変わりゆく世界、変わらない君 私が死ぬまでの7日間
トッチー
あと7日
あら、意外といけるわね。
肉の旨味に関心したわたくしはそれを
家で食べていた鶏肉の揚げ料理は高級若地鶏ばかりで、コンビニやスーパーのお惣菜を食べ始めたのはここ最近だから、わたくしにとってジャンキーな味わいは珍しいものだった。普段食べていた
まぁ、明日にコンビニがやっている確証はありませんけど。
このご時世、お店が機能していること自体が奇跡に等しいのは生活していればひしひしと伝わってくる。昨日までやっていた店舗が、次の日にはシャッターで覆われているのを何度も見てきた。またいつか行ったときガラスが破られていなかったら御の字だろう。
ビニール袋の持ち手が細く肌に食い込んできたので、わたくしは左右の手を入れ替えた。
買い物からの帰り道。
そこそこ膨れたビニール袋を提げながら、道中買ったから揚げ棒片手に家に向かう。実に庶民的な生活の一コマかもしれないが、その行為を『わたくしが』行っていることで、庶民的とはかけ離れた様相を呈していた。
姿と行為が乖離したわたくしがカーブミラーに写り込む。
女性的な柔らかさを宿しながらも、無駄のない肉体は今日も軽い。大和撫子を彷彿とさせる絹の黒髪を背中で揺らし、運ぶ足は後にも前にも一直線。幼い頃から染みついた美しいウォーキングはこんなときでも抜けることはなかった。
こんなわたくしが街中で買い物袋を引っ提げて歩き食いしてるのだから、ギャップはとてつもないだろう。
「わん! わんっ!」
「あら」
どこからか余りある元気を尻尾で発散させてる、一匹の犬がやってくる。柴犬だからきっと小麦色と言われる毛色だろう。
「ごきげんよう。今日も会いましたね」
わたくしは上品に膝を折って手を出す。柴犬はそれを認めると舌を出しながらわたくしのもとへ駆けてきた。と思ったらまるで見えない結界で入れないかのように一定の距離を保つ。今日もわたくしたちの仲は進展していないよう。
やっぱりいつも通りですわね。犬にもパーソナルスペースがあるのかしら。
「わんっ!」
なにが楽しいのか、わたくしを見つめてちょろちょろと飛び跳ねる。そしてうっかり近づき過ぎるのに気づくと、「やべっ」という顔で後ずさる。絶対に側には寄ってこない。表情豊かでなんとも不思議な犬だった。
可愛らしい。
この犬とは数日前に同じく買い物帰りにこの道で知り合った。わたくしを見ると近寄ってはしゃぐのだから、多分知り合うという表現で正しいはず。この子が誰に対しても同じ反応をしているのであれば話は変わるが。
浮気者ではないでしょう。
常に数メートル離れて佇むこの子は首輪を着けており、どこからかの脱走犬か捨て犬だろう。
確かニュースでペットは同伴できないって言ってましたから……当然ですね。
人慣れしているのであれば、好感度が上がるとこの距離も縮まるのだろうか。
「あ、そうだ」
わたくしは串から友好の証を一つ抜くと掲げて見せた。
「召し上がる?」
「わっん!」
キラキラと目を輝かせる。実に分かりやすい。
けれど早る息とは裏腹にやっぱり近づいてはくれない。
仕方ない。
「ほら、お食べ」
わたくしはほいっとから揚げを放った。
「わうわう!」
柴犬はご馳走に喜んで向かっていく。
そしてその小さな身体はぐちゃぐちゃに潰された。
瞬く間の出来事だった。
重く鈍い音のようにも聞こえたし、柔らかいものが破裂するようにも聞こえた。
吹き飛ばされた柴犬だったものは、書道パフォーマンスの特大筆のように、アスファルトに真っ黒な軌跡を引く。荒々しくなにかを周囲に飛び散らせながら。
「……」
吹き上げられた長髪が落ち着いた頃には、犬を跳ね飛ばした軽トラはずっと彼方まで走り去っていた。あんな猛スピードで一体どこへ向かうのか。
わたくしは吹き飛ばされて縁石で止まった塊を見下ろす。
「あらら、死んでしまいましたわね」
別段動物の医学的な知識は持っているわけではないが、これは即死と判定していいだろう。一瞬で死ねたのは不幸中の幸いか。
内側から噴き出したものと土埃が混ざりあったそれにはさっきまで
「最期の晩餐は楽しめて?」
口だった場所を注視してみるが、真偽は分からない。固体と液体が混合したびちゃびちゃの中からそれを探すのは無理そうだ。
わたくしが与えたから揚げをこの子は味わえただろうか。
食べられてないよりは、食べてから死んでたほうがいいなとは思う。
でないとわたくしがから揚げをあげた無意味でもったいないですもの。
「みんなどうせ死ぬんですから。それがちょっと早くなっただけですわ」
わたくしはそう弔辞の言葉を手向けると、もう二度とそれを見ることはなく歩き去った。
あの柴犬の体は、もしかしたら他の誰かの最期の晩餐になるのかもしれない。
まさに自然界の循環ですね。汚れてはしまいましたけど、元気な子でしたから野生動物にとってはきっと美味でしょう。
わたくしは二本目のから揚げ棒を袋から取り出すと、がぶっとかじりついた。
ん、美味です。
立派な建物が並ぶ高級住宅街を進んでいく。
近所の家が存外優れた美的建築であるということは、ここ数日で得られた新発見だった。普段車で通り過ぎるだけだったから、ゆっくり歩いてみると色々と知らないこと、新しいことがあるものだ。ゴミ捨て場で近隣のモラルが推し量れたり、見かけは立派な庭でも大きさ故か掃除が行き届いていなかったり。
