激流

増田朋美

激流

その日は、もうすぐ大型連休がやってくるというのに、寒い日だった。まあたまに寒い大型連休もあるにはあるのだが、どこか春らしくなくて寒い日が続いているのは、何だか変だなという気がしてしまう。そして、そういうおかしな気候の中で、ちょっとしたことがとても大きなことに感じられてしまうこともあるのだ。

その日、浜崎鮎子は、いつもどおり、勤め先というか、集合先である家政婦斡旋所に出勤した。と言っても、なんでこんな仕事を選んでしまったのかなと思う。別に家政婦が主人公のテレビドラマに憧れたとか、そういうわけでもない。かっこいい仕事がしたかったとか、そういうことでもないのだ。ただ、働ける場所がなくて、家事というありふれすぎている作業を仕事としてこなす、しかも需要がある、家政婦という仕事に就いたのであった。

それでも、こんな仕事、本当につまらないものであった。ご飯を作って、掃除をして、ときには寝たきり老人の世話をしたり、話し相手になったり、買い物に連れ出してあげたり。こんな事、普通の人にしてみれば当たり前のことだ。その当たり前の事を仕事とするには、生きがいというものが必要だった。でも、それがなかったら、本当につまらない仕事になってしまう。例えば、仕事をして、誰かに感謝されるとか、そういうことがあればまた別の感覚になると思うけど、、、。それを望むのは、本当に無理の無理無理なことだろうなと鮎子は学習してしまった。これを覚えてしまうと、仕事は大変つまらないものになった。

「おはよう浜崎さん。ちょっと、お願いがあるんだけど。」

鮎子が出勤すると、いきなり彼女の上司である、家政婦斡旋所の所長さんが言った。

「悪いけど、新しいお宅へ行って貰えないかしら?一週間前くらいから、女中さんをほしいという電話が来てるのよ。あいにく、うちはふさがっていて無理だってずっと断っていたんだけど、浜崎さんがちょうど、派遣先と契約が終了したところだったから、じゃあ、丁度いいわということで、お願いしたいのよ。」

確かに鮎子は、昨日派遣先であった家庭で、葬儀があったことで、契約が終了して事実上のフリーになっていたところだった。鮎子自身は、そういうことが起きたら、もうこの仕事は辞めると所長さんに言うつもりだったのに、また新たな仕事が舞い込んでくるとは。全く最近の人は金持ちが増えて、そして家事を嫌う人が増えたんだなと思ってしまった。

「そうですか。それはどこのお宅なんですか?」

鮎子が聞くと、所長さんは、こういった。

「お宅というか、福祉事務所よ。なんでも、若い女性などを集めて、居場所を提供している福祉事務所らしいわ。そこの理事長さんから、建物の掃除や、間借りしている男性の世話をしてくれる、女中さんがほしいって、お電話があったのよ。名前は製鉄所。」

「製鉄所?」

鮎子は、思わず言ってみる。

「はあ、鉄を作るところで、間借りしているんですか?」

「だから言ったでしょ、それは名ばかりで、実際は部屋を貸すとか、間借りをさせるとか、そういう事をやってるところよ。はい、これ地図。すぐにでも女中さんがほしいって言うから、今日すぐに行かせますって言ってしまったわ。その地図を頼りに行ってみて。よろしくね。」

強引な所長さんは、彼女に手書きの地図を渡した。場所は、地図によると大渕というところであるらしい。そこに富士山エコトピアというごみ焼き場とかぐやの湯というレジャー施設があり、その近くに製鉄所という建物があるらしいのだ。

「わかりました。」

鮎子は所長さんの話には逆らえないので、渋々車に乗った。カーナビに住所を入力しようとしたが、住所は出てこなかった。なので仕方なく、所長さんが下手くそな字で書いた地図を頼りに、車を走らせ、製鉄所に向かった。どうも今日は不可解なことばかりだ。製鉄所という名前なのに、部屋を貸すという事業をしているなんて、なんだかおかしな場所である。

しばらく車を走らせると、目の前に日本の高級旅館のような建物が見えてきた。これが、福祉施設なんだろうかと鮎子は思った。福祉施設というものは、四角い建物であることが多いのだけど、、、。でも、入り口に設置されている門は、たしかに段差が無いように作られており、そう考えると誰でも入れるようになっている。

