第五章 ONE
ぴたり、田辺の動きが止まるった。
仰向けになった状態で、彼は天上のあたりを脅えたように見つめている。
ゆかりは、そんな彼を面白そうに眺め、そっと顔を近づけた。
ゆかりの濃い蜂蜜色の髪が、田辺の額にばさりとかかった。
「これからあんたに、いいものを見せてあげる。あたしを怒らせた罰を、今から受けるがいい」
優しく、歌うように告げるゆかり。
田辺は、そんなゆかりの顔も見えない様子で、尚も天上に視線を這わせていた。
「ねえあんた、どういう風に死にたい?どうせ死ぬなら、苦しまない方がいいわよね。こんな死に方なんて、したくないわよね」
くすくすくす。ゆかりが、その顔に似合うような可愛い笑いを洩らす。
声に妖艶な響きが加わり、滑らかな指が老いた男の頬をなぞった。
しかし田辺は、ゆかりの甘い臭いを感じるゆとりもないようだ。驚愕に顔を歪め、何か見えない物を探し続ける。
「なっ、何だこれは!」
男が、脅えたように小さく悲鳴を洩らす。
手の痛みさえも忘れたのか、逃げようと必死になって暴れ出した。
「何か見える?おかしいわね、あたしには見えないのに。どうやら、あんたにしか見えてないみたいよ」
けらけらけら、楽しそうに笑うゆかり。
ゆかりが笑う度、由沙の胸に黒々とした固まりが膨らんでいくようだった。
彼女の姿に悪寒が走る。
その姿はまるで・・・・、まるで、蟻を踏み潰して喜ぶ子供。
罪悪感など微塵もなく、ただその行為に熱中しているような・・・・。
そのうち男は、苦痛を堪える顔になった。
何度も何度も、潰れたようなうめき声をあげる。
「熱い?そりゃそうよ、見てご覧────。あ-あ、もうこんなに皮膚が溶けてるわ。膿が吹き出して、骨まで剥き出しになってる。・・・・苦しい?生きながら炎に焼かれてどろどろになって死ぬなんて傑作よね」
涙を流して笑うゆかりに、由沙は更に肌寒いものを感じた。
男は、勿論炎に焼かれている訳ではない。
由沙の目から見れば、男は訳もなく苦しみもがいているだけにしか見えない。
ゆかりの能力を知らなければ、狂ったのだと思っただろう。
コントロール。人の五感を操り、見えないものを見せ、聞こえないものを聞かせ、感じないものを感じさせる。
それによって、人を廃人にまでしてしまえる力だ。
ゆかりは一度だけ、由沙にその力を使いかけた事がある。
あの時は同調したから助かったのだが、もし同調しなければ、自分もこれと同じ目にあっていたのかもしれなかった。
体が、震えてくる。
ゆかりの力にではない、ゆかりがする行為に対してだ。
この少女は何故、平気でこんな事が出来るのだろう?
「さてと、話す気になった?」
ゆかりが、田辺の耳元で囁く。
彼は震える口を動かし、何か言ったようだった。
「はっ?聞こえないわね。もっと大きな声で喋んなきゃ、何言ってるか分かりゃしないわ」
天使のような声で、悪魔のような言葉を吐く。ゆかりはわざと惚けた振りをし、冷たい視線で男を脅した。
田辺は、冷汗を流しながら、激しく深呼吸をする。
「言わないなら、別にいいわよ。その方が、あたしも楽しいし・・・。言うの?言わないの?言うんなら、さっさと言えば?」
ぴくぴくと体を痙攣させながら、田辺は脅えたように何度も頷いた。
「わっ、私は、上から頼まれただけだ。杉田の娘を殺して、研究所まで運ぶようにと。運ぶだけで・・・・」
「そう」
遮るように、ゆかりが呟く。
不意に、男は何かを聞いたのか、首を左右に振って音の正体を探しだした。
「どうして、由沙を殺さなくちゃいけないの?研究材料なら、生かしておいた方がいいんじゃない?」
ゆかりの囁きより、男は音の方が気になるらしかった。
びくびくしながら、きょろきょろと部屋の中を見回す。
「気になる?はははっ、どうやら電車が来るみたい。こんな所に電車なんて、笑っちゃうわ。可愛そうに、あんたは動けない。だって、縛られてるんだもの。あれに潰されたら即死よね。体がばらばらになって、首も引きちぎれてさ、内蔵なんか飛び出したりして。・・・・楽しいでしょ?」
