第2話

***


 休日が終わり、また新しい一週間が始まる。


 いつものバスの中。恋愛談義はもう読み終えて、私は外の風景を眺めていた。


 あの人はもう、読み終えたのかな……。


 あの人と感想を共有するまで、次の本に手をつける気になれなかった。


 バスが停留所に停まる。

 しかしあの人は乗ってこなかった。接客業である書店員。きっとシフト制なんだろう。そう毎日決まった時間に会えるわけではない。

 彼に会えなくて、がっかりしている自分がいる。


 次の日の火曜日、この日の朝も、彼はバスに乗ってこなかった。少しの寂しさを感じながらも、私は一日の業務を終えた。気晴らしをするために、会社から一駅先の大型書店に行った。いつもは家の近くの小さな古本屋を利用することが多いのだが、新刊や本を大量に購入したいときは、いつもこの書店を利用する。


 店内に入ると同時に、本の匂いが全身をやさしく包み込んでくれる。この感じは、何度ここへ来ても飽きることはない。必ず立ち止まって深呼吸。ほっと一息つけるこの瞬間がたまらなく心地いい。


 文庫本のコーナーに行って、平積みされた本をさっとチェックする。そこには私がこの間まで読んでいた恋愛談義もあった。


『あなたとまた話したいなって』


 そう言ってくれたことを思い出す。あれは、社交辞令だったのか。それとも本心なのか。どちらにしてもそう言ってくれたことがうれしかった。

 私はというと、あの人ともう一度話したい。勧めた本の感想会がしたい。だけど、連絡先を交換したわけでも、次の約束をしたわけでもない。彼にもう一度会うには、彼があの時間帯にバスに乗ってくれるほかない。


 もしかしたら、もう会えないのでは………。


 そんなことを考えていると、近くで「あっ」と声が聞こえた。大して大きい声ではなかったが、本屋と言うこともあり、その声はとてもよく響いた。声がした方へ顔を向けると、そこには雑誌を十冊ばかり抱えたあの人の姿があった。


「あっ」

 今度は私がそう声を出した。

「どうも…」

 彼ははにかみながら、近くにやってきた。

「お仕事帰りですか」

「ええ。勤務先、ここだったんですね」

「そうなんです」

 まさかここで働いていただなんて………。何度も利用したことのある書店なのに全く気がつかなかった。


「あの、良かったらこの後、ご飯一緒にどうですか。僕、あともう少しでシフト終わるんです。あの本の感想とかも共有したいし……、もし嫌じゃなかったらなんですけど………」

 思いがけない誘いに、心臓がドクンと脈打った。

「行きたいです! ぜひ」

「決まりですね。あと二十分ほどで終わるんで、それまで店内を見て回っていてくださいね」

 それだけ言うと、彼は持っていた雑誌を抱え直して、別の売り場に行った。その後ろ姿が見えなくなるまで、ボーッと見つめていた。


 それからの二十分はとても長く感じた。急な彼の誘いに心がどうしても浮き立つ。本を眺めていてはいるが、タイトルも帯に書かれたキャッチコピーも、何も頭に入ってこない。思考はいつしか「どうやって感想を伝えよう」「次はどんな本を薦めよう」へ。


 新刊台を見つめてからしばらく経ったころ、「あの」と声を掛けられた。振り返ると、エプロンを外し、あのスーツを着た彼がいた。

「お待たせしました」

 私は持っていた本を元に戻した。

「その本、買わなくていいんですか」

「はい。またにします」

 今は早く、この人と話がしたい。

「じゃあ行きましょうか」






 私たちは、書店から少し歩いたところにある居酒屋に入った。ご飯時なせいか、店内はざわついている。自然素材を使った内装が特徴的で、シングルソファーがテーブルを囲んでいたり、照明を絞っていたり、壁にアーティスティックな絵が飾られていたりと、かなりオシャレな店内だ。居酒屋っぽくない内装からか、女性のお客さんが多い。

 私たちは奥のテーブル席に案内された。


「そういえば僕たち、自己紹介もまだでしたね」

 注文を終えて、彼が言った。

「僕、篠崎と言います」

「私は澤田です」

「なんか変な感じですね。名前も知らない者同士でご飯へ行くなんて」

「そうですね」

 苦笑まじりに頷いた。

 もしも彼ではなく他の人からの誘いだったら、きっと断っていただろう。この人、篠崎さんだから、食事に行きたいと思った。


「そういえば、昨日はお仕事お休みだったんですか」

 昨日、篠崎さんがバスに乗ってこなかったので聞いてみた。

「ええ。うち、書店だから決まった日に休みがとれなくて。休みどころか、出勤時間もバラバラで。今日なんかいつもより早い時間に出勤しないといけなかったんです。そのおかげで早い時間に上がらせてもらえて、今こうして澤田さんと食事が出来るんですけどね」