鮎子は、とりあえず、駐車場と書かれている看板近くに車を止めて、その門の前にたった。そこにはインターフォンがなく、口で挨拶するしかなかった。

「こんにちは。」

鮎子が言うと、

「お前さん誰だよ。」

と、黒色の大島紬の着物を着て、車椅子に乗った男性が応答した。その言い方が、ヤクザの親分みたいな言い方だったので、鮎子はびっくりした。

「あ、あ、あの、その、中澤家政婦紹介所から参りました、浜崎鮎子でございます。」

とりあえず自己紹介してみる。

「ああ、家政婦斡旋所から来た、新しい女中さんね。僕のことは、影山杉三で、杉ちゃんって呼んでね。なんだか有名なアイドル歌手みたいな名前だけど、中年おばさんじゃないから、驚いたよ。まあ若いやつだったら、力もあるし、仕事を一生懸命やってくれるだろう。よし、入れ。」

杉ちゃんと名乗った人は、そう言って、鮎子に建物内に入るように促した。鮎子はわかりましたと言って、その玄関から建物に入った。不思議なことにこの建物の玄関は、上がり框が設けられていなかった。車椅子の人が入っても、大丈夫なようにそうしてあるのだろうが、なんだか一般的な日本家屋と違っているので、鮎子はちょっと驚いてしまった。

「ほら、入れ。お前さんのこと、皆に紹介するから。利用者さんたちも、水穂さんも新しい女中が来てくれたので、喜ぶぞ。」

そう言いながら杉ちゃんと鮎子は、製鉄所の廊下を歩いた。廊下は鶯張りになっていて、歩くたびにキュキュという音がした。この建物は、鉄を作るという建物ではないらしい。そのような設備は全く見られなかった。

「なんでこの建物は製鉄所という名前なんですか?」

鮎子は、杉ちゃんに聞くと、

「いやあねえ。鉄は熱いうちに叩けとも言うし、柔軟にすればいろんなものになれるし、そういう柔らかい心を持ってほしいという意味を込めて点けたんだって。」

と、杉ちゃんは答えた。

「そうなんですね。それにしても、音がなって、面白い建物ですね。」

鮎子は、廊下を歩きながら言った。廊下にはいくつかドアが設置されている。そのドアには萩の間、桃の間など名前が着いた木の表札がかけられていた。多分この部屋を貸して、勉強や仕事などをさせるのだろうな、と鮎子は思った。

「今は部屋を借りている利用者さんは何人いるんですか?」

鮎子が聞くと、

「利用者さんは3人だよ。そして、間借りをしているのは水穂さんだけ。」

と、杉ちゃんは答える。意外に少ないなと思っていると、杉ちゃんたちは、テーブルと椅子がいくつか置かれている部屋へ到着した。その一つに、3人の若い女性がいて、この問題を解くにはこうすればいいとか、教えあっていた。彼女たちは、鮎子が入ると、勉強の手を止めて、鮎子に自己紹介した。

「はじめまして、新しくこちらで働いてくださる方ですね。私、ここを利用している谷口です。こちらは、佐藤と金谷です。」

と、一人の女性がそういった。

「佐藤さんと谷口さんが、通信制の高校に行っていて、私金谷は、ここで受験勉強をさせてもらっています。と言っても、大学受験とかではなくて、資格を取るための試験ですけどね。」

金谷さんと言われた女性が、にこやかに言った。

「でも、皆同じ学校に通っているわけではなくて、あたしは、富士市内の高校で、谷口さんは、甲府の学校に通っているんです。」

佐藤さんもにこやかに言った。三人とも笑顔が素敵だ。よく見ると三人の年齢は、佐藤さんが40代前後で、金谷さんは、20代くらい、谷口さんは、もう70前後のおばあさんだった。そうなると、勉強には縁遠い年代と思われるのであるが、三人とも教科書を開いて楽しそうに勉強をしているようである。

「あとは、ここで間借りをしている磯野水穂さんがいるんだよな。まだ寝てるんだったら、ちょっと新しい女中が来たと言って起こしてくるか。」

と、杉ちゃんが言うと、

「今はやめたほうがいいわ。さっき薬飲んで寝たところだから、邪魔しちゃ可哀想よ。また目が覚めて起きてきたら、紹介すればいいわ。」

と、谷口さんが言った。鮎子は、その言葉をあまり気に留めず、昼寝でもしているのかなと思っただけで、

「それでは、私は何をすればいいのですか?」

と杉ちゃんに聞いた。

「ああ、それじゃあ、お前さんには、まず庭の掃除をしてもらおうか。それから、あとは、建物内の掃除と、水穂さんにご飯を食べさせるのを手伝ってもらおう。」

と、杉ちゃんが答える。鮎子はわかりましたと言って、とりあえず中庭に出た。庭は雑草がよく生えていたので鮎子はくさかじりを借りて草むしりを始めた。確かに、草むしりは、車椅子の杉ちゃんにはできないだろう。そういうことで、私を雇ったのかと鮎子は思った。