ここは日本でも指折りの高級住宅街だが、どれの一つもわたくしの家ではない。確かに建築センスを感じる人家ばかりだが、わたくしの家のほうが一段格式高いことは慎んで申し上げる。謙遜なぞしようものなら、どう足掻いても明らかな皮肉と捉えられよう。
家並みを抜けて少し奥まった場所へ。
そして辿り着いた寺のような木造の正門。
そこから広大な和風庭園と丹精込めて手入れされた生垣の向こうを望めば……。
「燃えてる」
わたくしの住まいは業火に焼かれていた。
今朝まで寝泊まりしていたわたくしの家が。
物心ついた頃から住んでいたわたくしの家が。
燃えている。
思い出も安らぎも財産も。
宿るもの全てを薪として。
白んで見える程にうねり狂う火炎は龍のようで、その巨大な
「あーらら」
案外早かったですわね。
いつかはこうなると予見していた。
秩序なんて無くなりつつあるこの社会で、わたくしの大豪邸は破壊と略奪のいい獲物だ。捨て置かれるわけがない。
玄関へ近づく。
邸宅が大きくなるにつれて、肌がピリピリと灼きつくのを感じる。
「……」
この扉をくぐったら最後、生きては戻れないだろう。
これで死ぬのもまた一興かしら。丁度火葬みたいだし。自分で死体処理までできちゃうなんてスマートだわ。
わたくしは頭上を見上げる。
黒くなり始めた空に舞い上がる火の粉は、天国への案内人だろうか。
「でも、苦しいのは嫌ね。絶対じわじわと熱くて痛いもの」
きっと喉も肺も焼けて気持ち悪そうだ。焼身自殺はその苦しさから最もメッセージ性が強い自殺とも言われているらしい。
わたくしはから揚げをまた一つ口へ運んだ。
それにわたくしの最後の晩餐はまだですし。あ、これ炙ったら美味しくなるのかしら? ちょっと遠くからじんわりと……。
「家、火事だな……」
長い髪をひらめかせながら振り返る。
いつのまにかわたくしの後ろには一人の少女が立っていた。
「そうね」
けれどわたくしは逆再生のように再び火に目の当て所を戻す。
「落ち着いてるんだな」
「ここで泣き叫べば、この火は止まりまして?」
「そんなことあるわけねぇけどさ、大切なものとかねぇの?」
「もう過去ですもの。別にいらないわ」
「ふーん、ちゃんと火の後始末したの?」
「ええ。その辺は抜かりないはず。おおかた血迷った方々、もしくは恨みを持ってる方々の蛮行でしょう。致し方ないわ…………それより」
ガサガサとビニール袋を
あったあった。
「コンビニのから揚げ、食べたことあります? 結構美味しいのよ。
わたくしは最後の一本を取り出すとその少女、
「…………」
彼女は固まってしまっていたが、やがて言葉を探りながら口を開いた。
「あぁ……食べたことあるよ。うまいのも知ってる。てか……名前……覚えてんだな」
「同じ学校生活を共有するクラスメイトですもの。けど……てっきり明導院さんもこちら側だと思っていましたわ」
「ふっ、この見た目でか?」
明導院さんは鼻で笑いながら、腕を広げて服装を強調した。
なにかのバンドのだろうか。キャミソールの上から、強烈なデザインのパーカーを閉めずにだるっと羽織り、下はミニスカートに網タイツにショートブーツ。服や体の各所にメタルアクセサリーが散りばめられ、ジャラジャラと揺れている。パンク系といったところだろう。
確かにこれは…………わたくしと違う。
さっきはクラスメイトだから名前を覚えてるなんて言ったが、あれは半分本当で半分嘘だ。
彼女を覚えている理由はもっと別。奇抜な見た目と悪い素行、富豪の娘ながらよく補導されていて、教師にとっては悩みの種という印象で記憶されていた。
「金持ちみんながおま……澄凰サンみたいな財閥令嬢じゃないし、三つ星シェフのつくる高級料理が日常食なわけでもない」
「そのようですわね。あ、いらないなら、わたくしが食べますけど……」
「いいよ」
食べ終わった串を投げるように家に
「見た目のギャップすげぇな」
「やってる身ですけど、わたくしも同感ですわ」
「言うなれば……まるで美貌の海外超セレブが近所の回転寿司で100円の皿を重ねているような感じ」
「かいてん…………ずし…………?」
「はぁ……なんでもねぇや」
お寿司が回転……アミューズメントパークのコーヒーカップみたいなものでしょうか。
わたくしたちの間に会話は少なく、崩れゆく屋敷をぼうっと眺め続けた。
バキ、メキメキッ。
「木造建築はよく燃えますわね」
今、身を焦がした大きな柱が周囲を巻き込みながら倒れ伏した。ガラスの砕ける高い音も聞こえてくる。
「ところで明導院さん」
「あーその呼び方やめてくんない? 嫌いなんだ。千鶴でいいよ」
呼び捨てにするのは好まない性分なのだが、彼女の語気に強さを感じたので、今回はわたくしが折れて従うことにする。
「そう。では千鶴、そろそろお
「なに? 門限みたいな? 忠告ありがたいけど、うちにはそんなの無いし、あったとしても——」
「いえ」
わたくしは言葉を打ち切って、彼女の顔を見つめるとニコッと笑いかけた。
「呪われますわよ」
「……呪われる?」
対して千鶴は細長く引いたアイラインをさらに細めた怪訝な表情を返してくれた。
「あら、ご存じなくて?
