詰襟と教室の戦場
夏休みが明けた。この時期になると文化祭の準備がある。参加は任意とはいえ、放課後に教室に残っている生徒はクラスの出し物の準備に容赦なく駆り出される。彼はこういった行事を面倒だと思うほうであり、大抵は部室棟の一部屋なんかにシケこんでいた。
ところが、今年はどうにも厄年のようだ。主に、彼女のせいで。
彼がいつものように頬杖をついて砂を換える彼女を見やっていると、地響きのような音がした。彼は机に額を打って、頭を振って起き上がった。昼の掃除で椅子と机を一度動かしたはずなのに、また椅子と机を動かしている。
「何ぼーっとしてんだよ。さっさと手伝えよ」
生徒の一人が言う。
「何を」
「寝ぼけてんのか? クラスの出し物の準備だよ」
彼は六限の時間に話し合った文化祭のことを思い出した。それから、昨年の級友も同じように教室の床を開けて準備にいそしんでいたことも。
「あー、俺、今日部活あるから」
嘘である。だが嘘も方便というもので、バッグを担いで教室の外へ走り出る彼を問い詰める生徒はいなかった。
教室を出て走っていた彼は、後ろを気にして立ち止まった。彼の知り合いはいない。もちろん彼女も。
彼女はどうしているのか。今もまだ砂を換えているのか。それとも彼のように文化祭の準備を強要されているのか。
できるだけ自然な様子で教室に戻り、ドアの窓からこっそりと教室の中を覗いた。彼女は煙のように消えていた。
「あの」
後ろから声をかけられた。彼は飛び上がりそうになった。
「わ、忘れ物? です、か」
「そうそう」
振り返ると、彼女がびくびくした様子でそこにいた。彼が驚いて声を上げると、彼女は縮こまった。
彼は彼女の声を覚えていなかった自分自身にいらだった。
「なんだよ」
「あ、ごめ、ごめん、なさい」
「謝んなよ」
嫌な沈黙が流れた。
「あ、あの。よかったら、私の忘れ物も一緒に取りに行ってくれたらありがたいですっ」
「は?」
「はぅ、ごめんなさい!」
ぷるぷる震える彼女に、罪悪感を感じて、彼は忘れ物の捜索を引き受けることにした。
「取ってくるから」
「ありがとうございます! えっと、教室の前の水槽に入ってる、白くて小さいカエルの置物なんですけど」
水槽に入った、白く小さい置物。数か月前の淡い記憶と、まだ内ポケットに入ったままの固い橋を思い出した。
「あれな。行ってくる」
ドアを開け、戦場に赴く。後ろから彼女の声援を受けた。悪くなかった。
さっとドアを閉めた。すぐに生徒たちから勧誘の雪崩が押し寄せた。即戦力だ。もしくは、猫の手でも借りたいほうかもしれない。
彼は床に散らばるダンボールやマジックペンを横目に、教室の前方へ突き進んだ。後ろから付いて来る生徒が机の上から椅子を転がした音と悲鳴が聞こえても、見向きもしなかった。
水槽の中にはいくつかモニュメントが入っていたが、「カエル」と呼ぶべき代物はなんとなくわかった。他には、岩や鳥、東屋なんかがあった。橋も二つ入っていた。
彼は教室を出て、ドアをきっちりと閉めた。
「ほら」
彼はカエルの置物を彼女が差し出した両手の上に置いた。
「わあっ。ありがとう」
彼女の笑顔が眩しくて、彼は目をそらした。
「あ、敬語……。ありがとう、ございます」
「いいって。俺タメ口のほうが慣れてるし」
二人はしばらくそうしていた。
傍から見て今年の彼は厄年だが、彼にとってはそうではないのかもしれない。
ブレザーと詰襟と和三盆 西風理人 @kazerika
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