魔法のメガネ

秋色

Magic Glassess

 久し振りに父の実家を訪れ、奥の和室へ入った。昔と変わらず、畳の清々しい香りがする。子どもの頃からフローリングの生活だったから、畳の香りは新鮮で、入る度、まるで森の中に迷い込んだような気がする。

 座卓の上には縫い物をするための道具が揃っている。元々お煎餅の入っていた缶を利用した裁縫箱だ。そのすぐ隣には、メガネのケースがいつも同じ位置に置かれていた。

 ここは、ひいばあちゃんの部屋。このメガネをかけて、よく繕い物をしていたっけ。自分や家族の服が着られなくなった時は、捨てる前にまだ使えるボタンや金具を全部外して小さな箱に仕舞っていたし、まだ何かに使えそうな布切れも丁寧に切り取っていた。

 そして部屋から繋がる縁側から時々、庭を見ていたな。切り花は好きでなかったひいばあちゃんの楽しみは、庭に植えられたミヤコワスレのような草花を見る事だった。

 幼い頃、このメガネをかけてみた時の衝撃は忘れられない。ひいばあちゃんが使っているのを見て、これをかけたら、さぞかし物がよく見えるんだろうと思っていた。でもかけた瞬間、グニャリと世界がぼやけて見えた。


 この部屋の主が亡くなってから、部屋に入ると、いつもちょっと申し訳ないような気分になる。なぜなら生前はひいばあちゃんを苦手に思っていたから。関西の山奥で育ったせいか、心より身体が先に動くようなタイプ。私とは真逆だ。そして他の家の年配の人のように、孫やひ孫をただひたすら可愛がるのでなく、結構厳しかった。

 私が食べ物の好き嫌いをしていると、よく言った。「好き嫌いするもんやない。これやから苦労のない子はあかん。他所様の家で炊いたご飯を食べた事のない人間に本当の苦労は分からんもんや」

「よその家のご飯を食べた事くらいあるよ。友達んちに泊まった事あるから」

「阿呆やな。そういう意味やない」

 こんなふうに何でもピシャリとやり込められた。でもそう言われても今どき、他所の家で住み込みで働く人なんていないよとよく思った。それ程のお金持ちもいないし。


 それに節分の恵方巻きでなくても、巻き寿司をかぶり付くのが好きで、それも何だかなぁと思っていた。母親の話では、恵方巻きの習慣が国内で根付く前から巻き寿司を切らずにかぶり付くのが好きだったって。



 私は昔を懐かしみ、思わずメガネをかけてみた。老眼でない自分にはやはり、ボンヤリした、グニャリとした世界が見えるのだろうか?


 すると、魔法のように緑の世界が広がった。向こうに遠く、森が動いて見える。ここは昔の汽車の中? そう、こういう汽車ってテレビのドラマで見た事がある。たぶん、ひいばあちゃんから聞いた事のある、昔の、ある日だ。私はとっさに分かった。

 いつもの昔話が始まった……とひいばあちゃんが話すのを、ただ何となく聞いていた話。後で、熱心に聞いていたお姉ちゃんから、補足された部分の多い昔話。





 ***




 スズは蒸気機関車の中から、不安げに窓の外の風景を眺めていた。

 仮名だらけの置き手紙を残して奉公先を飛び出してきた。両親は、自分を受け入れてくれるだろうか? 娘に厳しい父さんから叱られる覚悟は出来ていた。お殿様みたいに家族の中で威張っていて、そのくせ世間体を気にする父さんだった。

 いつも優しい母さんはどうだろう? さすがに今度は厳しく叱られるかもしれない。いや、叱られた方がいい。逆に「辛い思いをさせたね」と言われたら、スズは泣きたくなると思った。

 生まれ育った山奥の村では、小学校を出た女の子は、家が裕福でなかったら奉公に出るのが普通だった。スズは元々勉強が好きでなかったし、体を動かすのは苦にならないから、働くのに文句はなかった。でも母さんの側を離れるのは寂しく、また心配でもあった。スズとは違って体が弱く、大人しい性格の母さんなので。

 だから頑張ってお金を貯めて故郷に戻るのが目標だった。なのに、一年も持たないなんて。四つの季節が過ぎる前に心が折れて、奉公先を飛び出す事になるとは予想もしなかった。

 厨房での下働きが嫌だったわけでもなく、冬の寒い日の洗濯が嫌だったわけでもない。同じ年頃のあの家のお嬢様が女学校に行くのが羨ましかったわけでもない。いや、それは正直、ちょっと羨ましかった。でも別に勉強したかったわけではない。机に向かって勉強するのは好きじゃなかったから。そんなに強調しなくてもいいけど。でもあのお嬢様や、そのお友達連中のように、何日間か、呑気な会話をしてみるのもいいと思った。甘い食べ物の話、近所の素敵な大学生の話。あまりにもスズの生活とは、心配する事の内容が違う。

 心が折れたのは、お嬢様の洗濯物をスズの洗濯物の近くに干さないでほしいと言われた事。たったそれだけ。

 スズの着物は、上等ではないかもしれない。でも母さんの縫ってくれた紺に波の模様の着物は、故郷では堂々と家族の洗濯物の間で胸を張って干されていた。その波の模様が堂々と風にはためいていた。母さんは丈夫に作ってくれていたし、いつも清潔に洗われていたし。なのに、そんな風に言われて、故郷の家の事まで邪険にされた気がした。


