遠望の針

juno/ミノイ ユノ

1923 - 1



 

 兵庫電鉄の駅舎を出ると、眼前には砂浜が広がっている。歌枕にも詠まれた須磨の海は、まだ五月だというのに灼けつくように眩しい。碧の海を眺めながら増嶋惣次郎は鞄を持ち直し、踵を気にしながら歩いた。元町から乗り継いできた列車の中で、慣れない革靴を踏み締め過ぎていたらしい。

 車がなかったのでそのまま坂を上がることにした。陽気に思わず汗ばんで額を拭い、道のりの遠さに溜め息を吐く。まだその姿すら見えない目的地に、惣次郎は内心で舌を巻く。

 本来は商談の予定だった。彼の所属する坂本商店は舶来品を専門に扱う貿易商であり、後継者の直属の部下としてその辣腕を振るう惣次郎にとってはそう難しい仕事ではなかったはずだった。それが急に後継者の名代として派遣されることになり、慣れない背広に身を包んで坂道を歩いている。惣次郎にとってこの街はいつまで経っても住み慣れない外国のようなものだ。業務の一環で台北やマニラに住んでいたこともあるが、普段居を構える元町とその一角も含めて、最も故郷に遠いのはこの街だと思っている。坂道を登れば登るほど海が眼下に広がり、どんどんその碧が深みを増していくのを振り返りながら歩き続けるうちに、いつの間にか踵の違和感は少しずつ拭えつつあった。

 紹介状に記載された住まいは別の坂を三つ上り切った先で更に道を曲がるらしい。惣次郎は上着を脱ぎ、増えた手荷物を煩しがるように背筋を伸ばした。和菓子は先方の口に合わないだろうから、と持たされた焼き菓子のバターの香りが、山野の何ともしれない青臭い香りを上書きしていった。海と山の距離が極めて近い、峻険で広大で、山の多い日本にもそう頻繁なわけではない眺めは、まさにこの神戸という変わった街の特徴を最もわかりやすく象徴するものだった。

「坂本商会の者ですが」

 門番の下男が地の者のようで些か安心しつつ、まだ坂を上りゆく敷地に足を踏み入れてまたか、と口には出さないながら辟易した。趣向を凝らした石畳の坂道は革靴の踵がまたもや痛みそうな大仰な作りになっていて、これでは婦人がたは苦労するのではないか、と要らぬことを思った。下男は気を利かせて手土産をいくつか手伝ってくれようとしたが、彼の手が汚れていることを見て惣次郎は思わず自分の革鞄の方を差し出していた。

 外からは判らぬ豪奢な作りの洋館は、外洋暮らしの経験がある惣次郎の目にも鮮やかに映った。ただでさえ門からは小高いところにあるので、実際の建物よりも遥かに大きく見える。手前の庭園は主人の趣味なのか、よく細工を加え人の手を入れた欧米の作りであるように見えて、尚更借景として後背に聳える山野が不似合いであるような気がしたが、漂う山々の匂いは紛れもなく五月晴れの日本のそれで、山育ちの惣次郎はなんとも言えない懐かしさのような気持ちをこの街で初めて抱いたような心地になった。

「兄さん、お客さんやで」

「ありがとうございます。どうぞ、こちらへ」

 吊りズボンの青年に兄さん、と呼び掛けた下男は、惣次郎の革鞄を放り出すように兄貴分に押し付けて門へと走って戻って行った。兄貴分の男の手は門番と違って汚れておらず、その肌の色味から惣次郎は思わず男の目を覗き込んだ。五月の日の光を浴びてきらきらと動く、鳶色の目と視線がぶつかる。

「坂本商会の増嶋と申します。日本語で大丈夫ですか」

「ヴォルフと申します。日本語、はい。ゆっくりお願いします」

「坂本真紘の名代で参りました。まずはご挨拶をと」

「少々お待ちください。待合室があります」

 ヴォルフと名乗った青年は年の頃は惣次郎と変わらないくらいだったが、明白に欧米の生まれとしれる容貌から不似合いなぐらい巧みな日本語を使った。鞄を持ち、惣次郎を案内する所作までよく仕込まれている。この洋館の主人は日本で商売を軌道にのせたドイツの商人で、何人か本国から連れてきていると聞いたことがある。惣次郎をマニラから連れ帰った坂本尚五郎、惣次郎の主人の父にあたる人物だが、この人とは同じ市場で面識があるようだが、神戸で取引を始めたのはつい最近のことらしい。それでも従者はしっかりと日本語を話せているわけで、他業者のことながら周到な準備を思うと頭が下がる。

「主人を呼びますので、こちらでお待ちください」

「ご丁寧にどうも」

「窓から見える景色が綺麗です。お楽しみください」

 階段を上り、待合室で椅子を引くと、忘れていたようにヴォルフは帽子を脱いだ。わかっていたことだが、ブロンドの金の髪を目の当たりにして一瞬たじろいだ惣次郎は、会釈するふりをしてなんとなくその金髪から目を逸らした。まるで金糸のようで、人の身にあの色が纏われることが不思議に思えるほどだった。惣次郎の外洋暮らしはアジアの内のことだったので、ああした目や髪の色の人間を見ないではなかったのだが、言葉が通じず辟易した経験がなんとなく厄介な先入観を持たせている気がした。

 待合室の出窓を覗き込むと、先ほどの行き届いた庭が一面に緑を湛えているのが見える。日本の庭であれば、ここまで画一的に植物を刈り込むことはしないし、作り上げようと趣向を凝らすこともない。庭の緑とはるか向こうの瀬戸内の海は、色こそ異なるもののその一面性という意味では酷く似ている。惣次郎にはその美しさがいっそ退屈に思えて、客先特有の居心地の悪さに加えて言語化し難い窮屈さに苛まれた。