男の目が、恐怖で血走る。信じられないと言うように、視点が一点に向かった。
「言わないと、死んじゃうかもね」
「こっ、この娘の頭のチップは、殺さないと取り出せない。そういう仕組みなんだ!杉田博士は、娘が記憶を取り戻せないように、完璧なプロテクターを施したんだ!」
田辺は、早口で言った。視点は相変わらず、一点にのみ絞られている。顔が、哀れなくらい必死の形相を浮かべていた。
「そうだ、生きたまま取り出すのは不可能だ。それなら、最初から殺しておいた方が早い。殺し屋は、上の方から用意して貰った。まさか、我々の他にも狙っている奴が居たなんて・・・・わあああっ!、たっ、助けてくれ!来るな!止めてくれ!」
凄まじい悲鳴がこだました。
田辺は口から泡を吹き、その場で失禁した。
それを見て、ゆかりがまた楽しそうに笑う。
「ば-か、これぐらいで根をあげてんじゃないよ。これからが、もっと楽しくなるってのにさ」
ゆかりは男の腹に跨がり、襟を掴んで引き上げた。それから、凄まじい平手で頬を殴りつけ、気絶した男の目を覚まさせる。
彼女の口調が、何時もより乱れていた。まるで獲物を貪り食う肉食獣のように、瞳が爛爛と輝いている。
「ゆかり、止めてよ・・・」
由沙は、溜まらず彼女に呼び掛けた。けれど、ゆかりは由沙の言葉が聞こえないのか、再び男をなぶり出す。
「こういうのはどう?虫がさ、あんたの体に卵を生む。そいつはどんどん成長して、白い芋虫になるっていうの。そんで、あんたの体を徐々に食い漁っていくんだ。自分の中で蠢く虫の動きが、あんたも分かるでしょ。やがて虫は皮膚を食いやぶって、ぞろぞろ這い出て来る」
「うああああああぁぁぁぁっ!悪かった、もうしない、だから助けてくれ、これを止めさせてくれ!俺は知らない。殺せ、殺した後にチップを取れ、本当にそう言われただけなんだ。実験材料にしたかったが、上が出来ないって言うから、仕方無かったんだよ。頼む、頼むから・・・・許して・・・・、ぎゃああああぁぁぁぁっ!」
「ちっ、本当に知らないみたいね。まあいいわ、あんたから聞き出せる物はもう無いみたいだし。助けてだって?馬鹿言ってんじゃないよ、誰があんたみたいなクズを助けるもんか。あんたは、ここで狂い死ぬがいい」
再び気絶した田辺を、ゆかりはまた殴って起こした。
彼は薄目を開け、それから脅えたように縮こまる。
「・・・ばっ、化け物だ!お前は、化け物だ!あっち行け、消えてしまえ!誰か、誰か助けて!お母さん、お母さん助けて、怖いよう!化け物に食われちゃうよう!」
恐怖で錯乱したのか、男は突然子供のように激しく泣きじゃくった。
ひいひい喉を鳴らし、涎が口から滴り落ちる。
由沙は、もう見ていられなかった。
確かにゆかりのしている事は、狂人染みている。
それなのにゆかりは、本気でこれを楽しんでいるのだ。
「ばーか、母親がお前を助けるもんか。誰だって、自分の身が可愛いんだよ。あんたの母親もそうさ、あんたを助けに来たりしない」
低い声で断定的に言うと、ゆかりは声のトーンを戻した。
「ねえ、どうやって死にたい?押しつぶされるのがいい?切り刻まれるのがいい?それとも、いっそのこと生きたままミキサーにかけてミンチにしてあげようか?」
ゆかりは、田辺に顔を近づけて囁く。彼は、顔を涙でぐじゃぐじゃにし、今にも気を失わんばかりだった。
「ゆかり、もう止めてよ。分かったんだから、いいじゃない」
「煩い!邪魔しないで、これからもっと楽しくなるのに・・・」
ゆかりの目は、既に正気を逸していた。男を苦しめる事に、熱中しているのだ。まるで悪魔に取りつかれたように、残虐な方法を考えながら北叟笑む。
「ゆかり!もういいよ、もう充分よ。ゆかりったら!」
由沙は膝を付くと、ゆかりの腕を掴んで激しく揺すった。
揺すりながら、涙が流れてくる。
ゆかりが、どうしてこんな事をするのか分からなかった。何故、人を苦しめるのがそんなに楽しいのか理解出来ない。
ゆかりが、狂ってしまうのではと思うと、堪らなく怖かった。