それにしても、庭はとても広くて、草むしりをするのに時間がかかった。前に派遣されていたお屋敷も、庭が広くてなんでこんな庭を自分で手入れできないのかなとか、思ったことがあったが、それと同じくらい広い庭だったし、池もあるし、松の木も植えられていて、石灯籠もある。こんな庭を今どきよく作ったものだなと、鮎子はおもってしまうほど、日本風の庭だった。

杉ちゃんたちは、お昼の支度を始めてしまったし、利用者たち三人も、勉強に戻ってしまった。なので鮎子は一人で草むしりを続けていた。それにしても、全部の草を抜くには、えらく時間のかかる庭であり、そのうち腰が痛くなったりしないか、鮎子は心配になるほどだった。

それと同時に、どこからかピアノの音が聞こえてきた。それもただ素人が趣味的に弾いている音では無いような。もっとすごい実績がある人、例えて言えばピアニストとか、そういう人がやっているような演奏であった。その曲が何という曲なのかは不詳だが、明るい曲では無いけれど、キラキラきらめいているような、そんな曲だった。鮎子は、音につられて、草むしりをサボって音のするほうに行ってみる。音は、食堂の隣の部屋から聞こえているらしい。鮎子は、どうしても、誰が演奏しているか気になって、隣の部屋のふすまを開けて中を除いてしまった。

そこには、なんとも言えない、絶世の美女という言葉があるんだったら、映画俳優みたいな美しい男性がいた。その人は、紺色の地色に、大きな葵の葉を入れた着物を着て、ピアノを弾いていた。ピアノの前には、一枚のせんべい布団があったので、もしかしたら、寝ているというのはこの人だったのかなと鮎子は思った。確かに、普通の人とは違う体なのだろうということは、その人が痩せて窶れていることからも見て取れた。でも、その目は黒く美しく、やや白髪交じりの髪が、日に透けてきれい。そんな言葉が出てきそうなそんな美しい人だった。身長は、5尺3寸程度だったから、さほど大柄な男性ではないけれど、でも美しい人だ。

鮎子は曲が終わると、拍手をした。それを聞いて男性は、鮎子の方を向いてくれた。鮎子は、彼に見つめられて、思わずぼんやりしてしまった。

「ああ、ありがとうございます。」

と、彼は言った。

「いえ、とっても素敵な曲なので、思わず拍手してしまいました。素敵な演奏で素晴らしかったです。それは、何という曲なのでしょうか?」

鮎子は思わず聞いてみる。

「はい、ヘイノ・カスキという人が作曲した激流という曲です。」

と彼は答えた。ちょっと顔に合わず渋い声であるが、でも、それがまたいいのかもしれなかった。

「そうですか。音楽に着いて何も知識があるわけじゃないけど、とても素敵な曲でした。また聞かせてください。」

鮎子が正直に感想を言うと、

「ああ、ありがとうございます。大した演奏ではありませんが、嬉しいです。新しい、家政婦さんですよね?杉ちゃんから話は聞きました。ご迷惑をかけてしまうと思いますが、どうぞこれからよろしくおねがいします。」

と、彼は言った。鮎子が、あなたのお名前はと聞くと、

「僕は磯野水穂です。」

彼はにこやかに答える。その顔がまた美しいのだった。鮎子は、本当はもっと彼と話してみたいと思ったけれど、その前に胸がどきどきして、なんだか何を話したらいいのかわからなくなってしまう。金魚みたいに口を動かしていると、

「多分、草むしりの仕事、大変だと思いますけど、頑張ってください。僕にはできないので、やっていただけるだけでも嬉しいです。」

と、水穂さんは言った。そんな事と鮎子は思ったが、げっそりと痩せている水穂さんを見て、草むしりができないのだと悟った。

「ありがとうございます。」

鮎子はそう言って、草むしりの仕事に戻った。なんだか、草むしりがこんなに楽しいとは思わなかった。今まではとにかく面倒くさいという気持ちしかわかなかったので、草むしりができるというのが、こんなに楽しいものに変貌してしまうのは自分でも信じられないくらいだ。でも、四畳半から、結構苦しそうに咳き込んでいる声が聞こえてきたので、それも気になった。

とりあえず鮎子は、見えるだけの草をすべてむしった。その後でもうピアノは聞こえてこなかったが、あの激流という曲が聞くことができたというだけでも鮎子は幸せだった。その後で杉ちゃんが、本日は初めてなので、庭の草むしりをして帰っていいよと言ってくれたけれど、なんだかずっとここにいてしまいたいと思われるような感情に、鮎子は包まれていた。家に帰る帰り道も名残惜しかった。あのショパンの生き写しのような、水穂さんがいてくれれば、草むしりのしごとも遥かに楽になるだろう。鮎子は、そんな気持ちで家に帰った。