 

 もうどうにでもなれと思って、貯めていた僅かなお金を持ち、「イガウエノヘカエルコトニシマシタ。オユルシクダサイ。スズ」という書き置きだけを残し、早朝に家を出て行った。そして町を出る朝一番の汽車に乗ったのだった。

 途中、そこへ来る時にも乗り換えた駅で降りると、桜の季節とあってか、その村では、お祭りが行われていた。わくわくする気分より、不安や悲しみの方が大きかった。それでも桜の華やかな色にあふれた村の様子に心を慰められ、改札を出て、散策した。出店でかわいい髪飾りと巻寿司も買った。


 髪飾りは、奉公先のお嬢様が付けているのを見て、ちょっと憧れていた物。もちろんお祭りの出店で売られているような髪飾りは、ずっと安物に違いないけど、それでも良かった。

 お寿司は、何かの折にお祝いで奉公先のお屋敷で作られた時に、スズにも少し分けてもらえた。お金をいっぱい稼いだらこれをお腹いっぱい食べようと、それがいつの日かスズの夢になった。


 ――それを今、使ってええんやろうか?――


 でも、もう後戻りはできない。ただ、そのまま帰って叱られるまでの時間を後延ばしにしたい一心で、そこで時間を少し潰す事にして、一つ汽車を見送った。次の電車が来るまで大分ある。一人近くの小さな丘に登った。そこに腰を下ろすと、村を見下ろせた。来た時は割と大きいと思っていた村だけど、何だか随分小さい。これまで一年近くを過ごした、スズにとっては都会に見えるあの町も、きっと遠くの山から見たらちっぽけなんだろう。なのに、何であんなに威張った感じの町なんだろう。

 そこでスズは巻寿司を取り出して、まるごと食べ始めた。こうやって食べてみたかった。いや、本当は両親や弟や妹と分け合って食べるのが夢だった。

 それでも食べていると、美味しさが口の中に広がり、空が眩しいくらい青くて綺麗で、何だか涙が溢れてきた。

 この山の上の桜は、麓の方とは違ってまだ蕾で、地面にもこれから開こうとする草花の蕾がぽつんぽつんと彩りを見せていた。


 ――何でああいう花は、桜や菊と違ってもてはやされんのやろか――


 そんな素朴な疑問を持ちながらも、きっと世の中の人が知らない美しいものがたくさんあるに違いないと思った。

 何かこれまでモヤモヤしていた事が小さく見えた。小さい頃、一度だけ覗かせてもらった望遠鏡を思い出した。逆に見るとみんな小さく見える。するとここまで来た事が急に滑稽な事に思えて、やっぱり奉公先に戻り、ひたすら謝って仕事に励もうと思った。お屋敷を出た理由は何にする? 「お寿司を食べたかったから」にしよう。それなら信じてもらえそうな気がする。

 だからあとほんのすこしだけ、太陽があと少し動くまで、ここにいよう。

 木の葉が陽の光に燦めいているのを見ながらそう決めた。



 ***



「野乃花、荷物置いたままだよ。あれ、こんな所で寝てちゃ、風邪ひくよ。ほら、起きて」


「え? あれ、お姉ちゃん、私、夢見てたんだ」


「どんな夢?」


「ひいばあちゃんのメガネをかけたら、ひいばあちゃんの子ども時代がドラマのように再現された夢。あれ、メガネ、ないんだ。当たり前か」


「私達が子どもの頃ひいばあちゃんが亡くなって、もう二十年も経つんだから、メガネなんか残ってないよ」


「そうよね。でもすっごくリアルな夢だった」


「そりゃさ、野乃花が仕事に疲れてプチうつになって、帰省したから、ひいばあちゃんは心配したんじゃない?」


「いやあ、そういうのとはちょっと違うと思う。ま、確かに私が帰って来たのはそうだけどね」


 最近急に立てない位のめまいを起こすようになった。救急車を呼んだ事もあるくらい。病院で精密検査を受けたら、軽いうつ症状ですと言われ、休暇をとる事にした。一週間過ごす事になった実家は、今ではお姉ちゃん達夫婦の家族が暮らしている。ひいばあちゃんの部屋は、そのままに。


 ひいばあちゃんが子どもの頃、奉公先を飛び出した話は、昔、聞かされた事がある。といっても、私はあまり真剣に聞いてなかったかも。後でお姉ちゃんから聞き直して、やっと全体像が分かった感じ。ひいばあちゃんは丘の上で半日近くを森や野の風景を見ながら過ごしたと言う。

 それで吹っ切れたひいばあちゃんは奉公先に戻り、もう二度と家出しようとは思わなくなった。自分から率先していろいろ役に立つ仕事の仕方を身に付け、生活に役立てたし、お屋敷の一家とも仲良くなった。

 



「ひいばあちゃんの事だから、夢を通して野乃花にお説教しに来たのかもよ」

 お姉ちゃんは言う。


「いや、違うよ。私ね、夢の中でずっとひいばあちゃんの隣にいたの。まるで友達みたいに」


「はいはい」


 そう、ずっと親友だったように、ただ隣に寄り添っていた。

 そして一緒に眩しい森や野を見ながら、一緒に涙ぐんでもいた。

 今日のような青い空の下で、誰も知らない美しい世界を二人で見つけていたところだったんだよ。

 さっき起こされた時に。



〈Fin〉




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