「……」
「わたくし、この
「馬鹿馬鹿しい」
取るに足らないようで、彼女はさっきのようにまた鼻で笑った。
「はい、ではここで問題でーす。ででん」
わたくしは手をパチリと合わせ、即席のクイズコーナーを開いた。愉快な雰囲気で少し声を高くする。
「ここ最近、手よりもわたくしの陰口でお忙しいご様子でした住み込みお手伝いさんたちは今どこにいるでしょう? 早押しでーす」
千鶴は燃え盛る家屋にやおら静かに顔を向けた。
バチッ、バチッと断続的に弾ける音がする。はてさて熱気に混ざって鼻腔を刺す焼けた匂いは全てが全て建築物か。
「まさか……な」
「確認する
クイズ司会者の役目も猛炎に放り捨てると、わたくしは冷たく言い放った。そしてまた一つと肉を咥える。
思い返すとさっき弾け飛んだ芝犬も呪いとやらにあてられた可能性がある。
「ちなみに正解するとなにか貰えたの?」
「ん〜」
考えてなかった。
咀嚼しながら一考してみる。
そして飲み込んだ。
「あなたに呪いを!」
「いらねぇ」
「えーせっかく思いつきましたのに。だって他にはから揚げしかありませんよ?」
「それでいいわ。それにしろよ」
千鶴は呆れたようにツッコミをくれた。案外ノリがいい人のようだ。
「ったく、呪いなんてどうでもいいけど……澄凰サンはどーすんの? もう寝るとこないでしょ」
「おお、確かに。今気づきました。わたくしホームレスですわ」
ハッとして人差し指を立てる。
澄凰財閥次期当主、澄凰夕鶴羽。
大変ご立派な名字を持ちながらも、家はない。
わたくしの血に脈々と流れる、澄凰の血筋が長年受け継いできた邸宅は目の前でキャンプファイヤーになっている。
そして資産も無い。それは単にお金というだけでなく、寝所も服も食べ物も。あるのは今着てる動きやすい普段着と買い物袋と財布とスマホのみだった。
「抜けてるっていうかなんというか…………うち来なよ。今夜はすき焼きにするんだ」
千鶴はため息混じりに地面に置いていたバッグを持ち上げた。中から一本長ネギが飛び出して見える。そこで初めて、千鶴もわたくしみたいに買い物帰りだということに気づいた。
姿はやんちゃな感じですけど、買い物はマイバッグなんですね。
わたくしは自分のビニール袋をシャワシャワと鳴らしてみる。
「パーティしようぜ。一人よりは二人だ。もちろん泊めてやるし」
「ではご相伴に預かります。案内お願いしますね」
「よっしゃ! 騒ごうぜ」
千鶴はニッと歯を見せた。
スマホのライトで照らしながら、知らない道を千鶴の後についていく。身長は平均的でわたくしとそう違わないけど、歩みは一歩が大きくて早いから私が少し合わせる必要があった。彼女は活力に余裕がありそうだ。
なんにも考えずに誘いに乗ってしまったが、よくよく思い返すとわたくしと千鶴に接点はほぼ無い。クラスという同じコミュニティに属しているだけで、普段話もしなければ、わたくしの活動していた弓道部の一員でもない。なんなら、なぜたまたまわたくしの家の
並んだ彼女の横顔を見てみる。
以前は…………鮮やかな紫の髪でしたね。
わたくしが知っていることは、おおよそ学校側から嫌われる格好と素行で、まぁ優等生をしていたわたくしからするとあまり関わるべきではないと感じさせる雰囲気を持つ人。これは憶測だが、私生活はより
そしてわたくしと同じで、端的に言えばお金持ち。
わたくしだって令嬢、界隈では無視できない力と経済を握る明導院の名を知らないわけがない。きっと我が家、澄凰家ともなんらかの繋がりはあるだろう。
とてもお嬢様らしい様子ではないですが。
親交も無いわたくしを誘ったのは単なる親切心か。
はたまた別の思惑か。
けれどその疑問はわたくしにとっては些細なことで、特に気にする必要はない。
わたくしはもう
なるようになれだし、これ以上悪くはならないでしょうし。
仮にこれから千鶴がわたくしに危害を加えたとしても、それはわたくしが旅立つ直前の出来事の一つに過ぎない。
嫌なことというのは、時間が経てば経つ程思い返してしまい、より苦しくなって、それを感じたときよりもさらにダメージが大きくなる。やらかした失敗を長く引きずって眠れなくなるように。
けど後なんて用意していないわたくしにはなんら問題ない。
絶望したって、その絶望を感じる頭も心もスイッチを切るのだから。
「着いたぞ」
わたくしたちは一軒の豪華な邸宅にやってきた。
大きさは我が家とそう変わらない。けれどうちが和風建築だったのに対して、こちらは社会の教科書の明治時代の単元に載ってそうな、横に長い西洋風のレンガ造り。長い廊下と持て余す程の部屋がありそうだ。
「うん、立派なお屋敷ですわ」
「澄凰サンが言うと皮肉なんだよな」
「ん? どうして?」
「なんでもない」
ガス灯のような
「遠慮なくどうぞ」
入るとそこは玄関ホール。
ただの玄関、ではなく玄関ホールだ。大理石の床はシームレスで日本には珍しい土足文化らしい。天井からは掃除の行き届いたシャンデリアが高貴な光を浴びせてくれ、外観のイメージと違わないリッチな空間だった。
「んじゃキッチンこっちね」
案内される途中も、廊下では一目で一級品であると分かる壺や絵画の調度品に挨拶される。ここで暮らせばさながら美術館で寝食しているような気分だろう。マニアとかだったら
「……?」
けれど進むにつれて、床に黒い汚れが目立ち始めることに気づいた。
ぽつぽつと続く。
空間が輝いているせいでそれらの異物が悪目立ちしてしまっていた。
どんどん増える。
床だけではない。壁にもだ。
点だったそれは、モップで押し広げたような掠れた汚れになる。
それはちょうどさっき道路で見た柴犬の筆跡を脳裏に浮かばせる。
そして汚れはある一つの扉から広がっていた。ドアノブや縁にある人間の手を模した染みは、もしかしてと予感させるには十分な存在感だ。
千鶴はそれらに一瞥もくれてやることなく進んでいってしまう。だが、あまりにも異様なその空気にわたくしの歩みは自然と止まってしまう。
足音が一対減ったことを察して、千鶴が振り返る。
「あーやっぱり気になる?」
「これを気づかぬふりしろというのは
「だよねー」
千鶴はコンコンとノックした。