 世間話をしていると、次々と料理が運ばれてきた。シーザーサラダ、刺身、から揚げ、焼き鳥。どれもおいしそうだ。目の前の料理に反応してか、タイミングよくお腹が鳴った。その音を聞いて、篠崎さんは小さく笑った。

「食べましょうか」


 料理を楽しみつつ、会話も弾んだ。趣味の話、休日は何をして過ごすか、どんな音楽を聴くのか、どうして今の職についたのか。こんなに楽しく誰かと食事をしたのはいつぶりだろうか。

 そして会話はいつしか、恋愛談義の話へ。


「そういえば、恋愛談義、読み終わったんですよね。どうでした?」

 篠崎さんは「待ってました」と言わんばかりの顔をした。

「いやもう、すごく面白かったですよ! 僕、恋愛ものはあんまり見たり読んだりしたことないんですけど、そんな僕でも共感できるシチュエーションがいっぱいあって」

「わかります。ラブストーリーの王道やあるあるが一杯詰まっているんですよね。」

「『あー、わかるわー』って思いながらページをめくってました」

 恋愛ものにあまり触れていない篠崎さんでも、共感できるポイントがあってよかった。

「私、あれが好きです。今までなんとも思ってなかった幼なじみを、何かのきっかけで、幼なじみとしてではなく、異性として意識し始めるっていうシチュエーション」

「ああ、それありました! 確かにフィクションの世界ではよくある話ですよね。一方は片思いをしているのに、もう一方はなかなかそれに気づいてなくてってやつ。

 僕はあれが好きだな。本屋さんで一冊の本を取ろうとしたら、他の人と手が重なるっていう………。本屋で働いているからか、一番身近なシチュエーションですね」

「ロマンチックですね」

 なんでも平凡に生きてきた私にとって、そんな運命的な出会いや、異性の幼なじみもいなくて。だからそういうフィクションの世界に憧れてしまう。


「なんかいいな、そういうの。もう社会人になると、出会いって本当に少ないから。そうやって男の人と出会えるの、いいなって思います」

「じゃあ……」

 篠崎さんは手を止めて言った。

「『バスで偶然乗り合わせた男性と恋に落ちる』っていうのはどうですか」

 突然の彼からの言葉に、私も思わず手を止めた。

 顔を上げると、彼は顔を真っ赤にしていた。

「いや、ちょっとこれ恥ずかしいな。今の、気障でした?」

 彼はそう言いながら、頬をかいた。


「実は今日、食事に誘ったのは、感想を共有したいのもあったんですけど、澤田さんともっとお近づきになりたいっていう想いもあったんです。僕たち、お互いのことほとんど何も知らないけど、これも何かの縁かなって」

 篠崎さんは、まるで気持ちを落ち着かせるかのように、グラスの水を一口飲んだ。

「バスの中で、本を読んでいる姿が視界に入るたびに、あなたのことが気になってしまって。最初は『あの人いつも本読んでるな』程度に思っていたんですけど、いつしかその姿に惹かれていったんです。それで、あのとき思い切って声を掛けてみました。内心ドキドキでしたよ。普通っぽく話せたかなって。このドキドキが聞こえてなかったかなって」

 そうだったんだ……。あのとき、篠崎さんが緊張しているなんて、微塵も感じられなかった。あのときも今も、緊張しているのはむしろ私の方で。


 彼は真っ直ぐに私を見つめて言った。

「それであの……、僕とのこと、真剣に考えてくれませんか。読書友達ではなくて、一人の男として」

 彼のその言葉に、心臓が大きく跳ねる。このドキドキの正体に、私ももう気づいている。こんなふうに想いを告げてくれる人に、そして小説を好きな人に、悪い人はきっといない。



***



 通勤バスの中で本を読む。それが私の日課だ。読書は憂鬱な朝を楽しいものにしてくれる。


 座る席は決まって後ろから二番目の二人席。


 職場までの二十分間、この時間は自分だけのもの。本を開けば、周りの音はシャットアウトされ、滑らかに本の世界へ入りこむ。


 そして今私の隣には、彼がいる。彼も私と同じように本を読んでいる。


 隣で本を読みふけっている彼をちらっと盗み見る。その表情に思わず頬が緩む。

二人で本を読んでいるささやかなこの一時が、すごく幸せ。


 私は鞄の奥にある一冊の本を見つめた。


 それは二人の距離を縮めてくれた本。彼が食事に誘うきっかけを作ってくれた本。そして、彼が私に告白するきっかけを作ってくれた本。


 たくさんのきっかけを与えてくれたこの一冊の本は、今でも私の鞄の中に入っている。

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恋愛談義 三咲みき @misakimaru

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