 とん、と背中にぶつかったのは明らかに人の熱だった。こんにちは、とたどたどしい挨拶をされて、惣次郎はようやくその声の主が子どもであることに気がついた。

「こんにちは」

「お客さんですね。お父さんはもうすぐきます」

「ああ、ご丁寧にどうも」

「リヒャルト・ユリー・ハルトマンです。十五歳です。日本語は練習中です」

「増嶋惣次郎です。日本語お上手ですよ」

「ありがとう。日本人と話してみたくて、から、秘密できました」

 リヒャルトと名乗った少年はヴォルフと名乗った青年より幾分か流暢に日本語を喋った。ハルトマンという家名はまさしく今日の商談相手で、要は商談相手の息子であるらしい。リヒャルトは子どもらしくあどけない所作で惣次郎の手を取り、にこにこと笑って握手をした。十五歳の少年にしては随分と子どもらしさが勝つような気がする。苦労を知らないだけかもしれないが、惣次郎にはそのあどけなさが好印象に映った。雀斑も含めていかにも子どもという佇まいだが、裕福な商人の子どもらしく着ているものは惣次郎のそれよりよっぽど上等だった。

「ヴォルフは会いましたか」

「ああ。案内してくれました」

「ヴォルフとぼくと日本語どっちがうまいですか」

「リヒャルトの方が上手ですよ」

「本当に?」

 惣次郎の言葉にリヒャルトは破顔し、嬉しそうにもう一度手を握った。柔らかい掌は、きっと重い鞄を持ったことも、庭木を切ったこともないだろう。思わず頷いたとき、壮年の男性が背後から何かを怒鳴った。少年は俄かに緊張した面持ちで振り向き、小さく俯く。上等の装いで主人と知れた。惣次郎は瞬時に立ち上がって一礼したが、主人は惣次郎をまるで視界に入れていないかのように、少年を注視してまた何かを叱責した。主人の後ろにはヴォルフと名乗った青年が控えており、恐縮した風情で何かをリヒャルトに目で訴えていた。惣次郎は居た堪れずに咳払いをしたが、リヒャルトが部屋を出るまで主人の剣幕は凄まじいものがあった。異国でも良家の子女はかくも厳しく躾けられるのか、と内心で嘆息しつつ、足早にゲストルームを駆け出していった少年を見送って惣次郎は営業用の笑顔を貼り付けた。

「坂本の」

「増嶋と申します。本日は……」

「尚五郎とは台湾で仕事をしていた」

 主人と思しき男は日本語を喋らなかった。当然お前も使えるものだろうと信じて疑わない口調で台湾の現地語を喋ったが、惣次郎は流暢にその地の言葉が使えるわけではない。少しその場で下働きとして荷物を運んでいた程度の人間には聞き分けるのがやっとだ。だが反応から意思疎通ができることを確認した主人は、惣次郎の返答を待たず矢継ぎ早に進めた。

「この国は言うなれば未だ誰にも食い物にされていない。我々にとっては誠に都合が良い。若者は勤勉だし、よく言うことも聞く。うちの聞かん坊の倅とは大違いだ。増嶋と言ったか、君」

「はい」

「尚五郎の息子は極めて優秀と聞いている。その名代で寄越された君もまた優秀なのだろう」

「それは、自分では分かりませんが」

 謙遜して頭を下げた惣次郎の肩を大きな手が叩いた。台湾の港湾で下働きをしていた自分よりも大きく分厚い掌に、惣次郎はうまく身動きが取れないまま再び首を垂れた。

「ヴォルフ!」

 主人が何か異国の言葉でヴォルフに命じると、ヴォルフは恭しく、良くしつけられた所作で惣次郎の手荷物を預かった。なんとか機嫌を損ねずに済んだらしく、ほっと安堵の息を吐く惣次郎にヴォルフが愛想笑いをする。顔立ちはどう見ても異国の人間なのに、どうにも親しみのある表情をする男だ。同じように愛想笑いをして、惣次郎は一人残された客間から庭の草木を眺めた。

 

 携えたよりも多くの土産を持たされ、電鉄の駅舎まで帰る途上はヴォルフが同行した。くれぐれも尚五郎によろしくと主人に何度も念を押され、しかしどこを飛び回っているのか知れない会長の安否を細かく説明する語学力も惣次郎にはなかったので、口先だけで力強い返事をするより他なかった。

 ヴォルフは敷地内の坂を下り、海の見える見晴らしの良い辻で意を決したように惣次郎に話しかけてきた。それまでお預けを食らっていた犬のようだ、と惣次郎は内心で思った。

「惣次郎さんは台湾の言葉ができますか」

「全然。簡単な相槌しか打てません」

「私は台湾の言葉がわかりません。主人が日本語を話してほしかった」

「ハルトマンさんは日本語ができないんですか?」

「主人は日本語ができない。私たちが、あー、通訳します」

「リヒャルト?」

「そうです。ユリーと呼んでいます」

「ユリーは日本で学校に?」

「学校、はい。でも、中学の勉強は難しくて、難しいと、はい、言っていました」

「ヴォルフの日本語は……」

「私は挨拶だけ。客さんの挨拶、覚えています。『窓から見える景色が綺麗です。お楽しみください』」

「ふふ。確かに綺麗だった」

 昼過ぎについたはずが、もう夕暮れに差し掛かっている。須磨の浦は歌枕にも詠まれた景勝地で、古来よりその幽玄の内海の美を謳われてきたが、もちろん彼らにそれを知る由もない。汗ばむ陽気もいつの間にか軽い冷気に変わっていて、不意に吹き上げる海風に惣次郎は鼻を鳴らした。

「ヴォルフはいつから日本にいるんですか」

「いつから。seit wann, ああ、よんねん」

「四年前?」

「Vier jahre, よねん。よんねん、違います」

「違うな。どうしてそうなるのかは説明が難しいんですが」

「いつも間違えます。日本語で一番難しい。ヌマ、読み方が変わる」

「本当だな。不親切な言語だ。日本語の勉強は」

「私は……客さんの前、決まった言葉だけ。私のこと、しゃべることが少ない。日本語いつまでも難しい。敬語難しいので、敬語使わない、お願いします」

「なるほど」

「決まった挨拶、練習しています。ユリーと……いいえ、はい」

「どっちなんだ」

 惣次郎の言葉にヴォルフはまた愛想笑いをして、長い足で大股歩きをしながら坂を下った。由緒ある寺の参道を横切るようにしてどんどん坂を下ると、例の電鉄の駅舎までは道一本でたどり着く。ヴォルフは目に入るものを日本語で一つずつ読み上げたが、まるで子どもと相対しているようで惣次郎にとっては微笑ましくもあり、同時に気疲れもした。大男に見えるが実は若いのかも知れない、と思い至ったのはその頃だった。

