太陽が辺りを照らし始めてまだ数時間も経っていない。時間は充分にあるだろうが、この脚だ。余裕を持ち過ぎるのも良くないだろう。


 私は再び走り始めた。戦場に向かうのは手紙を届ける為だ。しかしメロスが走る理由は違った。誰も信じることができなくなった。そのようなメロスを信じてくれる者達がいた。ならば自分だけでも信じてみよう、その為に出来ることをしようと思ったのだ。あの日は殺されるためにこの村を出た。今日は違うが、走り出したことで私の人生は変わった。良き出会いもあった。それらを失ったならば、またこの村から走り出してみよう。名誉と誇りを取り戻したい。胸を張って私がメロスだと言えるようになりたい。その一心で走るのだ。


 二、三里進んだ所で山を登ることになった。今のメロスの脚には随分と堪える坂であった。坂を上り切るより手前で、脚がもつれた。その時、ふと、森の中から川のせせらぎの音が聞こえた。水分を欲していた体は自然と音の方へ向かって行く。川岸に倒れ込んだメロスは目の前に流れる川に直接顔を押し込んだ。雪のように冷たい水は体の火照りを冷まし、メロスの喉を通った水は彼に潤いをもたらした。メロスは満足すると仰向けになった。大の字のまま深呼吸をする。一瞬目を瞑った所で危ないと我に帰った。


「川はいつも私を惑わす。疲労は恢復したのだ。行かねばならない。」


 再び立ち上がったメロスが坂を登り切ると、突然、一隊の山賊が目の前に躍り出た。彼には以前にも似たような光景を目にした記憶があった。


「待て。」

「何をする。おや、お前たちの顔は何処かで見たことがあるな。」

「そう言うお前。メロスだな。羊飼いの家の男が王を諭し、城の役人になったと話は聞いているぞ。」

「挙句、仕事を放棄し里に帰った臆病者だとな。」


 山賊たちは続けてメロスを嘲笑った。


「私は王の命令で戦場まで行かねばならぬ。道を開けろ。」

「その戦争のおかげで国は大不況さ。路頭に迷った輩が山賊の真似事を始めて、俺たちも生活に困っている。役人のお前が仕事をしないからだ。謝罪の気持ちがあるなら持ち物全部を置いて行け。」

「いつも何も持っていなくて申し訳ない。強行突破させてもらう。」

「二度も負けぬ。」


 メロスは一人目が振り翳した棍棒を奪おうと試みた。しかしメロスも老いており以前のように上手くはいかなかった。山賊たちは「メロスも落ちた。」と彼を馬鹿にした。二人目も同様に棍棒を構えたが、メロスには彼が手を抜いているのがわかった。その隙を見逃さずに、棍棒を奪うことに成功したメロスは猛然一撃、一人残らず殴り倒した。


「少し時間を使い過ぎた。」


 山賊に打ち勝ち、山を下り始めた頃には日が傾き始めていた。色が変わりゆく空にメロスも焦りを感じるようになった。彼の心臓も燃えるように熱くなっていた。川で体を冷やしたのが嘘のようだった。下り坂が追い討ちをかけ、メロスの脚は派手にもつれた。坂を転げ落ちたメロスは傍の大木の幹にぶつかり止まることができた。激しい打撲がメロスの体を痛めつける。弱った体、無理な運動、山賊との決闘で彼の体は既に限界だった。しかしメロスは立ち上がることを諦めなかった。戦場に手紙を届けなければならない。そして何より、今ここで立たなくてはもう二度と自分自身さえも信じることができなくなるだろう。私は今ここで立ち上がり、走らなければならないのだ。さあ、走れ! メロスよ!