けどきっと、彼女はその返事なんて求めていない。
「今日さ、親父殺しちゃってさ」
「………………そう」
したり顔を浮かべていた。どうだ、と言わんばかりに。その素振りは仕留めたネズミを飼い主の御前に提出する猫のものに似ている。
だがわたくしは千鶴の飼い主ではない。そのしたり顔に真正面から言葉をぶつけた。
「臭いが不快ですから、ちゃんと漏れないようにしてくださらない?」
千鶴の開いた口は塞がらなかった。
どうやら想定外の反応だったらしい。
「食卓までは臭わないでしょうね? この香りをお供に食べてはディナーが台無しです」
ウッと来る匂いで嫌ですわ。息が詰まるというか、むせ返るというか。
さっきから漂う血の香が鼻について仕方がない。
「消臭剤いくつ並べればいいかしらね」
「……多分消臭力とかじゃ無理だろうな。大丈夫……ダイニングまでは行ってなかったから」
「ならよかった。ねぇ早くしましょ」
「……聞かないのか? なにも」
千鶴はそう質問することで、逆にわたくしに質問して欲しいみたいだった。
だが残念。
わたくしが反応したのは、顔をしかめるような臭いが漂っていたから。そしてそれが食事を害さないか心配だったから。その心配が消えたなら、あの汚れがなんなのか、どういう
それよりも重要なことが、わたくしには一つだけ。
「わたくしお腹空いてるの」
卓上コンロは初めて使う。
「こ、こうでいいの……?」
だから使い方がからっきし分からなかった。つまみを回せばどこでも火がつくすごいアイテムだと聞いていたのだが、燃料が必要とのこと。それで先程からガチャガチャとガスボンベを取り付けようと四苦八苦してるのだが、この子は必死の抵抗を見せていた。
あなたの居場所はここ。はい、動かない。
「なにやってんだ?」
「ガスボンベが言うこと聞いてくださらないんです。あ、できました」
カチャと音を立てて、とりあえずガスボンベが動かない位置に落ち着いた。これできっと成功だろう。
まったく、しぶといやつ。
「見して」
「安心してよろしくてよ。わたくしが奮闘の末に決着をつけたのですからもう——」
ばいーん。
いとも容易く接続が外れた。
「なっ、はまったはずでは……」
「なんか段差につっかえてただけだ。そもそも……」
千鶴はボンベを寝かせた状態で、その突起を接続部にあてがう。そして本体側面のレバーを下ろした。
ガチリ。
「このレバーを下ろさないと繋がらない」
「……また一つ賢くなれましたわ。感謝します」
あぁまた一歩真理への扉に近づきました。とっても嬉しいです。学ぶっていいですね。だからこれっぽっちも悔しくありませんわ。
「澄凰サンにやらせると爆死しかねないな。ドッカーンって。危ない危ない」
ぐぬ。
両手でしてくれた爆発のジェスチャーはシニカルで、あからさまにわたくしを馬鹿にしている。まるで失敗した子どもをからかう、イジワルお姉さんだ。八重歯を覗かせる笑みは不良という彼女のイメージをそのまま表している。
わたくしは子どもじゃありませんけど。
「弁明させてください」
「どうぞ」
わたくしはキッチンに向かう千鶴の衛星となって公転しながらついていく。このままじゃ立つ瀬がないのだ。
「わたくし卓上コンロ初めてですの」
「そっかぁ」
「初めてでしたら、誰もが戸惑う設計にした製造側に非があるのではなくて?」
「入ってた説明書読んだ?」
「説明書……」
あ。
「ぐしゃぐしゃポイしたビニールに混じってなにかの紙が……」
「人のやつ勝手に捨てんなよな」
「うぅ……申し訳ないことをしました」
「別にいいけどさ。次使うか分かんないし」
千鶴はすき焼きが詰まった土鍋を、っしょ、と持ち上げた。多分これも高い器。
歩き喰いしていたわたくしが言えることではないが、見た目
わたくしはもちろん帰りも纏わりついた。
「ナビゲート妖精のマネ? オブジェクトに注目したら豆知識教えてくれる?」
「? なんですそれ?」
「いいや、知らなそう。てか家庭科とかホームパーティとかで使ったことないの? コンロ」
「我が家も学校も全部IHです。オール電化。というかわたくしは食べる役でした」
「そういえば金持ちでしたね、はい。一瞬でもそれを忘れた私が愚かだわ」
土鍋が置かれると、わたくしはシュパッとつまみ担当大臣になり、火をつけてそれを出迎えた。
ふん、火はつけられました。
「誇らしげだけど、一番簡単なとこだからね」
「自己肯定感は大事ですのよ」
十分程経てば、蓋の小さな穴から湯気がもくもくと飛び出してくる。その間にわたくしたちはジュースとかご飯とか生卵とか、あるいはお皿やグラスを持ってきては机に並べる。そうすれば机の上はみるみるうちにホームパーティになった。
千鶴がテキトーに壁掛けテレビをつけて席についたので、わたくしも長い背もたれの立派なイスを引く。
「開きましょ」
わたくしはこの宝箱を早く開きたくて、かっさらうようにミットを手にした。
「念の為お尋ねしますが、このお宅に他に誰かいまして?」
「いや、別にいないけど……」
「そう。それじゃ二等分で済みますね」
「……澄凰サンって食べるの好き?」
「そうですね……好きか嫌いかと聞かれれば好きよりですわ」
「ウソつけ。明確に、好きだろ。食い意地透けてるもん」
的を射た指摘に思わずミットをパクパクさせる。
「……こればっかりは昔からそうですわ」
「子どもっぽいとこあるんだな」
「それってまたバカにしてます?」
「いやいや。童心を忘れないってことも大事じゃないか? 私にはもうそんなもの残ってないからね〜」
そう言う千鶴は、今回ばかりは他意は無いようだ。
ずっしり重たい蓋を持ち上げると、溜まりに溜まっていた蒸気がもわっと飛び出してきた。次いで食欲誘う煮立ったつゆの沸騰音が部屋を賑やかす。
「美味しそう。ちなみに今日のお肉はどんなのですの?」
「奮発してA5ランクの黒毛和牛だ」
「あら、家庭の味でいいですわね。やっぱりいつもの安心感っていうのは、どんなものにも勝る調味料ですから」
「…………これだから金持ちは」
同じくお金持ちのはずの千鶴は嘆息しながらこめかみを押さえるのだった。
どういうことでしょう?