「ヴォルフは今年で幾つになるんだ」

「じゅう、じゅうに?」

「さすがにそれはないだろう。はたち?」

「それは幾つですか」

「十の塊が二つ。待てよ、数字で書けばいいのか」

 往来で貨車が通り過ぎるのを待ちながら鉛筆を取り出し、包装紙の端切れに書きつける。20、と書いてみせると、ヴォルフは首を振った。

「22、二十二歳、なるほどな」

「にじゅうに、ヤー」

「2、これが『二』。十の位だから『十』、それから『二』」

「Zwei und Zwanzig. に、にじゅう、ですね」

「違う。にじゅう、に、だ」

「あー。日本語そうですね、ドイツはに、にじゅう、と呼びます」

「……そうなのか? じゃあ百は? 122はなんと言うんだ」

「Ein hudert Zwei und Zwanaig. ひゃく、に、にじゅう」

「行ったり来たりして効率が悪いだろそれじゃ」

「わかりません。難しいですね」

 ヴォルフは年齢に比しても随分と屈託なく笑った。惣次郎も年齢はそう変わらない。三つしか年長ではなかったが、異国の地で下働きをして随分と苦労しただろうことは似た境遇の身で察するに余りある。この毒気を抜かれるような笑顔に弱いのかもしれない。おそらくはまた会うことになるだろうが、なぜだか惣次郎は素直にこの男の屈託のなさを手放しで賛美する気になれなかった。それはどこか危うい気がした。

「惣次郎さん、面白い人ですね」

「……ヴォルフに比べたら全然だと思う」

「全然」

「ヴォルフの方が面白いよ」

 褒めたのではないつもりだったが、ニコニコとヴォルフは惣次郎に手を振った。今度は愛想笑いではない笑顔で、惣次郎はどっと疲れつつも、悪い気はしないなと思った。

 

 そのまま家に帰っても良かったが、予定が早く切り上がったようで事務所には上司が戻っていた。元町の坂を上り切る前、花隈の麓に小さなビルヂングがあり、その二階が彼の上司の小さな城だった。仕出しの弁当は二人分あった。つまり惣次郎が戻ってくるのを見越していたらしい。坂本真紘は卓上の洋燈を手繰り寄せるようにして背を丸め、大荷物だな、と惣次郎を茶化した。

「誰の代理だと思ってるんだ」

「おれ。有難うな」

「癖の強い主人だった。日本語ができないとは聞いてない」

「できなくはないよ。日本語を喋るのが嫌なだけ」

「なんだって? 余計に癖が強いな」

「気に入られた証拠だよ。あの人、愛想よく対応した奴は二度と呼ばない。惣次郎なら気に入られると思った」

「バカにしやがって」

「お前ならやると思ってたよ」

 真紘は確かに優秀で慧眼だが、人を試すような真似をするのが玉に瑕だった。惣次郎は背広の上着を丸めて椅子に放り投げたが、食事を見ると馬鹿正直に腹が空いてくる己の身をやや恨めしく思った。

「食っていいよ。お前の弁当」

「……有難う」

「俺も正直、親父の友達じゃなかったら放っておきたいところだが。外国人倶楽部に伝手もあるし、懇意にしておいて損はない」

「わかるけどな」

「電鉄の事業もあるし、あのあたりは景色もいい。観光誘致に力を入れようって向きもある。気候がいいからな。避暑地にもうってつけだ。そこにうちの舶来品を売り込んで」

「避暑地はどうだろうな。今日もうかなり暑かった」

「坂東の山奥と一緒にするなよ」

 真紘は尚五郎の後継として事業をやってはいるが、本宅の子ではなかった。尚五郎が若くして渡った台北時代に生まれた子で、長じてから神戸に渡った身の上である。母は若くして亡く、故に詳しいことを知らない。悪気なくすぱっと竹を割ったような物言いをするので、東国の生まれである惣次郎とは妙なところでものの見方にずれがあった。ただそれでも二人は兄弟同然にして大人になり、出会ってもう何年になるか正式な年数を二人揃って覚えてはいない。台北で過ごした時代、遠く欧州で戦乱の時代、東亜も無関係ではなかった。欧米列強の政体は実に目まぐるしく変遷し、邦人である彼らも身の保証は全くなかった。外へ出てみて、惣次郎は祖国の在り方や振る舞いをある程度俯瞰できるようになったが、当然国の中に居るだけではそれらの揺らぎを近くすることが難しい。実際、四年前に大陸や半島の方で起こった様々な蜂起も運動も、そもそも知りすらしない当地の住民は多い。この国の人間は読み書き算盤を困るものが誰一人としていないのに、触れられる知見があまりにも偏っている。惣次郎も神戸に来て、商会の一員として初めて新聞に目を通すようになった。それまではそんなことすら考えもしなかったのだ。

「まあいいんだ。とにかく、これからも何度かあの家については頼む。惣次郎に任せる」

「勝手だな」

「ヴォルフっていうのが居ただろう。あれとはもう話したか」

「ああ」

「俘虜収容施設から旦那が連れてきたらしい。大戦の生き残りだと。若いのに苦労してる」

「……へぇ」

 青島のあたりから四国へ連れてこられた兵がいることは惣次郎もよく知っていた。獨逸は日本であれば独か獨の字を当てるが、中華圏では徳の字を当てる。その縁から徳島に連れてこられた者が数多くいると、どこか茶化したように徳島の商人が言っていたのを思い出した。惣次郎の脳裏には数字を数えるヴォルフの屈託のない笑顔が浮かび、その乖離の大きさにうまく順応できない気がした。