 山を抜け、荒野に出て、しばらく走ると遠くから男たちの勇ましい声が聞こえてきた。悲鳴、怒声、罵声。それらからすぐに戦場に着いたのだと気が付くことができた。野営所も見えてくると、メロスは残っている力を振り絞り声を張った。その声に一人が反応し、立ち上がる。彼は裸足で駆けて来る男の姿を見て目を丸くした。


「メロス様!」


 メロスもまた、彼の声に聞き覚えがあり、すぐにフィロストラトスだと思い至った。彼はよろめくメロスを力強く受け止めた。するとメロスも一気に力が抜け、フィロストラトスに支えられながらその場に座り込んだ。


「メロス様。どうしてここに。ここは戦場ですよ。お身体の具合も良くありませんでしょうに。」

「気遣うなら捲し立てるな。王の命を授かって来たのだ。」

「王様から?」


 メロスは汗で皺のよった手紙をフィロストラトスに差し出した。彼はそれを受け取ると紐を解き、すぐに読み始めた。


「この戦争を終わらせよ、とのことだ。」


 フィロストラトスは手紙を握り締めながら、何度も頷いた。目からは大粒の涙が溢れていた。


「ええ、終わらせましょう。日暮れまでに敵陣へ停戦の手紙を馬で届けます。」

「ああ、よろしく頼んだぞ。」


 少し開けて、「メロス様。」とフィロストラトスはメロスの名前を呼んだ。彼は溢れた涙を拭きながら、言葉を絞り出そうとしていた。


「喜ばしいことだろう。殺し合いなど、誰も望みはしまい。」

「ええ、そうです。この地獄が終わることが嬉しいです。しかし、今はより嬉しいことがあるのです。」

「そんなものがあるのか。」

「ええ、ございます。」


 そう語ると、フィロストラトスは力強くメロスを抱擁した。


「どうか私のご無礼をお許しください。私は、メロス様が以前のようなお姿になられたことが嬉ししいのです。セリヌンティウス様と仲良くしておられた、あのお姿です。」

「それはどうだろうか。脚は以前のように動かぬ。それに飯を充分に食べていなかった。身体は痩せ細ってしまっている。」

「見た目の話ではありませぬ。行動、言葉のお話でございます。」


 メロスははっと気が付いた。知らぬ内に、ここまで辿り着いたことで自信の灯火が再び心に現れていたのだ。気高きかのメロスの心が蘇っていた。そう実感した。


 フィロストラトスはメロスから離れると、「明日、共に帰りましょう。メロス様の馬もご用意します。」と言った。しかしメロスはそれを断った。


「いや私は先にシラクスへ戻ろう。私のことを信じてくれている人がいる。責務を全うしたことを告げに行きたい。」

「まもなく日が沈みます。夜の山越は大変危険でございます。……そう申してもあなたは行かれてしまうのでしょう。止めはしません。どうかお怪我のないように。」

「ああ、私を信じていてくれ。」


 メロスはフィロストラトスを背に来た道を引き返し始めた。思いの外、すぐに脚に力が入り、容易に立ち上がることができた。それには自分でも驚いたが、メロスはすぐに走ることに集中した。神経が研ぎ澄まされていく感覚が懐かしかった。ここまで来る際に感じていた老いはもうなかった。意思に体が追いついて来ていた。ただ一人信じてくれていた友の為だけではない。今はそれ以上に多くの人の信頼を背負って走っている。それがメロスに力をくれているのだ。


 体の底から漲る力を頼りに走るメロスは疲れも知らなかった。月が空高く昇る頃には、メロスは既に山を降り始めていた。途中、再び件の山賊に出会したが、彼らはメロスの姿を見るとすぐに逃げてしまった。やがて荒野を駆け、空が薄紫色へと変わり出す。懐かしきシラクスの街が見え始めていた。


「ああ王よ。次はあなたの勝利です。私は、あなたに救われた。」


 メロスは胸から込み上げるものを抑えることが出来なかった。溢れた涙は日の光を反射して煌めいてた。勇者は朝焼けに照らされる城門へと走って行くのだった。

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走れメロス:Beyond the Believes 雨瀬くらげ @SnowrainWorld

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