「ゆかり、お願いだから・・・・。ゆかり!」
ゆかりは、そんな由沙の手を乱暴に振り払う。由沙は、振り払われても、彼女の手にしがみついて必死に止めた。
「ゆかり!ゆかり!正気に戻ってよ!」
「煩いって言ってんでしょ!」
由沙を振りほどこうとしたゆかりの手が、勢い余って彼女の頬を殴る。眼鏡がふっとぶほどの、凄い勢いだ。くらりと眩暈がし、由沙はその場でよろけた。
精神が圧迫されるような重みを感じ、吐き気が込み上げてくる。
けれど、どうにか踏ん張って堪えると、由沙は再びゆかりに飛び付いた。後ろから彼女に腰に組付き、必死になって引っ張る。
「駄目よ、ゆかり。そんな事したら、ゆかりはもっと奇怪しくなっちゃうわ。ゆかりは狂ってなんかない、だからこんな事しないで!」
喉から血がでる程の大声で、由沙は叫んだ。どうしても、彼女を止めたかった。止めないと、そのうちに取り返しのつかない事になる。
由沙は、心を蝕む黒い固まりを胸に感じていた。意識レベルが近いという意味は分からないけれど、彼女は直観的にそれがゆかりの持つ何かだと分かった。
由沙には、何故かゆかりの抱えているものが感じられる。
ゆかりを蝕む影を、自分の中で感じてしまうのだ。
だから、止めなければならなかった。ゆかりは、きっと止めて欲しいと思っている筈。自分では止められないから、誰かに止めて貰いたいと願っているのだ。
その誰かを、ずっと探していた。
自分なら、もしかすると止められるかもしれない。
・・・いや、止めたいと思う。意地でも止めてみせる。
渾身の力を籠めて、ゆかりを田辺の体から引き離す。
瞬間、ゆかりの体から力が抜けた。
二人はその勢いで、もつれるように倒れ込む。
そのまま、しばらく静寂が続いた。
やがてゆかりが、ゆっくりと体を起こす。由沙も起き上がって、ぼやける目でゆかりの背を見つめた。
「あんた・・・・・」
何か言いかけて、ゆかりは言葉を止める。
それから、肩越しに由沙を振り返った。ぎらぎらした光が、すっと薄い闇の中に吸い込まれていく。
「あんた、本気で止められると思ってるの?」
小さく呟いて、溜め息をつく。
思わず由沙は、勢いのまま彼女の背を抱き締めた。涙が溢れてくる。なんだか知らないけれど、胸が潰れるくらい苦しかった。
「止まったじゃない!」
震える声で、それでも強い調子で言う。
絨毯で擦った膝が痛かったが、胸の痛みにくらべれば大した痛みではなかった。
「あたしはね、人が苦しむ姿を見るのが好きなのよ。力を使っていると快感が走って、誰にも止められなくなるの。相手が廃人になるまで、力を使い続けるのよ。十三で社長に拾われるまで、あたしは数え切れない程の人を廃人にした。それから、会社に入ってもしばらくは、あたしを怒らせたエンジニアを廃人にした。誰も、あたしに適う者はいなかったし、誰もあたしを止める事が出来なかった。だから、Disastaerなのよ」
田辺を見つめ、ゆかりは自嘲的に笑う。彼は気絶したのか、横たわったままぴくりとも動かなかった。
「エンジニアとして働くようになって、少しは抑える事が出来るようになったと思ってたのに・・・・・。やっぱり、無理みたい。あんたが一緒だから、ここまでしないつもりだったけど・・・・・」
暗い、暗い、海の底よりもっと暗い声に、由沙は思わずゆかりを抱き締める手に力を籠めた。
この人は、苦しんでいる。
あの低くて小さな叫び声は、やはりゆかりの声だった。
苦しんでいる筈なのに、自分でさえも気付いていない。
ゆかりは、人の心を読んでいても、自分の心は読めないのだ。
ゆかりの意識に飲み込まれた時、由沙は果てし無い虚無を感じた。由沙自身の感情は感じられるのに、ゆかりの感情は感じられない。
あの虚無は、ゆかりの心ではないだろうか。
感じるものは全て他人。その中で、自分自身を見失っている。
────ああ、この人を、この悪魔のような人を、何故自分はこんなに好きになってしまったのだろう?
周りのどの人よりも、心配になってしまうのはどうしてだろう?
