ブレザーと将軍と 夏休み

 六時。彼女が校長室の扉を閉めると、セミの合唱が止んだ。まだ彼女の耳の中にアブラゼミの鳴き声が残っていた。

「先生。その置物は」

 バルコニーで和三盆を水槽に撒いてからかなりの時間が経った。彼女は、ようやく壁際の棚に置いてある小さな白い橋について聞いてみる勇気が出た。

「落とし物ですよ。ここの棚は遺失物置き場に使っているのです。もしかして、あなたが落としたのですか」

「あ、ええと……。私といいますか、生物の先生といいますか、なんといいますか……。食べなければ問題ないみたいです」

 将軍は、そうだ、と、棚から大きな板を取り出した。

「橋で思い出したのですが、参謀学を学ぶ上で欠かせない軍人将棋の話をしないといけません」

「私、将棋はあまり。見るのはいいんですが、実際に遊ぶと、いろいろ想像してしまうからか、苦手で」

 将軍は穏やかに笑った。

「では講義するだけにしましょう」

 将軍と彼女はソファに座って向かい合った。

 軍人将棋は、将棋やチェスと違って、じゃんけんのように全ての駒に相性が設けられている。相性が悪ければ、先手後手関係なくその駒は退場になる。退場した駒は復帰することはない。

 また、中央に橋があり、一部の駒以外はこの橋を通って相手の陣地に進むことになる。

「橋……。橋を壊してしまえば相手は攻め込んで来られなくなります」

「それでは軍人将棋が成り立たなくなりますよ」

「実戦での話です」

 将軍は息をのんだ。もちろん参謀学にはこの話は出てくるが、もっと後の内容である。そのまま話を深めてみることにした。

「他に気が付いたことはありませんか」

「橋についてですか」

「いえ、他のことでも構いません」

「ええと、例えば飛行機に人が乗って、上から降りて来るとか。このタンクというのに少尉を乗せてみるとか」

「いいですね」

「あっ。そういえば、将棋もチェスも、一回ずつ交互に行動するから難しいし、ハラハラドキドキするんですよ。二回でも三回でも行動出来ればいいんです。

 そうすれば、少尉が中尉に勝つことも出来そうではありませんか」

「それは、実戦でも難しいですね。飛行機と人くらい速さに差があれば、もしかすれば可能かもしれませんが」

「加速装置とか、あ、でも姿勢の制御が……」

 将軍は、目を輝かせる彼女を見て、若い頃に感じたもどかしさを、かすかに思い出した。


『この国の戦争を終わらせる! 負けて終わるのでは犠牲者が出る。よって、勝って終わりにする!』

 人を一人でも多く救いたかった。そのためには戦争を終わらせるしかなかった。戦争を終わらせるために、かつては将軍にまで上り詰めたが、戦争を終わらせるためには犠牲を増やすしかなかった。

 将軍になってからは理想と現実の違いに苦しんだ。結局、犠牲者を増やしただけで、今もなお、戦争は続いている。


 理想と現実は違う……。

 ブレイクスルーが必要だ。異なる分野から、橋を渡ってやって来る、新しい技術が必要だ。

 それは将軍の部屋に置かれた、小さな白い橋かもしれなくて。

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