「ほらおたまと菜箸渡しとく」
「どうも」
ぐつぐつと煮えたつゆから昇る湯気には、隠しきれない旨味を抱えた鰹の香りが感じとれ、唾腺をつっついてくる。その美味しい予感はとどまるとこを知らず、わたくしは期待を視線に込めて注ぎ込む。
もう食べ頃な気が……。
…………。
「もうこのお肉食べられます?」
わたくしは指で鍋の真ん中、黒毛和牛のお肉ゾーンを示した。
「澄凰サンの好みの焼き加減が超レアなら食べてもいいんじゃないか。私はぜってぇ食べないけどね」
千鶴はそう言うと悪魔っぽくニヒッとする。
パーソナルカラー診断を受けたかのように、自分に似合う笑い方を浮かべる彼女にわたくしはつい関心してしまうのだった。
「そう。
お鍋の中を少し混ぜて、全体に火を通す。
食材全部を分け隔てなくつゆに浸してあげませんと。不公平はいけませんわ。
いただき、と千鶴が自分の箸でお肉を取ったことを合図に私も自分の皿に盛り付けた。そしてつゆも滴るいいお肉を溶いた卵黄にくぐらせて、口に入れれば……。
「んーうまい!」
「美味しいです……」
わたくしたちは顔を突き合わせ、鍋を挟んで至福の表情のにらめっこ。だけどどちらからともなく笑ってしまったから、勝敗は分からなかった。
「ずっと死んだ顔してたけど、今は生きてる顔してんな」
「…………ん? わたくしのことですか?」
「他に誰がいるんだよ。オバケでも見えてんのか?」
千鶴がなにを言っているのか、理解するのには幾許の時間を要した。
あら、わたくしは今…………笑っていたのですか…………。
『内閣総理大臣から発表された事項について再度お伝えします』
鍋をつっつくわたくしたちの
『3日前に突如観測された超巨大隕石は軌道を変えず、依然として地球への落下コースにあります。予想落下地点も変わらず、東京から6000キロの太平洋沖です。世界各国の空軍はこの隕石の破砕に向けて準備を進めていますが、軍や専門家のシミュレーションでは破砕できるのは本体の2%にも満たないとして』
「世間は大変ですわね」
「ほんとほんと。おし、追加の肉入れるぞ肉。あと3パックあるからな」
「なんと……でも流石に3はちょっと……野菜も食べませんこと?」
千鶴がお代わりを取りに行ってしまったので、私はグラスの天然水を傾けながら漫然とテレビに顔を向けた。
『この喫緊の状況を受けて政府は各都道府県に設置されている避難シェルターを全て解放すると発表。しかしながらその収容人数は国民の数には足りていないため、先着もしくは30代以下を優先するとして』
「お年寄りにはかわいそうな話だよな〜。この国を発展させてきたのはワシじゃぞ〜っていう声が聞こえてきそ」
おまちどお、と千鶴がパックのフィルムをむしる。
それをさっと受け取って、ささっと投入。
「仕方ないでしょう。種の存続レベルの話ですもの。若い方が未来がありますわ。それにご老体にとって地下のシェルター生活は不便です。だったら若者に未来を託して、
「骨が残ればの話だけどな、ははっ」
千鶴が箸で指すその先、薄い液晶の向こうに再び耳を傾ける。
『シェルターを解放していますが、各国の専門家によるとこの超巨大隕石は地球史上で見ても類を見ない大きさを誇っており、ほとんどのシェルターが身を守るのに十分な強固を持っていないとの見解が広まっています。政府の公式見解では、日本に設置された緊急避難用シェルターは有事に備えたものではありますが、恐竜絶滅を引き起こした隕石よりも大きいとされている今回の隕石を前に、安全を保証するのは難しいと』
「もうお終いですね」
「それな〜。あ、卵ねぇわ」
「ここにありますわよ。多めに用意しておきました。はい」
「あざすー。でもさー、仮に隕石に耐えられるシェルターあったとして、落下地点太平洋だろ? 次は津波とかじゃね? 知らんけど」
「確かに」
仮にのまた仮にだが、その津波に耐えたところで今度はシェルターから出られるかが怪しい。そして出たら出たで、今度は空が埃に覆われてて太陽も拝めない。そして寒くなって、食糧もなく、文明崩壊の地上を彷徨いながら恐怖に苛まれつつじわりじわりと衰弱していってやがて……。
「さっさと死んだほうがマシですわ」
わたくしはぐいっとお水を
「千鶴はシェルター行きませんの?」
わたくしはなんとなくで聞いてみた。けど声に出してから思ったが、もし行く気があるならここでコンロ囲んですき焼きなんてするわけがないのだ。
「おいおい、行くわけないだろ。てかあれ聞いて行くやついる?」
案の定だった。
「ん〜いるのでは? 現に街に人いませんもの」
「説得力ある〜」
「ほんの少しでも望みがあるのなら、ですよ」
今この街は閑散としている。
ここは都市部で人口だって多く、郊外から通勤者も流入してくる地域ではあるが、今は見る影もない。一時間ですれ違う人や車を数えるのには片手で事足りる。きっと多くの人が一縷の望みに縋ってシェルターに向かったか、帰郷して血縁者と静かにそのときを待つかのどちらかだろう。
「私は親の実家とかどーでもいいし、死ぬならあっさり死にたいし。ここで気ままに生きて気ままに死ぬわ。それのが楽しいじゃん?」
自由奔放な思考回路が、うわ不良だなぁ、って思う。けどそれがなんだか羨ましく思えるのもまた事実だった。
わたくしにはできなかった生き方。
澄凰の後継ぎ
それでも、同じ令嬢である千鶴を見るとなんだかやるせない気持ちになってしまう。こんな心情が親に知れたらきっと数時間のマインド研修だ。
『超巨大隕石の衝突予測を受けて、当番組の放送も今回をもちまして最後といたします。残念ながらこの隕石衝突を避ける術はありません……』
本来淡々と情報を読み上げることが仕事のはずのキャスターは、今日だけはその悲壮とも無念とも捉えられる感情を抑えることができずにいた。
とても悲しそう……。
こんな人間史の終わり方は、実際に悲しくて哀しいことなんだろう。
だけど私はどこか違う。
まるで目が覚めたら知らない人の葬式に紛れていて、周りの人は辛そうだけど私に取っては棺に入ってる人なんて赤の他人だから、心の底には響かなくて……。そんな気分でこのニュースを受け止めていた。
私だって当事者なのに、当事者意識は全然無い。
『悔いの残らぬよう、家族や大切な人と最後の時間を……お過ごしください。……よい終末を』
その言葉を最後に、画面はブラックアウト。そして中央に『現在このチャンネルは放送されていません。』というアナウンスが無機質に浮かぶのみだ。
「はははっ、家族だって。
ばーん、と人差し指を跳ね上げるとコメディ映画でケラケラ笑う観客みたいに膝を叩いた。
そんなに面白いかしら。
「キャスターさんは大切な人って言ってましたけど、千鶴にはそういう方いませんの? 好きな人とか」
この話の振り方、恋バナみたい。JKしてます。
「んーいるっちゃぁいるけど……」
千鶴はクタクタになった白菜を自分の皿に運びながら口を開いた。
「ほう……」
こう言ってはなんだが少し意外だ。いや、とてつもなく意外だ。
てっきり夜中に屋敷を抜け出しては街の不良らとつるんでばっかりだと勝手に思っていたので、誰かに恋心を抱いてるのはギャップを感じる。彼女のことはなにも知らないけれど、今は遊んでるほうがいいぜ! みたいなタイプかと想像していた。