よっちゃん以上の思いを、何故こんな人に感じてしまうのか・・・・。
由沙も、自分自身が分からなかった。
けれど、竜二に言われたからではなく、由沙は本気でゆかりの側にいてあげたいと思っていた。自分に止める事が出来るなら、これ以上彼女を捩じ曲げてしまいたくはない。
「気持ちいいわね。他人に触れられるのは嫌いだけど、あんたに触れられるのは、あたし好きよ。あんたの不器用さが好き、生真面目さが好き、馬鹿正直さが好き、包み込む波動が好き」
由沙の胸から、黒々とした固まりが消えていく。
ゆかりの初めて見せた素直な姿が、ひどく心に響いた。
「私は、嫌いよ。あなたと居ると、苦しいもの。なんか、切ないもの。心配させられて振り回されて、すごく迷惑するもの」
しかし、由沙は反対の言葉を口にする。それが無意味と知りながら、言わずにはいられなかった。
何故自分なのか、それが分からないから腹立たしかった。
「・・・・・さて、と」
ゆかりは由沙の腕からすりぬけて、すらりと立ち上がった。
それから、田辺のアタッシュケースを開いて、中から手帳を取り出す。
しばらくベージを捲って何かを読んでいたようだが、ぱたんと閉じてベッドの上に放り投げた。
「これだけは口に出さなかったけど、作戦に失敗した時、田辺は誰かに会う手筈になっていたのよ。そいつが誰か、この男も知らないみたいだわ。でも、連絡の取り方は知っていた。手帳にメモしとくなんて、案外頭が悪いわよね」
けらけら笑いながら、由沙の方へ戻って来る。
それからゆかりは、何時もと同じ調子で彼女に言った。
「竜二達が痺れを切らしてるみたいだし、そろそろ行くわよ。取り敢えず次にする事も分かったし、これ以上ここに居る理由は無いわ」
座ったままゆかりを見上げながら、小さく溜め息をつく由沙。
あんな事の後なのに、どうしてそんなに平然としていられるのだろう?
由沙はなんだか、それが癪に触った。
ゆかりに何かを望む訳ではないが、少しは振り回される身にもなって欲しいと思う。
「・・・・・あのねぇ、振り回されてるのはあんただけじゃないのよ」
ゆかりはぽつりと言って、絨毯の上に落ちていた由沙の眼鏡を拾った。由沙が受け取ろうとすると、ゆかりはそれを無視して自らの手で眼鏡を由沙にかけてやる。
鮮明になった視界に、ゆかりの綺麗な顔がアップで映った。
なんとなく、赤面する由沙。
幼い頃から、何から何まで自分でしなければいけなかった由沙は、誰かに何かをして貰うという行為に馴れていなかったのだ。
良子でさえ、そんな事はしなかった。
「・・・・あっ・・・ありがとう」
由沙が口の中でぶつぶつと礼を言うと、今度はいきなりぐいっと手を引っ張られた。それから、立ち上がらせられる。由沙はそのまま、ゆかりに引きずられるようにして部屋の外へ出た。
「ちょっと、あの人はどうするの?」
閉ざされた部屋の戸を振り返り、由沙は咎めるように言った。
「血もいっぱい出てるし、死んじゃうんじゃない?」
「あれの心配まであんたがする必要はないの。あとは、会社が処理してくれるわ。どうせ、あたしの事を話しても誰も信じないだろうし、まあノイローゼくらいにはなるかもしれないけど、死ぬような事はないでしょ」
さらりと言って、ゆかりは握る手に力を籠める。
ホテルの廊下に、竜二達の姿は無かった。何処へ行ったのかと首を傾げると、ゆかりが二人は車ですぐに行動出来る準備をしていると教えてくれた。
それにしても・・・・・。
由沙は、自分の手をしっかり握るゆかりの繊細な指を見つめる。
「あの・・・・、自分で歩くから、手を離してくれない?なんか、ちょっと…」
なんとなく、手を繋いでホテルから出て来た自分達を想像して、思わず顔を顰めた。
「煩いわね」
ゆかりはうんざりしたように言ったが、手を離そうとする気配は無いようだった。
由沙は諦めて、そのままおとなしく従った。
しかし、ホテルを出て駐車場に入ると、ゆかりはすぐさま由沙の手を離した。
それから、自信に満ちた様子で、すたすたと前に出る。
多分竜二達に見られたくなかったからだろうが、そういう行動が余計に怪しい感じに思えてしまう。
「何考えてんのよ、イヤらしいわね」
振り返ったゆかりが、からかうように言って、にやにや笑いを浮かべた。
由沙の頬に、さっと赤味が差す。
「イヤらしいって別に、そういう意味じゃ・・・」
「じゃあ、どういう意味?」
からかわれていると知りながら、由沙は益々顔を赤くした。
「ばーか、冗談よ。あんた、本当に冗談の通じない人ね」
ゆかりは、けらけら笑いながら、車の方へ早足で行ってしまう。
由沙は慌ててその後を追いながら、どうして自分はこんな人に係わってしまったのかとつくづく身の不運を嘆くのだった。
DUO 〜銀の眼〜 しょうりん @shyorin
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