「大戦の時は幾つだ? そんな歳の子どもまで駆り出すとは。欧米の連中のことはよくわからん」

「俺たちだって、金がなければ十五やそこらで売りに出される。女はもっと悲惨だ」

「違いないな」

 真紘は口を動かしながらも器用に弁当を平らげて、仕出しの容器に箸を揃えた。惣次郎はもちろんまだ食べ終えておらず、こういう所作の一つ一つを見ても真紘は器用だ、と思う。間近で見ているからこそ、惣次郎には真紘と己の違いが如実に見えた。強みをわかり、弱みを知りながら、一端の仕事を得ている己の状況は幸福と呼べるのかもしれない。真紘は秘書が淹れていったのだという冷めた茶を冷たいと嘯きながら惣次郎にも淹れた。すっかり冷たくなった急須には扱いあぐねる量の茶が入ったままで、惣次郎は体よく押し付けられたな、と内心で推し量った。

「女といえば、娘には会ったか」

「娘? 息子なら会ったが」

「ハルトマンには上の娘と下の息子がいる。上の娘は滅多に表に出てこない。娘はみだりに人前に出さない、そういうのはところ変われど一緒らしい」

「詳しいな。何でも」

「親父がおれとその娘を一緒にしようとした。まあ昔の話だ」

「断ったのか?」

「あっちが断った。気の強い女らしい」

「お前が振られることなんてあるんだな」

「おれだからだろ。自分で言うのもなんだが」

「確かに。お前は良い夫には向かない」

 真紘は惣次郎の目から見ても目鼻立ちの通った端正な顔立ちをしている。実際、どこへ行っても人目を引いた。父親とはあまり似ていないので、母に似たのかもしれないが、それを確かめる術も今の彼らにはない。第一、興味もない。その容姿に加えて商才と卓越した経営手腕があり、どこへ行っても輪の中心になる男の横で、惣次郎は気が楽だった。何度か女絡みの厄介ごとを手伝ったこともあるが、それでも惣次郎は真紘を莫逆の友だと思っているし、真紘の片腕としてだからこそ台北から神戸まで戻ってきた。坂東の田舎から身ひとつで洋行を目指したあの頃の情熱が潰えたわけではない。ただそれよりも重んじるべき事物が見つかったと言うだけの話だ。

「しかしいつまでも独り身でいるわけにもいかないだろう。御大が気を揉む」

「あちこちで女を作るより余程ましさ。お前が所帯を持って、出来の良いのをおれの養子にくれ」

「馬鹿言ってやがる」

「逆に惣次郎は良い夫になる。もう、見てくれからして」

「よしてくれ。親父に似てきたのを気にしてるんだ」

「似てるんだな」

「長いこと見てないから若い頃で面影が止まっている。余計に似ている気がする」

 真紘は冷たい茶を啜りながら、相槌とも吐息とも取れない反応をした。故郷の話は、思えば真紘にはあまりしたことがなかった。惣次郎にとって二度と戻ることのない、おそらく今戻っても帰り道で迷ってしまうだろう、思い出の多い村落の風景を思い出そうとする。何度試みてもしかし、それが今日赴いた坂道の風景で上書きされる。いつの間にか惣次郎は山深い村を離れ、海沿いの街に生きている。鳥の声で起き伏ししていた頃の記憶はもう遠かった。朝霧の匂いも、霜を踏む音も忘れてしまったような気がした。

 

 ***

 

 神戸には富裕な外国人が数多く居を構えていた。事業を興した者もいれば、既得権益に上手く便乗した者、本国との橋渡しをする者、それらを相手にまた日常の物品を商いする者など挙げれば枚挙に遑がなかったが、いずれも彼らは巧みに街に入り込んで独自の紐帯を形成しており、それは港湾沿いの外国人居留地に限った話でもなかった。

 台北で活動していた坂本商会の顧客には、逆に神戸で根を張る華僑も数多くいる。彼らは神戸の開港前後から粘り強く社会に溶け込み、居留地の外、土着の人間と大差ない区画で生活を共にしていた。津島金吾という男はそうした華僑の血を引く男だったが、生家である津島家は士族の名家であり、故に彼は長子でありながら家督を継ぐことが許されなかった。親の勝手で苦労をしている境遇が真紘に気に入られたためか、金吾は華僑との橋渡し役を担ってよく坂本商会に出入りしている。その日も惣次郎が客先を回って昼ごろに事務所に戻ると、まるで社員のように齷齪動き回る金吾と鉢合わせた。

「惣次郎さん。ここで会うのは久々ですねえ、息災ですか」

「お陰様で。そっちの仕事はいいのか」

「真紘さんの頼みの方が大事やから。あ、乾物この前仕入れてもろたやつ、あれめっちゃええって評判やったんですよ。またお願いします」

「そりゃよかった」

 金吾は八重歯を見せて屈託なく笑ったが、実年齢より長じて見えるのはその境遇の故か、もしくは仕事で揉まれているからか、惣次郎には見分けがつかなかった。まだ確か十代かそこらだった気がするが、詳しいことは覚えていない。正真正銘この街の生まれの金吾は流暢に地元の言葉を使うし、母の筋の大陸の方の言葉も堪能だった。実際に当地にいた惣次郎よりも巧みなほどだ。聞けばあの地の言葉も地域差が大きく、台北から大陸へ渡れば北と南で全く異国の言葉を喋っているに近いらしい。惣次郎は己の語学力を今更ながらに悔やみ、恥を忍んで金吾をつけてもらうことにした。真紘はなるべくハルトマンの家とは関与したくなさそうだったので、金吾以上の適役はいなかった。

「なあ金吾。お前、今度の商談、同席してくれないか」

「なんですか? 華僑相手やったら喜んで」

「いや。獨逸人なんだが、俺には日本語を使わない面倒な客がいて」

「は?」

「パンっと言い返して欲しいんだよ。聞きとることはできるんだが、喋るのはどうも苦手で」

「獨逸語なんか、喋れへんけど」

「台北暮らしが長い人なんだ。そこは大丈夫だ」

「変な客やな。わかりました」

 金吾は何事も深く考えない性分なので、二つ返事で快諾すると腕いっぱいの荷物を持って事務所を出て行った。今日はこの後、また夕方ごろに例の屋敷に出向かなくてはならない。今日はハルトマンの主宰で晩餐があるそうで、惣次郎も持っている中で最も上等の背広を二着持ってきた。片方は金吾のぶんだ。金吾は上背があるぶん、体格では惣次郎にも見劣りしない。金吾は真紘と違って自身の容色への関心が薄い方だが、名家の生まれが影響してかきちんと身なりを整えればそれなりにはなる。真紘もそれは心得ていて、よく惣次郎と一緒に商談の席に金吾を同席させたがった。だが今夜も真紘は、ハルトマンとの会席を持たないらしい。