「会いにいったりしませんの? 最期ですのよ」
「えー気が向いたらかなぁ。行けたら行くわ」
「世間ではそれは行かないという意味らしいですね」
でもやっぱり恋に本気ではないみたい。
「まぁ実際難しいのよ。だって私こういうタイプじゃん」
千鶴は自分の襟を引っ張って示す。
「それに無駄に金持ちだし。名家の不良とか、中古屋で謎にめっちゃ安く売られてる最新ゲーム機みたいじゃん」
「……?」
「一見良物件かもしれないけど、どんなトラブル持ってるか分からないってことよ」
その例えはちょっとよく理解できなかったけど、彼女も彼女なりに思うところがあるのだろう。千鶴の乙女な一面が垣間見えた気がする。
「でも私だって恋には憧れるさ。思春期だし。アオハルしてー」
「青春から逸れた道歩いてるのはあなたですけどね」
「そういう澄凰サンは浮いた話ねぇの? あの澄凰財閥の御令嬢にスキャンダルとか」
人の不幸でご飯食べてるような表情で見つめられても困る。食べ物なら目の前にごまんとあるのに。
「ご期待に添えなくて申し訳ないですが、一切無いですね。未来があるとするならば、親が決めた好きでもない相手と結ばれていたのではないでしょうか」
「おーよくあるやつだ。でもそれから逃げちゃって、本当に好きな別の人と駆け落ちしちゃうのもいいシチュだよね。てかそんな話の劇あったわ」
でもこうして大人に近くなってからは……誰かを好きになったことあったかしら。
恋愛する暇がそもそも無かった。まぁあったとしても親からとやかく口出しされたのだろう。
「……恋愛話好きなんですね」
「私を人外だと思ってる?」
「人道からは外れてそう」
「ちくちく言葉ねそれ」
「じゃあ私の初恋の話でもお聞きになります? 小学一年生のとき」
「おお! ちっちゃい子の恋愛可愛いよな。覚えたての文字で書いたお手紙とか。もう最近愛憎入り混じる大人の恋愛しか見とらんから、ピュアなの欲しいわ。カモン」
「小学生のとき、一時的に同じ小学校に通うことになった男の子が海外車の大手メーカーの一人息子でして、当時の澄凰グループは車の世界シェアの拡大を狙っており——」
「待って、全然ピュアじゃない。汚ねぇ匂いしかしない。最悪だ」
駄弁りながら食事をすれば、鍋の中の具材ももう少ない。それに反比例してわたくしの胃袋は8割くらい埋まっていた。
「よぉーし、
「…………死ね?」
「きょとんとしながら物騒なこと言うな」
そう聞こえたんですもの。
「え、知らないの?」
「知らないです」
「おいおい、これだから金持ちは……」
今日何度目かの、あなたもでは、という言葉は横に置いといてまたわたくしの知らない言葉だ。
「〆っていうのは、鍋とかすき焼きの余ったつゆに、麺とかご飯とかぶち込んで余すところなく食べるぞっていう……うん、お嬢様はやらないなこれ。自分で言ってて思ったわ」
だからあなたも……。
「申し出はありがたいのですが、わたくしもうお腹いっぱい……」
「はぁ⁉︎ 〆いかないとか無礼だぞ。行けるって別腹別腹。はい食べよーねー」
「〆ハラ……」
半ば無理矢理食べさせられたのだが、果たしてこれがまた美味しかった。満腹気味だったのにつるりと収まってしまう。まさに別腹だった。
ふーむ、また美味なるものを知ってしまいました。
そんな感じで余すところなく完食して、わたくしは大満足。千鶴もご満悦でお腹を掻きながらL字ソファにぐでんとしていた。そんな格好でいられると頼りないミニスカートから伸びる細い脚が目立って、ついつい視線が吸われてしまうのだった。
充満から来る居心地のいい倦怠感に身を任せて天井を眺める。今気づいたが天井には西洋絵画が描かれていた。タイトルまでは覚えていないが、大きな貝殻の中に長髪の女性が佇んでいる有名なやつ。
「………………」
あらいけない。眠気まで来ちゃいましたわ。
ぺちん、と頬を張る。
寝るならちゃんとしませんと。寝支度寝支度。
思い立ったら即行動。このままだと永遠にだらけてしまう。ただでさえ最近怠惰になりつつあるのに。
「ごちそうさま。さて……」
食材に感謝を込めて手を合わせてから立ち上がる。
「んぉ」
その音で千鶴が呑気に顔を向けてきた。
「どっか行くん?」
「ええ。千鶴ありがとうございました。それじゃわたくし死んできますね」
「おー行ってら。………………はぁ⁉︎」
千鶴はタイムラグ付きの大きな声を上げてソファから転げ落ちてしまった。実に騒がしい。そして今にも部屋を出ようとする私に迫る。
「なぁにその! おしっこ行ってくるわみたいなノリで自殺宣言してんの⁉︎」
「まぁはしたない。お花摘みと言ったほうが上品ですよ」
「いやその理論だと死んでくるもどうかと思うけどな⁉︎」
「ふむ……確かに。では、わたくしが最期にみせるのは代代受け継いだ未来にたくすツェペ——」
「シィィィィィィィィィz——ってそれは波紋使いさん! てかそれは知ってるのなんで⁉︎ フツーに知らなそう!」
「日本のコンテンツ産業は世界に食い込んでいますから、有名どころはおさえるようにとの指示を受けて最近まで視聴してました。二部が好きです」
「分かる! いいよな二部! あの主人公の終始おちゃらけた雰囲気醸しながら、実は人間としてアツくてって違うっ! そうじゃない!」
かぶりを振って全身で訴えかけてくる千鶴にわたくしはきょとんとしながら相対するばかりだった。
「どうしたのです? そんなに興奮して」
「いや、さっきまで一緒に楽しく飯食ってたやつが急に死ぬとか言いだしたらこうもなるわ」
「なぜです? わたくしとあなたはクラスメイトではあっても、決して親交の深い友人ではないと思っていますし……。それにご自身のお父上を
「あーうん、それはそうだ。すごい正論パンチ」
わたくしが今ここで生きようが命を投げ捨てようが、彼女にとっては蟻一匹の生死と同じだろう。未だかつてわたくしたちの人生は交わることがなかったのだから。
「まぁ殺しのことは置いといて、なんか嫌じゃね? 想像してみなよ。たった今まで一緒にいた人が死ぬの。こう……寝覚めが悪いっていうか……もやもやするっていうか……」
そこまで話すと千鶴は続きが継げなくなったようで、自分の意思を示せるようなうまい言い回しを、あーとかうーんとか
「え、なにしてんの」
「あぁお構いなく。考えてていいですよ。ロープの準備をしてるだけですわ」
「構うね。こぞって構うね。構いまくる」
ロープを掴んだ手は戻されてしまった。
「本当に大丈夫ですよ。これくらいわたくし一人でもできますから。ちゃんと予習済みです」
ロープを取り出す。
「
ロープを戻される。
「首吊れるちょうどいい場所はありますか? わたくしがぶら下がっても問題ないくらいの頑丈なところ。さっきのシャンデリアとか?」
取り出す。
「人んちのインテリアに悪趣味な飾りつけしようとするな」
戻される。
「まぁ! わたくしの存在が悪趣味と?」
出。
「おめぇじゃねぇよ! 死体がだよ!」
戻。
「もうよく分かりませんわ! いったい全体なにが気に食わないのか……あ!」
ぴこーん!
