逃げる気はない。だって私のために千夏さんも明日香さんも頑張ってくれているから。


「愛華。頑張ろうね」

「愛華。私に任せてください。どれだけ抜かれても私が取り戻すから、楽にしてていいですよ」


 明日香と千夏さんが優しい声で告げてくれる。


 少しだけ体の緊張が解けたような気がした。そのときアナウンスが響いて、私たちはグラウンドに入場していく。周りをぐるりと囲うように人混みができていて、その内側に入場する私たちには当然、視線が集中する。

 

 明日香さんは手を振るくらいだから平気そうだけど、千夏さんはとても緊張しているようで、顔がこわばっている。でも手を握ってあげると、優しく握り返してくれた。表情も少し余裕が出てきている。


 後は頑張って走るだけだ。できることは全てした。みんなを裏切らないために、できるだけ追いつかれないようにする。それが私にできることだ。


 やがて第一走者の男子がレーンで姿勢を取った。


 会場は沈黙に包まれ、張り詰めるような緊張を感じる。だけどその沈黙と緊張はピストルの乾いた音で断ち切られた。一斉に一年生の全クラスの生徒が駆け出す。私たちはそれを内側から見守っていた。


 自分で志願しただけはある。私たちのチームは一位を維持したまま、第二走者第三走者へとバトンを渡していく。次は明日香さんの出番だ。だけど少しも緊張していない様子で、笑顔さえ浮かべている。


「ねぇ、愛華。私、ぶっちぎりで愛華にバトン渡せるように頑張るから、そうしたら私と友達になってくれる? 千夏さんと愛華さんの関係を見てたら、やっぱり羨ましいって思っちゃうんだよね」


 明日香さんは私たちのつながれた手をじっとみていた。


「いいよ。友達なろう」

「ありがとう。頑張らないとだね」


 明日香さんは笑顔でレーンに入る。そしてバトンを一番に受け取ったかと思うと、一瞬で加速してぐいぐい後ろと距離を離していく。次は私の番だ。レーンに入って、明日香さんを待つ。


 体力は出来るだけ鍛えた。フォームも教えてもらった通りにした。これでだめならもう仕方ない。そう言い聞かせながら、バトンを受け取った。


 みじめでもいい。不釣り合いでもいいんだ。私は誰よりも遅い速度で駆け出していく。こんな私を大切に思ってくれてる人がいる。だから私は必死で走る。息切れしてもなお必死で足を動かして前へと進む。自分のためじゃなく、みんなのために。


 だけど。


「あっ」


 足を引っかけた。重心が崩れて前に転んでしまう。膝の痛みに悶えて止まっている間に、私の横を他のクラスの人たちが抜けていく。


 泣きそうになる。やっぱり私じゃどうしようもないのかもしれない。全部、無駄だったのかもしれない。根拠のないネガティブな考えが心の底から湧き上がってくる。でも誰よりも大きな声が、そんな考えを断ち切ってくれた。


「頑張れ! 愛華!」


 千夏さんの声だった。目立つのが怖い、人と関わることも怖い。だから誰とも仲良くならずに生きてきた。そんな千夏さんが、私のために叫んでくれている。


「全部取り戻す! だから私にバトンを渡してください!」


 私は悲しみに暮れる感情を投げ捨てて、小さく微笑んだ。また立ち上がり、痛む足を庇いながら走る。そうして何とか千夏さんにバトンを渡した。千夏さんは不敵な笑みを浮かべたかと思うと、誰よりも速く走った。最下位まで落ち込んでいた私たちのクラスはあっという間に盛り返していく。五位、四位、三位、二位。そして、一位。


 クラスが歓声に包まれる。私は思わず明日香さんと抱き合っていた。笑顔で帰ってきた千夏さんはすぐにクラスメイト達に囲まれて、賞賛の声を浴びている。幸せそうに笑っていた。


 もうそこには、過去の虐めに怯える臆病な少女の影はなかった。


 私は少しだけ切ない気持ちになりながら、明日香さんと一緒にその様子を見守る。


「どうしたの? そんな顔して」

「もしかすると、私はもう、必要ないのかもって思って」

「そんなことないよ。見て。千夏さんがこっち来てる」


 千夏さんは人ごみを抜けて現れたと思うと、ぎゅっと私を抱きしめた。


「私のこと、好きになってくれましたか?」

「……うん」


 笑顔で頷くと千夏さんは嬉しそうに微笑んで、私を抱きしめる。


「大好きです。愛華」


〇 〇 〇 〇


 日が傾くころになると競技は全て終わり、後はフォークダンスを残すだけとなっていた。


 私は千夏さんと手を繋いで、グラウンドに入っていく。位置に着いてしばらくすると、音楽が流れ始める。私は運動神経が鈍いから、自分から動こうとしないほうがいい。


 リードされるままになっていると、千夏さんは嬉しそうにつげる。


「みんな意外といい人でした。私はずっと思い込んでたんです。悪い人しかいないんだって。私が虐められてるのもみんな静観してましたから」

「だったらもう、私だけにこだわらなくてもいいでしょ?」

「そ、それは違いますよ。愛華は私の一番大切な人です。愛華がいたから、私はダークサイドから帰還できたんです!」


 慌てる千夏さんに、私は微笑んでみせる。


「そこまで言ってくれると、私も嬉しいよ」


 そうして私たちは笑顔でフォークダンスを踊るのだった。

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弥生さんと水無月さんはよく目が合う 壊滅的な扇子 @kaibutsu

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