 結局のところ、坂本商会とハルトマンの持っている貿易社の利害関係に関しては、競合と言うより提携先と言った方が適切らしい。洋行品に強いハルトマンの会社は、台北では堅実な地盤を築いてはいるものの、どちらかというと東亜の物品を洋行へ商う方が主軸の会社であるらしかった。大陸の政権は政体の変遷が原因で上手く産業を主導できず、真紘の言うところの欧州における「市場」が瓦解したことで、大陸の産業は日本に対する優位性をやや欠いた状態であるとのことだ。要は欧米で売れる商品が、大陸産から日本産に移行しつつあるとのことだが、今後の新規事業を考えるならば欧州よりは新大陸に目を向けるべきなのだという。真紘の嗅覚を信用するならば、大戦で荒廃した欧州市場に拘泥するのはまさに泥の舟だということだ。彼の父である尚五郎は南洋における欧州との交易で成果を生んだが、いずれはその金脈にも限界が来ると真紘は見ている。であればこそ、今目を向けるべきは新大陸の商売利権であり、あくまで欧州市場は己の足場ではないと見ていた。ところが、神戸という土地柄か、米国や豪州の物品よりもはるかに商いが進むのは欧州産の諸々であり、特に京阪神の顧客は懐古的な欧州の物品を殊更に有難がる。そうした地域特性も手伝って、己の分析以前に需要を重視した結果、日本産の物品を流通させる代わりにドイツからの舶来品を求めるという形でハルトマン商会との関係性を維持することにしたわけだが、内需の高まりという時流に相反するようで手放しでも喜ぶわけにいかないのが商いの難しさだった。坂本商会は実質、今や日本の拠点は真紘の一存の下にあると言っても差し支えないが、この経営方針については早急に父親と認識をすり合わせておきたいところだった。だが肝心の尚五郎は一向に台北から戻る気配がない。真紘は言葉にこそしないものの、焦燥を肚のうちに抱えてハルトマンから実質的に距離をとっている。縁談などもってのほかだろう。あくまで商いの範疇での関与に留めておきたいというのは、言葉にこそされないものの、執拗に名代を頼まれる惣次郎にとっては火を見るより明らかだった。

 行水を終えて身なりを小綺麗にした金吾が再び事務所に顔を出したので、背広に着替えた彼らは兵庫電鉄の駅舎に向かった。元町の駅前は勤めから帰る人々や市場に立ち寄った婦人の喧騒でなかなかに華やいでいたが、上背のある正装の男二人は意図せず目立ってしまった。

「目立っとうな俺ら」

「所詮は成金のようなものだからな」

「成金ですらないやん。だって別に俺らは金持ってませんて」

「違いない」

 金吾の歯に衣を着せない語りは惣次郎の好みだった。この年下の男はいつも正しい指摘をする。鋭すぎて答えに窮するくらいに。

「獨逸ってどんなところなんやろ。なんか知ってはりますか」

「みんな背が高くて、目が青くて、声が低い」

「そんなん、絶対全員ちゃうって」

「ハルトマンも背が高かったし、その従者の若者も、子どもも……いや、子どもは子どもだった。父親に似ず華奢だったな」

「人はどうでもええっちゃええんやけど。想像つかへん、街並みとか」

「居留地の街並みは近いんじゃないか」

「あれか。息詰まるな。俺、あんまり石とか好きやないんですよ。なんか、寒いし」

 どんどん脱線していく話を他所に夕暮れの海が広がる。街道沿いに走っていたはずの線路が気づけば海の近くに寄り、落日を追うようにして須磨に辿り着くまで、惣次郎は金吾と空想のドイツを何度も練り直した。だが答えのない問いは何度その実態を問うたところで杳として知れない。坂東の田舎を後にして台北へ渡り、広い世界を知った気でいたが、結局何も知りはしないのだと悟るような心地がした。そういう時に不思議な数字のかぞえ方をする青年の声音を思い出す。流暢でもなければ巧みでもない、拙く辿々しい、だが好奇心に満ちた物言い。彼の目を通したこの国は、この街は、惣次郎にとってのこの街と何かが似通うのか、それとも何も合致しないのか。

「惣次郎さん、めっちゃ怖い顔しとう」

「そんなつもりは」

「もう須磨ですよ。客先でそんな顔しょったら、真紘さん怒らはるで」

「あいつ自身も無愛想だからな」

「それ、惣次郎さんの前やからやん。みんなの前ではちゃう人みたいにけらけら笑っとうのに」

 金吾は惣次郎の荷物まで抱えて席を立った。愛想を振り撒くのは、そうしていた方が商売に役立つからだと真紘自身が言っていた。聞いてはいけないような気がしてそれ以上は聞かなかったが、無表情だと近寄り難く見える己の雰囲気に惣次郎はまたしても皺を寄せる。装いの似たような人々は当然駅舎には姿がなかった。真紘は何の抵抗もなく辻待ちの車を停め、しかし行先の名前を知らなかったので惣次郎に続きを言わせた。

 

 辻待ちのみならずハイヤーで屋敷の周りは混み合っていた。婦人を乗せた車は文字通り軒先までつけられるが、レディファースト文化の徹底した今夜の客たちは平気で車を降りて歩き始める。惣次郎と金吾も倣って車を降りたが、折り良く車を迎えたばかりのヴォルフと目があった。ヴォルフは車を横流しにするように誘導するとすぐ金吾と惣次郎に駆け寄ってきて、惣次郎に会釈してのちすぐに「はじめまして」と緊張した面持ちで口走った。