「な、なななに、どした? 急に全身が真っ赤になって爆発するとかやめてな」
思わず鯉のように口を丸めて突き出してしまった。
なるほど、そういうことでしたか。よぉく考えれば、簡単なことでしたね。
「ようやく納得できましたわ、あなたがそう必死になる理由」
「おぉ、マジ?」
「はい、首吊りって体の筋肉が全部緩むから排泄物が垂れ流しになるんですよね。確かに自分の家で汚物まみれで死なれたら誰でも」
「こっちおいで。ゆっくり話そう」
「あーれー」
結局私は引きずられるように戻されるのだった。
もう、正解が分かりません。
「よし、じゃあ千鶴さんに話してみなさい。はいそこ、ロープ結ぶな」
食器がまだ広げたままのテーブルでわたくしたちはまた向かいあう。けれどさっきまでのパーティムードはどこへやら。
「で、どうしてそんなに死にたいの? 家燃えたから?」
こうして面と向かいながらこの話題をすると、千鶴がカウンセラーのように思えてくる。ヤンキーカウンセラー。
「別にそれは気にしてません。時間の問題でしたし。死にたいのは……」
簡単にできるはずの固結びに失敗してロープがしゅるりと逃げ出した。
言い淀む。
言葉にしようとすると、
「疲れてしまったからです……」
弱々しく千鶴に微笑みかけた。
「っていうのは……」
「おや、知らないとは言わないですよね。同じクラスの学友ではありませんか。あなたは……いやもうほとんどの人の知るところです」
わたくしは立ち上がるとテレビ台の隅に置かれていた新聞の山に手を伸ばす。きっと千鶴の父が読んでいたものだろう。わたくしの両親がそうしていたように資産家にとって情報は時流を掴む
目当てのものを見つけるとわたくしは彼女のほうへ放った。
その表紙の大見出し。
『澄凰財閥 非人道的事業が判明』
「あぁ……」
千鶴はやっぱりと言いたげな苦い顔を浮かべる。
「生産、流通、経済、インフラ、エンターテイメント。今や澄凰の息のかかっていない分野を見つけるほうが難しい。世界を股にかける一大グループ。澄凰財閥のイメージといえばこんなところでしょう?」
「ああ」
江戸時代に端を発する澄凰の商いは卓越した知略と先見の明をもって成長を続けており、今や日本が誇る多国籍企業として
これだけ聞けば巨大グループのサクセスストーリーの一幕だ。しかし大人のやることが綺麗事だけなわけがない。さっきの恋バナで千鶴が言ったように大人の世界は汚い匂いで満ち満ちていて、ピュアなんて幻想だ。
「それは表の顔。殺し、人身売買、密輸、麻薬、民間軍事、ライバル潰し。金になることなら文字通りなんでもやる。金になるなら汚れ仕事も喜んで。金の亡者、それが澄凰の本当の顔よ。はい、次」
私は鼻をつんと上げて千鶴に二部目の、2日後の新聞をめくるように促した。
『澄凰夫妻殺害される 海外マフィアの関与か』
「それだけ金に執着すれば、買う恨みもそれはそれは相当。その結果がご覧の通りよ。我が親ながら愚か極まりないですね」
澄凰財閥は表向きの事業と同じかそれ以上のリソースを割いて隠蔽工作を
多くの人がそんなわけと一笑に付すだろう。
そんなの映画の世界だろうと。
しかしそれができてしまうのが澄凰財閥なのだ。
だったのだ。
真実は幾人の流血を伴って明るみになった。動乱とも形容できる告発が行われたのだ。まだ良心を残していた末端の人間が、世界各支部を同時多発的に攻撃、占拠した後、ライブ配信で澄凰財閥の影を照らした。聴衆は半信半疑だったが、クーデター側と企業側の犠牲者が増えるにつれてそれは現実味を帯びてくる。まさしく真っ赤な鮮血で洗い出され、陽の目を浴びたのだ。
そして血は新たな血の呼び水となる。
財閥を揺るがす出来事に乗じたのだろう。新聞の報じる通り、澄凰に手痛い仕打ちを受けてきた何者かの差し金によって、ちょうど海外に滞在していた両親は惨殺された。あの財閥当主の命だ。殺しの報酬は相当に違いない。
人の命で富を築いた者が、その命を金で狙われる。実に皮肉な最後ですわね。どういう気分かしらお母様、お父様。
唾の一つでも吐きながら聞いてみたい。
そんな下品な真似なんてただの一度もしたことないが、初めての「お行儀悪い」なら、この二人に向けるには適当だろう。上品は両親に刷り込まれたものだから、今から反抗期とやらをやってみても面白いし、それに……。
この二人のせいで、受け継いだこの姓でわたくしの人生はぐちゃぐちゃにされたのですから。
「澄凰財閥の評価は超一流企業から悪徳企業へひっくり返すように変貌して、澄凰は悪名として世界に轟いたのです。そしてもちろん澄凰の姓を持つこのわたくしも。ね?」
わたくしは千鶴の目を射抜くように見つめた。すると彼女はばつの悪そうに伏し目がちになる。
知っている。だってわたくしのクラスメイトですから。
「見てきたよ。学校のクソみたいなやつらが澄凰サンに嫌がらせしてんの」
普通の人にとってはテレビの向こうの世界の話かもしれない。しかしわたくしが通う学校の人たちにとってはそうはいかない。なぜならテレビの中の澄凰の娘がすぐそこにいるのだから。
事業の報道の次の日から全てが一変した。
「ごぎげんよう」
「……」
挨拶しても誰も目を合わそうとしない。教室でも廊下でも部活でも。昨日まで親しく談笑してくれた友人の誰もがわたくしの側に寄らない。遠巻きからひそひそと聞こえる話し声の全てがわたくしを話題にしていた。
次の日からいじめが始まった。
懲悪せんとわたくしを共通の敵に据えて嫌悪の視線を浴びせてきた。力と勇気を持つ者は直接罵声や暴力を振るったし、それ以外の者は見て見ぬふりを決め込む。見て見ぬふりと言ってもそこから感じる「ざまあ見ろ」という意識はひしひしと伝わってきた。
わたくしは悪者だった。
「金持ちだからって調子になりやがって」
「クソ外道が」
「だって悪いことしてきたんでしょ」
「そんな人だと思わなかった。サイテー」
初めて身に受けた罵詈雑言の数々。
「だってニュースを見たらねぇ……。みんなそう思うでしょ。仕方ないっていうか……」