その次の日も、喜び勇んで鮎子は、製鉄所に出勤した。その日は土曜日で、多くの人は仕事が休みだった。製鉄所の利用者は、二人ばかり来ていたが、休日ということもあり、あまり、熱心に勉強をするという感じではなくて、仲良く楽しく教えあっているような感じだった。ただ、その日は雨だったので、草むしりをする必要はなかった。なので、今日は、廊下の掃除と、水穂さんにご飯を食べさせるのをやってくれと杉ちゃんに頼まれたので、鮎子は、廊下を濡れ雑巾で掃除した。濡れ雑巾で掃除するのも、なんだか面倒くさい作業としか思えなかったけど、今日は更に掃除をしたいという気持ちになるものだ。鮎子が、一生懸命廊下を掃除していると、製鉄所の玄関がガラッと開いた。

「こんにちは、由紀子です。水穂さんいらっしゃいますか?」

という、女性の声がした。見てみると、若い女性だった。なんだか水穂さんが心配で仕方ないという顔をしている。

「ああ、由紀子さんか、丁度いい。今から水穂さんにご飯を食べさせるから、手伝っておくれよ。」

杉ちゃんに言われて、由紀子は製鉄所に入ってきた。なんだかかわいい女性だなあと、鮎子は思った。なんだか無視して、廊下掃除を続けることはどうしてもできない気がして鮎子はまたふすまの隙間から、四畳半を覗いてしまったのであった。

四畳半では、杉ちゃんがおかゆの入ったお皿をサイドテーブルに置いた。由紀子が、水穂さんの体をそっと起こして、肩に毛布をかけてやったりしている。

「よし、本日もしっかり食べるんだな。食べないとだめだぜ。」

杉ちゃんは、器からおかゆをお匙で取って、水穂さんの口元に持っていった。水穂さんはおかゆをくちにしようとしてくれたのであるが、食べ物が口に入るとなにか気分でも悪くしてしまうのだろうか。水穂さんは、咳き込んでしまい、おかゆを吐き出してしまうのであった。

「だめだよ。咳き込んでいないで、ちゃんとご飯を食べようよ。」

と、杉ちゃんがもう一度ご飯を水穂さんの口元まで持っていくが、水穂さんはまた咳き込んでしまった。今度はそれと同時に内容物も出たのであった。赤い、生臭い液体である。由紀子が、水穂さんの口元をちり紙で拭いたりしているが、結局、咳き込んでしまって、何も食べられなかった。しまいには杉ちゃんも怒ってしまって、

「馬鹿な真似はよせ!」

と言ってしまうほど、水穂さんは咳き込むのが止まらなかった。

「やめろってば!」

杉ちゃんがそう言っていると同時に、由紀子は、水穂さんの血液で真っ赤になってしまった口元を丁寧にちり紙で拭いた。目にいっぱい涙を溜めて。

そうなると、もう自分の出る幕は無いと、浜崎鮎子は思った。水穂さんには、由紀子さんという人がいる。確かにあれだけいい顔をしていれば、何人かの女性と関係を持ってもおかしくないと思われるが、それでも由紀子は、水穂さんに対して、特別な感情を確かに持っている。それはきっと、他の人とは別の感情のような気がした。それを、年上の自分が、由紀子から取ってしまうのは行けないなと鮎子は思った。でも、何故か悔しくて、なんだかやりきれない思いがした。

結局、杉ちゃんたちは、水穂さんにご飯を食べさせることは成功せず、薬を飲ませて、布団に寝かせて上げることだけしかできなかった。杉ちゃんたちが、全くあいつはと言いながら部屋を出てきたとき、鮎子は、何事もなかったかのように廊下の掃除を続けていた。でも、それをするのはたまらなく苦痛だった。やっぱり自分は、こういう仕事には向いてないのかなと鮎子は思った。きっと、感情に操られないで家事をし続けられるという人間が、家政婦と言う仕事には向いているのだろう。鮎子は、多分自分にはそれはできないと思った。もう、この仕事とは別れようと言う気持ちで鮎子は廊下を拭いた。そのため廊下は、この上なくきれいな廊下になった。激流が流れたあとの小川というのが、美しいものになるのと同じようなものであった。

その日も寒かった。いつもと違って、何故か寒い春は、何故かわからないけれど、予想外の出来事が起きてしまうようだ。


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激流 増田朋美 @masubuchi4996

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