「日本語うまいなあ」

「恐れ入ります」

「完璧やん」

「こちらは津島金吾。こちらはヴォルフ……」

「あー、ヴォルフラム・ドレクスラと申します。よろしくお願いします」

「そんな名前だったか」

「苗字、あります。前は急で、言えなかった」

「津島金吾です。ご丁寧にどうも」

 ヴォルフは金吾の紹介を聞いて嬉しそうに笑い、それからすみません、と小さく礼をした。

「なんで謝るの」

「すみません。お客様に、お名前を聞いたり言ったり、楽しくて」

「ヴォルフラムね」

「ヴォルフとみんな呼びます。金吾さん」

 金吾はヴォルフ、と慣れない響きを口の中で転がしてからヴォルフの肩を叩いた。

「ちゃうわ。日本語喋るやんこの人。惣次郎さん、日本語喋らん人って言うたやん」

「ヴォルフは商人じゃない。身なりでわかるだろう」

「あ、そうか」

「主人は、ああ。今日は忙しい、はい。いろんな人、くるので」

「でしょうね」

「私も……ユリ、アンナ、と外へ、邪魔しないと言われます、言われました。だから」

「外? なんで?」

「わからない。ユリ、主人の客に必ず話しかけます。主人はとても嫌だ」

 要は屋敷に子供がいては商談ができないということなのだろうが、晩餐の場に同席させない程度の年少者には見えなかった。以前いた少年、リヒャルト・ユリーと名乗った彼はヴォルフにずっとユリーと呼ばれているが、あの少年すら十五歳は超えていたはずだ。過保護といえば過保護だし、親心のようなものを感じて惣次郎は何も言わなかった。それにアンナというのは知らない名前だ。おそらくは女の名なので、面識のない娘の方だろう。姉と弟の組み合わせであれば、娘はさらに年長にあたる。真紘との縁談がまとまらなかったのは、実は年齢的にはやや逼迫した状況なのかもしれない。それをこうした社交の場に呼ぶこともないのは、惣次郎にとってはやや違和感のあることだった。

「外ってどこ行くん。夜の須磨海岸とか?」

「わからない。山は、危ない」

「そうやんなあ。よっしゃ俺が下まで案内したるわ。この辺は庭みたいなもんやし」

「ちょっと待て。こっちはどうなる」

 たまらず惣次郎が口を挟むと、金吾は肩を竦めた。そもそも通訳のつもりで同席させたのに、子どもの方についていかれては困る。惣次郎は必死に金吾の肩を掴んだが、意図するところはうまく伝わらなかったようで金吾はするりと身を躱した。

「自分の子どもら厄介払いするような奴どうでもええんちゃいます?」

「どうでもいいで済まない」

「惣次郎さんも行ったらええやん。さっと行って、すぐ帰ったらええって。どうせこういうとこ、すぐ本人と話せへんやろ。ちびちび酒飲みながら順番待ちするん、面倒臭いですやん」

 勝手なように見えて金吾はいつでも聡い。惣次郎は観念し、変なところが真紘に似ている、と内心で呆れた。ヴォルフは早口の上方言葉を流石に拾いきれなかったようで、きょとんとしながら両者の口元を眺めていたが、一緒に行こうと肩を組まれて思わず破顔した。その直後、お仕事は、と思い出したように付け加えるのがおかしかった。

「すぐ戻る。ただ、この辺りも夜は明かりが少ないし、元町や三宮のあたりとは違う。お嬢さんもいるなら尚更だ」

「ああ。ありがとうございます」

「呼んできたら。砂浜まで行くから、ドレスとか着てきたらあかんで」

 ヴォルフが一度屋敷へ戻る間に惣次郎は金吾を軽く小突いたが、意にも介さない様子でヘラヘラと笑った。結果として不幸な子どもとして生きるしかなかった金吾は、親の身勝手というものにどうしても厳しくなる。惣次郎は生家に執着がないが、それは取り立てて両親に冷遇されたことも、何か不利益を被ることもなかったがゆえの幸運だったと、彼らを見ていると思わざるを得ない。長兄は丈夫で、畑仕事も家業も滞りなく務めている。居場所をなくしたわけではなく、ただ自分が望んでこの地にいるだけだ。もちろん部屋住みの次男坊で一生を終えるのは嫌だったが、どうせ他所に出て仕事を探すなら、東京で勤めを探すのも、軍隊に入るのも、他所の国へ出てしまうのも、惣次郎にとっては大差のないことだった。その中で最も魅力的な選択肢をとったというだけの話である。

「しかし立派な家やな。何階建て?」

「わからん。お前も出世して、立派な家を構えろ」

「南京街に?」

「実家よりも立派なのを拵えたらいい」

「それええな。頑張ろかな、俺も」

 居留地のすぐ隣に南京街があるのは、当時は清と呼ばれていた国の移民たちが条約の対象ではなかったため、外国人であるにもかかわらず居留地内に居住する権利を得られなかったことに由来している。通りを一本挟めば暮らせるのに、くだらないことをしていると金吾も思っているが、そうした先祖の遺恨をある種の意趣返しではないが改められるのは魅力的に映った。冷静なように見えて惣次郎は情熱的で、こうして強い言葉で鼓舞されるのが金吾にとっては気持ちが楽だった。

 正装の客人たちに逆行するようにして、見覚えのある少年と、初めて見る少女がヴォルフの後ろについてきた。まるで人形のように現実味のない、しかし大事に育てられていることは一眼でわかる少女は、いづらそうに俯き加減で簡単な挨拶をした。

「アンナマリアです。アンナと呼ばれています」

「増嶋です。こっちは津島。それでは行きましょうか」

 その外見から不似合いなくらいの流暢な日本語に惣次郎と金吾は思わず目を合わせたが、アンナはにこりともしなかった。暗がりが潜み始めた庭の隅では、彼女の表情がよくわからなかっただけかもしれないが。

 惣次郎たちが来た道を忠実に下る間、アンナは一言も喋らなかったが、ヴォルフとユリは実によく喋った。彼らは彼らだけの言語で喋ろうとせず、辿々しくても拙くても、伝わるまで根気よく日本語を喋ったし、日頃から中国人と喋っている金吾は彼らの理解しやすい語彙を選ぶのが巧みだった。同じ日本語を運用していても、聞きやすい、聞きにくい言い回しがあるのだと、惣次郎はその時に初めて気づいた。

