詰襟と実験 夏休み
彼は夏休みの間、水曜と金曜の課外終わりに、生物学室の準備室に呼び出されることになった。
弱冷房に設定されたぬるい部屋には、彼のクラス担当の女の先生以外にも、男の先生が二人いた。おっとりした雰囲気で眼鏡をかけた若い先生と、ギラギラした雰囲気で日に焼けた中年の先生だった。
ちなみに女の先生は、どちらかというと若く、掴みどころのない感じの人である。助手の先生は隣の生物部にいるらしかった。
彼は嬉々とした顔で出迎えられた。
「戦闘系の生徒ですか。うれしいですね。あ、部活は何をやっているのですか」
バスケ部である彼に課せられた使命は、「和三盆」のテスターだった。
あの「和三盆」を食べ、高校の周りを一周走って再び準備室に戻って来る。その後、周りの様子やどう感じたかを回答する。タイムも記録し、体感時間との相違を調べる。
準備室のガラス戸を開けると、クラブハウスの中のような低い音が充満していた。
「大丈夫大丈夫。それ、セミの鳴き声だから」
後ろから見計らったように回答が飛んで来た。
夏の空はどこまでも晴れ渡っていたが、高校の周りに植樹された街路樹が憩いの日陰を生み出していた。彼は適当に歩いて戻ってきた。背の低い冷蔵庫の中から麦茶が出された。
「お疲れ。ほれ、詰襟脱いじゃいなよ」
彼はむっとした顔をした。
「何か脱げない理由があるのですか?」
彼は詰襟の一番上を開けてみせた。赤いシャツが覗いた。
「なるほど。……いや、ずっと授業の時気になっててね。冷え性とかじゃなくて安心したよ」
「うちの戦闘の先生には言わないでほしいんっすけど。結構うるさいんで」
先生たちは苦笑いや引き笑いをして、二つ返事で請け負った。
彼が「和三盆」を摂取し続けたのにはちゃんとした理由があった。普通過ぎる彼は、心のどこかで非凡になりたいと思っていた。だから「和三盆」を食べ続けたのだ。
先生たちは初日に「和三盆」の説明をした。
「和三盆」には毒性も依存性も無視できる程度しか存在していない。カフェインと同程度かそれ以下だ。これは水棲生物と小型哺乳類を使った実験で明らかになっている。
「和三盆」の主な効果は、体感時間の延長と短縮。これ自体は人間が誰しも持っている力だが、「和三盆」は目に見えてわかる程に強める。理論的には他人よりも速く動くことが可能で、各界からはドーピング薬物に当たるとして、「和三盆」に関する研究が非難されている。一方で研究を推進するというのが国連の考え方で、実の所、研究者らには何の影響もない。
技術の進歩は止められない。新たな知識に関することならなおさらだ。
八月。道路を走っている車が止まりかけた時は、さすがに呆然とした。
麦茶と和三盆を摂りながら、彼は先生たちに聞いてみた。
「周りの人には、俺ってどんな風に見えてるんっすか」
おっとりした先生は、珍しく悩んだ顔をした。
「うーん。データがあまりないからね。二倍速か三倍速……外を走ってる時だったら、自転車に乗ってるくらいの速さかな」
「先生たちには、俺はどのくらいの速さに見えてるんっすか。超速いとか?」
「俺らも『和三盆』は結構キメちゃってるから、まあ普通の人間と同じくらいかな」
彼はひきつった笑みを浮かべた。
「あー、ちなみに隣の部屋の生物部も『和三盆』は食べてるから、聞いても同じだと思う。君ほど速くはないけど」
彼はその日の帰りに生物部を覗いた。速さよりも、理系の部活ならではの独特の雰囲気が勝っていた。話しかける気にはならなかった。
子どもの頃から不思議だった。楽しい時間はゆっくりと、つまらない時間は早く流れてゆく。それを自覚したのは、初めてガールフレンドが出来た頃で、あの甘苦い緑茶を飲んだ頃だ。
つまり、もしかすると幼い頃に「和三盆」を摂取したことがあった。それを先生たちに伝えると、
「一回程度じゃ何も変わんねえよ。だろ?」
「はい。効果を実感するには週に一度以上を目安とした継続的な摂取か、一日の推奨摂取量の半分を一度に摂取することが必要です」
と言われたのだった。
「ちなみに一日にどれだけ摂ってもリスクはないよ。発がん性があるとか生活習慣病になるとか散々言われてるけど、あれって酒とかタバコとか、いろんな要因が絡み合ってなるやつだから」
酒もタバコものんだことがある、とは言えなかった。
とうとう初日から最終日まで全力で走らなかった。それでも否応なしに感じる体感時間と記録されたタイムとの剥離に、一抹の恐ろしさを感じていた。
(このまま速くなっていったら、そのうち世界が止まってしまうんじゃないか)
彼は第二ボタンの辺りを握りしめた。心臓の鼓動は、まだ、普通の速さで聞こえる。
夏休みの実験の最終日に、彼はふと思いつき、聞いてみた。
「『和三盆』って、なんなんすか」
「んー、それは、どういった質問かにもよりますね。構造式を知りたいのか、化学反応を知りたいのか……」
彼は眉をしかめた。
「いや、そんなんじゃなくて。そもそもなんでそんな紛らわしい名前なのか、って知りたいだけなんすけど」
「ああ、なるほど。当然ながら、こっちの『和三盆』のほうが後から付いた名前です。ワゼン三重環ベノキシノールという」
「……は?」
おっとりした先生は、「手厳しいですね」と苦笑いした。
「長い名前だろ。だから縮めて『和三盆』って呼んでんだよ」
ホワイトボードに化学式が書かれ出したので、彼は慌てて荷物を背負って部屋を後にした。
「もういいっす。ども、お疲れっした」
「おやおや。手厳しいな」
彼には化学はさっぱりだった。しかし、彼だけでなく、まだこの時点で「和三盆」の全てを説明できる人はいなかった。
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