恋愛談義
三咲みき
第1話
通勤バスの中で本を読む。それが私の日課だ。読書は憂鬱な朝を楽しいものにしてくれる。
座る席は決まって後ろから二番目の二人席。
職場までの二十分間、この時間は自分だけのもの。本を開けば、周りの音はシャットアウトされ、滑らかに本の世界へ入りこむ。
私は、最初のページをめくる瞬間が一番好きだ。このページにはどんなことが書かれているのだろう、これからどんな世界へ私を連れて行ってくれるのだろうと、期待で胸が膨らむ。
今日もいつも通りに、本を開いた。
本の世界に入ってしばらくたったころ、バスが急停止。反動でつんのめり、前の席に本をぶつけてしまった。その拍子に、表紙と最初のページに挟んでおいた栞が、隣の人の足元を超えて通路へ。
「あっ」
やってしまった。ちゃんと栞を手で持っておくんだった。通路に落ちた栞は、いつ乗客に踏まれるかわからない。自分で拾おうにも、隣の席にはほかの乗客が座っていて、拾いづらい。
どうしようか、考えていると、栞に気づいた隣の人が、腰をかがめてわざわざ拾い上げてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ」
栞を受けとると、今度は落とさないように、しっかりと握った。
なんとなく、このまま読み続けるのが気まずくなり本を閉じた。そのとき――。
「本、好きなんですか」
隣から聞こえた問いかけに思わず横を見た。このとき、はじめて隣の人の顔をちゃんと見た。清潔感のある髪型。少し童顔っぽく見えるが、年の頃はおそらく二十五歳前後。スーツを爽やかに着こなしている。こんなに素敵な男性が隣に座っていたなんて。意識した途端、心臓が急にドキドキと高鳴った。
「えぇ、好き……です」
「実は何度か、本を読んでいるところをお見かけしたことがあるんです」
男性が柔らかく微笑んだ。
「あ、そうですか」
話が続かない。思えば、男の人と仕事以外のことで話したのって、いつぶりだろう。
「あの……」
バスが停まった。
「すみません。僕、ここで降りないといけなくて。ではまた」
「あ……、はい、また……」
その人が降りてから気づいた。
「また」なんて、あるのだろうか。
***
次の日の朝、あの人は私がいつも乗る停留所の次から乗ってきた。昨日のことがあって、私は本を読みつつ、周りの様子を気にしていた。その人と視線が合うと、彼はニッコリ笑い、私の隣に腰掛けた。
「おはようございます」
「おはようございます」
彼は私の手元を見て問いかけた。
「その本、昨日と同じ本ですか」
「はい」
「タイトル、お伺いしても?」
私はお気に入りのカバーを外して、表紙を彼に見せた。
「『恋愛談義』です」
すると男性は「あぁ」と顔を綻ばせた。
「今、若い女性に人気ですよね」
彼みたいな若い男性がこの本を知っていることにびっくりして思わず尋ねた。
「この本、ご存じなんですか」
「ええ。知っているといっても、タイトルだけですが………。僕、こう見えて書店員なんです。職業柄、今売れている本は把握してます」
彼は誇らしそうに笑った。
彼が書店員ということがあまりにも意外で、次の言葉が出てこなかった。店頭で本を売っている姿より、どちらかというと営業で颯爽と外回りをしている姿のほうがしっくりくる。
「ただ、書店員だからってたくさん本を読んでいるわけではなくて。活字があまり得意ではないんです。本を扱う仕事をしているのに、恥ずかしい限りです」
「そんなことは………」
「小説自体は好きなので、少しずつ読み進めてます。1ページ目をめくる瞬間とか、本の重さとか質感とか、本のすべてが好きなんです」
わかる……。ページをめくったその先に、どんな物語が続いているのか。指先で紙の質感を味わいながら、自分の手で物語を進めていくこと。文字を追って、創造された世界を自身の脳内でイメージすること。私も本のすべてが、たまらなく好きだ。
「活字が苦手な人でも、読みやすい本って、ないですかね」
彼はひとりごとのように呟いた。
私は自分の手にある恋愛談義を見た。
「この本、読みやすいと思いますよ。ページ数もさほど多くないですし、面白いですし。あ、でも。男の人は、恋愛小説とかあまり興味ありませんか?」
「いやいや、そんなことないですよ。数は少ないですが、何冊か読んだことあります。それのあらすじって確か……」
恋愛談義。これは文芸部の高校生が、ドキドキする恋愛小説の創作に向けて、ラブストーリーについて研究するという内容だ。
ラブストーリーではおなじみの展開、映画や漫画で誰もが一度は目にしたことのあるシチュエーションがてんこ盛りで、なかなか楽しい一冊だ。
「じゃあ僕、それ読んでみることにします。あなたと話していたら、僕も読んでみたくなりました」
そして彼は「それに……」と続けた。
「あなたとまた話したいなって」
バスが停留所に止まった。彼は昨日と同様に「また」と告げて降りて行った。
自分の胸がずっとドキドキしていたことに、彼がいなくなってから気づいた。
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