 夜もすっかり深まり、また海水浴の季節でもないため、浜手の茶屋は軒並み暖簾をおろしていた。灯台の明かりと、内海を隔てた向こうの明かりが微かに波間に揺れている。随分歩いたので、ここからは屋敷すら見えなかった。喧騒ももちろん届かない。戻るのも一苦労だ。惣次郎は軽い気持ちでこちらに来てしまったが、今夜に関しては挨拶を諦めた方がいいのかもしれないとすら思った。

「どうしてこっちに来たの?」

 勝手に持ち出した洋灯を傍らにヴォルフとユリが砂浜に絵を描き、一張羅を脱ぎ捨てた金吾が裸足で走り回る傍らで、アンナは惣次郎に問うた。

「もともと今日は挨拶だけなんです。商談じゃなく」

「でもお客様なんでしょ。お父さんの」

「俺はあくまで名代で。上司の」

 惣次郎は言い淀んだが、アンナは真紘との縁談を断っていたことを思い出した。存在は少なくとも認知しているはずだ。

「坂本商会の……」

「ああ」

「申し訳ない。不義理を働いたのは俺の一存ですが、正直に言うと」

「先に距離を置いたのはうち、というか私だから、あなたが気にすることない」

 ぴしゃりと言い切る様子は、不思議なことに真紘の声音と似ていて、惣次郎は黙るしかなかった。令嬢は表に出ていないので、てっきり世間知らずのお嬢様かと思っていたが、意外にもしっかりと己の考えを口にする気性らしい。

「あなた、真紘さんのことが好き?」

「まあ。長い付き合いだし、上司と部下を超えた信頼関係はありますよ」

「誤解しないでほしいのは、私は真紘さんが嫌なわけでも、父と坂本さんに疎遠になってほしいわけでもないということ」

「そうなんですね」

「真紘さんとは直接お会いしたことがないから、どんな方かはわからないけど。失礼を許してもらえたら」

「あいつは気にしていないと思う。それでなくても婦人には不自由していないから」

「魅力的な人なのね」

 良き夫にはならない。とは、蛇足のような気がして、惣次郎は付け加えなかった。アンナの慎重な言葉選びは、日本人のそれよりずっと配慮に満ちていて、高慢で世間知らずな令嬢の先入観が瓦解していくのを感じた。そして却って逆説的に、この聡明な人が真紘の伴侶であったなら、どれほど彼らの生涯にとってそれがよく作用するだろう、と勝手なことを思った。

「増嶋さんのこと、お父さんは気に入ったみたい。後で屋敷に戻って、私がとりなすから。ちゃんとお話しして」

「かたじけない」

「父だけじゃなくて、ユリーもヴォルフも……特にヴォルフが。私は日本の女学校に通っているのだけど、この街に来たのはヴォルフやユリーと同じ頃なの。ヴォルフが日本語を嬉しそうに使っているのを見るのは初めて。ずっと、辛そうだったから」

 そんなそぶりはなかった。確かに日本語を得意な方ではなさそうだったが、数字の数え方にあれほど興味を示していた。惣次郎とアンナには見え方が違う、と思った瞬間、惣次郎は己の勘を信じる気になった。アンナは暗がりの中で砂浜を走るヴォルフを見ながら惣次郎と話している。

「お礼を申し上げるのは変かしら」

「とんでもない」

「あなたいい人ね。増嶋さん」

 アンナはそう言って初めて惣次郎の目を見た。暗がりの中ではその表情の全貌を見ることはできなかったが、おそらく笑っているのだろうと思った。

「ヴォルフ!」

 アンナは母国の響きでヴォルフを自分のそばに呼び、何かを早口で伝えた。惣次郎には全く聞き慣れない響きで、時折何かを喉でしめるような音が印象的だった。それはおそらく彼らの母国語だ。アンナの言葉を聞いたヴォルフが急ぎ浅瀬のユリーに呼びかけると、ユリーもまた何かを早急に訴えた。

「帰りましょう。惣次郎さん」

「いいのか」

「ユリーは金吾が気に入ったって。私たちは早く帰って、先に休むから」

 アンナの後を追うように惣次郎も立ち上がり、洋灯を持ってヴォルフが先導した。三人だけの帰り道は往路よりもずっと静かで、しかし静かだと思ったのはアンナとヴォルフのやりとりが惣次郎の耳にはほとんど意味をなさなかったからかもしれなかった。ヴォルフは母国語を喋るとき、それは当然のことではあるが、普段からは想像もできないくらい饒舌に喋った。異邦人の感覚は惣次郎にとって非常に懐かしいものだった。周りの人間が皆自分と異なる言葉を喋り、わからないことに笑い、涙し、世の中が勝手に動いていくような感触。日本に戻ってから長らく忘れていた感触に、不思議と高揚感を覚えた。それは紛れもない、自分が恋焦がれて待ち望んだ感触であることを、惣次郎は認めないわけにいかなかった。

「惣次郎さんはドイツ語がわかるの?」

「いや。全くさっぱり」

「さっきより嬉しそうな顔をしてる」

「そうですか」

「私たち、惣次郎さんのことを褒めていたのよ。ヴォルフは日本語がまだうまくないから悔しがってる。前に教えてもらった日本語がどこかで使えないか、ずっと考えてる」

 ヴォルフは惣次郎に軽く会釈をした。まるで日本人めいた所作だが、惣次郎はそれよりも先ほどの、堂々として闊達なヴォルフの声音を好ましく思った。頼りなく幼く見えた男が、初めて頼り甲斐のある商人の片腕に見えた。その姿の方が余程彼らしい、と思った。

「俺がドイツ語を覚えたらいいんじゃないか」

「どうして? ここは日本なのに」

「いい響きだと思った。きっとその言葉でしか伝えられない真意がある」

「でも、どこでもは使えないよ。ドイツ語は難しいし、私たちは植民地を持っていない。きっと同じように覚えるなら、英語やスペイン語の方がいい。惣次郎さんの仕事にも役立つし」

「役立てようと思うと言語は身につかない。実際、俺はほとんど、台北の言葉を喋れないし」

「ヴォルフといい勝負ね。そうだわ、あなたたち、どちらが互いの言葉を早く覚えるか競争したら。ヴォルフはもっと日本語を使えないと話にならないし、惣次郎さんも学びたいならそうなさいよ」

