碧き月の夜に

カノン

第1話

 ヨーロッパの町はずれに位置するある小さな村。

 そこには古びたアパートがあり、二階の一番端っこが青年の住む部屋だった。


「はぁ、またか……」


 色素の薄い、薄灰色の髪。

 それを掻き乱して青年、ルーガルは呟く。


 その金の瞳にうつされた光景は、まるで強盗にあったかのようにちらかされた、自分の部屋。

 普通ならかなり動揺するような光景だが、ルーガルはさして何も思っていないのか、黙々と片付けを始める。

 それどころか、


「今日は普段よりも散らかしてはいないか。……いつもこれくらいだといいんだけど」


 ため息をつき、日常の1ページのようにこの惨状を受け止めていた。

 だが仕方ない、ルーガルからすればこれは紛れもなく日常なのだから。


 物心のついたころ、それは突如として起きた。

 月に一度、部屋が今のように荒らされていたり、目が覚めると別の場所にいたりするのだ。

 それは寝ている時にしか起きない上に、今日を生きることしかできないルーガルは、自分で夢遊病だろうと結論付け、今日に至る。


 幸いと言うべきか、部屋の物が壊れることは少なくただ散らかしているだけで、どこかにいる場合も基本的には近場で倒れていて、悪さをしていたわけではないようだ。

 故にルーガルは治すことを諦め、仕方ないと割り切って生きてきたのだった。


 そんなある日の夜。

 ルーガルは夕飯を食べ終わり、窓から外を見ると、大きく輝くブルームーンが目に入る。


「きれいだ……」


 いくつもの星がきらめく空に、大きく浮かぶ碧き月。

 幻想的という言葉にふさわしいその光景にルーガルは思わず魅入った。


 手近な椅子を一脚持ってきて、ルーガルは魅かれるその世界に入り込む。

 願わくば、この月が永遠に沈まなければいいのに。

 儚い祈りを胸に抱き、ルーガルは空を、幻想の世界を見上げていると、ふとルーガルの記憶にデジャヴが起きた。


 ……そういえば小さい頃にもこの碧い月を見たことがあったっけ。

 あのときは、たしか……。


「……?」


 それがいつの記憶だったのかを思い出す前に、壁の向こうから聞こえてきた音に、現実へと引き戻される。

 なんだ、と疑問を持つが、その答えはすぐに見つかる。


 隣の住人が帰って来たのだ。

 パーティーでもやっているのだろうか。

 ルーガルだけの世界に入って来た異物。

 それは、ルーガルの思っていた以上に心を逆なでした。


「……はぁ」


 だが、それを邪魔することは出来ない。

 文句を言いに行くなんて、そんな度胸も勇気も僕にはないんだ。

 そんなことはわかってる、わかってるが……。


 あぁ、でも邪魔だ。

 世界に集中できない。

 美しいものに入り込めない。

 幻想に魅入ることができない。


 見上げる碧き月の輝きが増していく。

 ルーガルは、それに促されるように思考が汚染されていって、

 じゃまだじゃまだ、じゃまじゃま……。

 あの邪魔者共を……。


 殺してやりたい。


 そう考えているうちに、意識を失った。


 ●


 ごつん。


「……い、たい」


 ルーガルは自分の頭に何かが当たった感覚で目が覚める。

 どうやら知らぬ間に寝てしまっていたらしい。

 最後の記憶があやふやで、何をしていたのだろうか。


「あぁ、そうだ。あの月を見上げて考え事をしてたんだ」


 とすれば、椅子から転げ落ちてしまったのだろうか。

 ルーガルは打った頭を押さえて立ち上がる。


「……?」


 すると感じるのは妙な違和感。

 何かがおかしい。


「……あ。ここ、どこだ?」


 そして、ここは自分の部屋ではないと気付く。

 同じ間取りだが、内装がまったく違う。


 パーティーをしていたのだろう、部屋中が飾り付けられ、大きなケーキが真ん中に置かれて、七面鳥が各皿に取り分けられていた。

 無論、ルーガルはパーティーなどしていない。


 故にすぐ違うと気付いたのだが、

 どこかで見覚えがある。だが……、一体どこで見たのだろうか。


「……あぁ、そうか」


 すぐに思い出す。


「隣の夫婦の部屋だ」


 最初に挨拶に来たときに見た隣人の家だと、置いてあった家具で判断した。

 なぜこんな所にいるのか。

 真っ先に思いついたのは自分の病気だ。

 だが、こんな風に家に侵入したことは今までなかった。


「そもそも、どうやって入るんだって感じだけど」


 窓から入るにしても、ここは二階。

 入れるわけがない。

 このまま考えてもらちが明かず、とりあえず勝手に入った事を謝ろうと隣人を探す。


「ついでにもう少し静かにしてくれと言おう、か……な?」


 ぐにゃ、と足下でなにかを踏んだ感触があった。

 なんとなく気持ちの悪い、その感触。

 何だろうと顔を向けて……、背筋が凍った。


 そこにあったのは肉。血を流す、そう時間もたっていない腕の切れ端が、そこに落ちていたのだ。

 あまりにも現実的ではない光景。

 楽し気なパーティーをしていただろう光景に、突如入って来た異物。


「……あ、あああ、うわあああぁぁぁぁぁぁっ!」


 ルーガルは膝が震え、叫び、思わず尻餅をついた。