「話にならない?」

「Nutzlos! (役に立たない)」

 ヴォルフはああ、と少し傷ついたような顔をして、それから意図を承服してか、少し笑った。惣次郎はアンナのよく回る口についていくのがやっとで、彼女のように両国の言葉を使いこなせるようになるためにはどれほどの研鑽が必要かと思うと気が遠くなりそうだったが、不思議と嫌な気はしなかった。

 居場所を探していた。故郷にも異郷にも見出せなかったそれをふと見つけたような気持ちになって、惣次郎は背広の胸元を思わず押さえつけるように握った。

 

 

 

 ***

 

 莫逆の友を欺いてでも、一人で赴いたことを心のどこかで安堵するような気持ちで、坂本真紘は応接間の窓を眺めていた。館内のシャンデリアは館の豪壮さのゆえにその隅までを照らし切るに至らず、真紘の横顔に濃い陰影を落としている。さして好きでもない洋行の酒を傾けながら、ハルトマンの声を聞いているのは全く心地の良いものではなかった。

「真紘さんの言うことはわかる。だが、時期尚早だと私は思う。きっと尚五郎も同じことを言うだろう。考え直せ」

 流暢な日本語は彼にとって公の場で使う言葉だった。座を囲む京阪神の経済界の著名人たちは、皆呼び掛けようとして簡単に呼び集められるような顔ぶれではなかった。少なくとも座における一番の若輩者は真紘であり、一番の未熟者もまた真紘であることが明らかだった。惣次郎がこの場にいなくて助かった、と真紘は心の底から安堵するが、それ以外の全て、何もかもが良くない状況ではあった。

「考え直さなければ、どうなります」

「真紘さん。ここは神戸だ。大阪や京都と同じ経済圏。スタンドプレーはあなたのためにならない」

「ただ先がないと言ってるだけだ。現に戦場になって産業が滞って、復員兵はいまだに後遺症に苦しんでる。片足を飛ばされた兵隊が何の仕事につける? 一日八時間も工場に立てたりしない。そんな場所にこれ以上の活路は見出せない」

「視野狭窄に陥ってる。うちのヴォルフを見なさい。彼は青島を生き残った。地獄を見たのに、ちゃんと私の右腕をしている。我々はタフなんですよ」

「タフでも道を違えたら同じだ。おれは真面目な話をしに来た。商人は戦争のための道具じゃない。戦争のための道具を売るためにいるわけじゃない。とにかく、坂本はこの件には関与しない」

 啖呵を切る真紘を冷ややかに一瞥して、ハルトマンは大きく腕をふるった。Wahnsinn,とそれまで独り言ですらださなかったドイツ語で真紘を罵り、憤慨を隠さず自分の席に深く座り込む。

 最も上座に座る男の溜め息を合図にして参加者たちは椅子を引いた。全員が賛同し、金を出しているとすれば恐ろしいことだ。真紘はその時人生において初めて、おれは今夜ここで消されるかもしれない、と覚悟した。

「坂本さん。あなたはまだ若い。お父様に教わりませんでしたか。商人の心意気は三方吉。売り手よし、買い手よし、世間よし。それが商売というものです」

「軍人に商売が解ってなるものか。鉈でも鈍でも振り回していろ」

「その減らず口がどこまで持ちますかね」

 ふっと空気が変わる。真紘はどこから殴られてもいいように腹に力を込めたが、その瞬間、Vater, と張り上げる少女の声が部屋中にこだました。使用人を呼ぶ際に使う電信管から、娘の声を聞いたハルトマンは意表を突かれてわかりやすく動揺した。

「娘が帰ってきたらしい」

「ヴォルフは足止めをしくじったか」

「今ひとつ使えん男だ」

 一瞬で緊張した空気が緩んでしまい、それ以上引き締まることはなかった。上座の男、カーキ色の軍服に身を包んだ男は何も言わず軍刀を携え、真紘を睨み付けると音もなく応接室から出て行った。真紘は腋の下を変な汗が伝うのを感じながら、命拾いをしたことを悟った。

「尚五郎とあなたは違う。ただ、忘れないでもらおうか。あなたの右腕のそばには私の右腕がいる。いつだってどうにでもできます。あなたにとっては莫逆の友なのでしょう」

「良く喋る口だ。元から惣次郎に話してやればよかったのに。恫喝が得意だと」

「娘をくれてやると言ったのに、わがままを通した我が娘も愚かだが、あなたはそれに輪をかけて愚かだ」

「奇遇ですが、私もそう思っていますよ」

 言い逃げをするように足早に真紘は応接間を後にした。惣次郎にどうしても出会いたくなかった。出会えば、きっと惣次郎は己の不徳を責める。生真面目な男だ。だからこうなってしまった以上、軽い気持ちで名代としてハルトマンと接点を作ってしまったことを、真紘は悔いていた。

 ふと足を止める。青島、とハルトマンが言っていた。青島で戦闘があったのはもう九年も前の話だ。日本軍が勝ち、大勢の俘虜を連れ帰った。

 ヴォルフは一体いくつなんだ? ざわざわとした不快感と疑念が拭えないまま、真紘は赤絨毯の階段を蹴るようにして歩いた。ちょうど死角になっていて気づかなかった踊り場のところで、小柄な誰かとぶつかりかける。

「すみません」

「いいえ」

 淀みない発音のその言葉は、しかしわずかに日本語のどの言葉とも発音が違っていた。耳の良い真紘はその一瞬でその娘が、己の元婚約者であったことを悟った。

 責めるまでもなかった。ただ理解しただけだ。それは紛れもなく絶望的な衝動だった。争いようもない感情に、真紘は戸惑い、そして受け入れざるを得なかった。この局面でこの少女と出逢ってしまったことを悔やんだ。すれ違いざまに触れた肩を、真紘は決して離すまいと、自分自身も驚くほど強く掴んでいた。

 

 

 

 

 








 忍び寄る時代の変革に、若人たちは

 為す術無く呑み込まれていく。

 各々の望みを結晶化する営みの中、

 光を手にするのは己か、友か。

 

 

 






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遠望の針 juno/ミノイ ユノ @buki-fu-balla-schima

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