 震えのせいで立ち上がれない。それでもここから離れなければと、人間的な直感が働く。


「な、なにが……、なんなんだよぉっ!」


 無意味に繰り返しつぶやき、床を這いずり前に進む。

 ただ逃げなければと適当な部屋のドアをあけ、中で座り込んだ。


「なんで、なんでぇっ!」


 なぜこんなことになっているのか、どうして自分はここにいるのかと。

 もう震えが止まらない。本当にどうにかなってしまいそうだ。


 そうしてうずくまっていた足に。

 生暖かい何かが……。


「……な、に?」


 どろっとした液体。

 それは、目の前のバスルームから出てきているようで……。


「……」


 背筋がぞくぞくする。

 ルーガルはそれを見たくなかった。

 なんとなくそこに何があるのか、わかってしまったから。


「あ、あぁぁぁ……」


 いやだ、見たくないと考え、足を動かすが。

 その足が、閉まっていたドアを蹴り開けてしまった。


「あぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!」


 そこには……無残な死体が何体も転がっていた。

 腕のない死体、足がもぎ取られた死体、頭のない死体、内臓が飛び出る死体、原形すらとどめない死体、死体、死体、死体……。


 パーティーに参加していたのだろう人々の最後の姿。

 ルーガルは恐怖し、顔をそらす。

 だが、顔を逸らした先には。


 狼の顔をした大柄な男、すなわち狼男がいた。


「……いやだ」


 殺される?


「いやだ、いやだ」


 目の前の、隣人たちのように?


「いやだ、死にたくない、死にたくないっ!」


 ルーガルは叫び、その場でうずくまる。

 無駄だとわかっていても生きたいと願って。

 ただただ生を請い続ける。


「頼む、助けてくれぇっ!」


 ……そのままどれほどの時間が過ぎたのだろう。

 ルーガルは狼男が何もしてこないのを不思議に思い、恐る恐る顔を上げる。


 そこにはまだ狼男がいた。

 ……ルーガルのようにおびえきった狼男が。


「な、んだ……?」


 どういうことか、ルーガルは気付く。自分はいま鏡を見ているのだと。

 大きな姿見だ。今のルーガルの全身を見ることができるほどの……。


「……嘘だ、見せるな、そんなわけ、違う、違う違う!」


 ルーガルは狂ったように叫んで、部屋を飛び出す。

 いやだ、知りたくないと思うが、ルーガルの頭は情報を勝手に整理して。

 つまり、ルーガルの正体は鏡に映る狼男であり、この隣人達を襲ったのは……。

 ルーガルが答えに思い至り、顔を上げたその時。


「あ」


 窓から、碧き月が見えた。

 その時、月がひと際輝いて……、記憶が流れ込んでくる。


 ルーガルが眠っていたときの記憶。

 いや、もう一人の自分だったときの記憶を。

 これまでルーガルが病気だと思っていたことは、全て狼男になっていたせいだと。


「はは」


 目が覚めるとどこかにいたのは獲物を探していたから。


「ハハハ、」


 部屋が散らかっていたのは本能に逆らえず、暴れたから。


「ハハハハハッ!」


 そして……隣人たちが死んでいるのは、自分が殺したから。

 そうして全てを理解していくうちに、ルーガルは、否、狼男は自分の理性が無くなって行くのを感じる。


「そうだ、こんなことをしてしまったんだ」


 自分が潰れて、


「もう、人間じゃいられない」


 端から壊れていって、


「そもそも僕は人間だったのか?」


 裏と表がひっくり返って、


「……どうでもいいか、もう、いらない」


 理性が消えて、本能へと意識が変わっていく。

 だが、その感覚はとても気持ちよくて、壊れたものが消えていって……。


 残ったケダモノは、本能に従い動き始めた。

 まずは食べ残していた肉を平らげる。


 浴室に積み上げられた死体。

 遊び過ぎて、壊れてしまったおもちゃの山。

 それを手の届く場所からとっていって、

 ぐちゅぶちゅとぶちぶちと肉をかみちぎり、腹に収めていく。


 内蔵も骨も残さずに。

 バキンと音を立てて骨を短く折って、口内でさらに砕く。

 残った血すらもきれいになめとる。

 舌を伸ばして、一滴も残さないように。


 そうして口を血まみれにした狼男は、ニタァ、と口角を上げた。

 最後に外に置いてきていた、腕を丸ごと飲み込む。


「……」


 そして、ここにはもう、自分の獲物はいないと、

 自分を満足させてくれるものはないと悟った。


 ……これだけ?


 狼男は自分の際限のない欲望に壊れそうになり、頭を抱える。

 ……足りない。


 悲鳴、怒号、狂気、恐怖、血、肉、骨、……人間。


 足りない。

 満足できない。


 もっと悲鳴を聞かせてくれ!

 もっともっと食わせてくれっ!

 もっともっともっと満たしてくれ‼


 狼男は声にならない叫び声をあげて、窓を突き破り外へ出た。

 恐怖し、泣き叫び、飢えを満足させてくれる新たな獲物を探すために。

 碧き月に向け、遠吠えを一つ残して……。

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