教師だって味方はしてくれなかった。正面から向かってくることはなかったこそすれ、胸中は生徒と同じだろう。いや、生徒よりも社会を生きている分、憎さは数倍かもしれない。
「でも……澄凰サンはニュースが言ってるようなことには関係してないんだろ?」
千鶴はそう確かめるように尋ねた。その瞳は揺らいでいる。
「わたくし夕鶴羽が関わっているかは問題ではありません。人々にとっては澄凰の姓を持つ人間が問題なのです」
人間とは至って単純な生き物で、周りが悪だと叫べば、自身に関係性が無くてもその人にとっての悪となる。そして悪を糾弾することで自分は善の立場にいることを欲するのだ。
澄凰は悪。澄凰は悪。
わたくしから夕鶴羽という認識は除かれ、「澄凰」という敵を示す記号しか残らない。
「わたくしは知らない!」
そう声高に言いたかった。
事実わたくしは財閥の事業になにも携わっていないし、どんなことをして利益を得ているかも一般人と同程度しか認知していなかった。
いわゆる綺麗な部分だけだ。
両親はまだ歳若いわたくしを、財閥の全てを知るには足り得ないと判断していたのかもしれない。
従ってあの報道は私にとっても、今まで吸ってきた空気を疑うかのように衝撃だったのだ。
だが反論の言葉は吐けなかった。反論する口も、それを考える頭も、わたくしの体は澄凰が稼いだ金でできている。他者を犠牲にした金で生まれ、育ち、ここにいるのだ。
わたくしは即ち凶行の結晶。
そんな人間がなにを言えるというのだろうか。
「そして次が澄凰の呪い。先ほど外でお話した通りです」
やがてわたくしに危害を加える者には不幸が見舞うという噂がまことしやかに囁かれはじめる。
「わたくしが風の噂で聞いた話ですと、階段から落ちて大怪我とか交通事故とか急な体の異変とか……。この前突然辞められた先生は身内に不幸があったとも言われてますわね」
その全員が直接ないし間接的にわたくしに仇をなした人だとも聞いている。
噂が過度に脚色され独り歩きすれば、わたくしは自ずと孤立していった。
澄凰には近づかないほうがいい。
きっと殺された両親が怨霊になっている。
触らぬ神に祟りなし。
わたくしは呪物のような扱いで避けられ続けた。
顔も見られない。
近づかれない。
話しかけられない。
答えてくれない。
居場所なんてない。
ない。ない。ない。ない。ない。
わたくしの存在は。
ない。
「親に裏切られ、虐げられて、見向きもされず……。そうして考えるのも嫌になって。こんな絵に描いたような絶望の中のどこに生きる意味があるのでしょうか。さっさと幕引きにしたほうが楽。そう思いませんこと?」
「……だから死ぬのか」
「そういうこと」
私は苦しみから解放される安楽の笑顔でそう返した。
「それにどうせ皆さん隕石で死ぬのです。もう早く死んでも遅く死んでも同じでしょう」
そして3日前、告発から6日後、両親殺害からちょうど4日後だ。
突如巨大隕石が捉えられた。
突然としか言いようがないらしい。宇宙の観測網の内側にいつの間かあったとのことだ。
人類の終わりの知らせとしては理不尽なことこの上ないが、そのおかげで澄凰財閥のスキャンダルはさっさと時流から追い出された。どんなに驚愕ニュースでも、人類滅亡の前では可愛いペット特集くらいの注目度しかないのだ。
それでもわたくしの胸深くに根を張って、なにもかもを無にしてしまう深淵のような失意は別問題。
隕石来訪には感謝している。何事もなく世界が進んでいたらわたくしは自分の生命を絶つ勇気があったか怪しい。いくら英才教育が施されても、痛みや
頼れる人もいないし、財閥ご自慢の資産も差し押さえ待ったなし。そんな悲嘆に暮れながらも死ぬ意気込みもない中途半端な存在として苦しみ続けている未来を想像したら、隕石にありがとうの一言も言いたくなる。誰にも平等に死のタイマーを設定してくれたおかげで気が楽になったのだから。
どうせみんな死ぬ。
それはいつかはとか寿命の話ではなくて、差し迫って7日後なのだ。これは紛れもない事実だった。
「これでわたくしのお話はお終い」
「重ね重ねお礼申し上げます。あなたとの食事、最後の晩餐に相応しい愉快なものでしたわ。それではよい終末を」
外なら汚してもいいかしらね。
そう思いながら満足いく死に場所を求めて部屋の出口へ向かった。もうここに用はない。
しかしその意に反してわたくしの腕は引っ張られ、叶わない。
振り返ると千鶴がわたくしの手首を握っている。
「さっきさ、早く死んでも遅く死んでも同じって言ったよな」
低い声でそう呟く様子はなんだが本職っぽかった。
「ええ」
「だったらあと……今日入れて7日か。あと7日間私にちょーだいよ」
「……わたくしにまだ生きろと?」
それは、まだ苦しめと言いたいの? という確認を言外に匂わす。
「そうだ。なんつーかさ……私一人じゃ寂しいんだよ」
千鶴は自嘲気味な表情をした。
「母親はとっくの昔にいねぇし、父親はなんだか知んねぇけどくたばったし。ツルんでたやつらいなくなったし」
「少なくとも一つはあなたの仕業ですけど」
「ははっ。まぁ、私は……こんなどうしようもねぇ世界だけど、もう少し生きてたいなって思ってる。しがらみとか周りへの配慮とか取っ払って好き勝手できる機会なんて最初で最後だろ。最高だと思わない?」
今でも好き勝手してそう……。
「だからそれの道連れっていう感じ。さっきのすき焼きと一緒。一人より二人のがおもしーじゃん」
千鶴視点だったらその考え方は妥当だろう。だがわたくしの自分語りはちゃんと聞いたはずだ。
「でもそれってエゴですよね? あなたの。わたくしが生きてるだけで苦しいって言ってますのに、自分一人じゃ嫌だからって生かすの、おかしくありませんか?」
「それは……」
理路整然と放った言葉にわたくしを繋ぐ手の力が少し緩まった。
この隙に振り払ってしまいなさい。
わたくしがわたくしに命ずる。
わたくしはもういいのです。
このまますんなり逝けたほうが——。
「私が楽しい思いさせてやる! それも初めての!」
目を見開いた。
千鶴の決した意を堂々と書き殴ったような面構えに。
「コンビニのから揚げだって卓上コンロでやるすき焼きパーティだって、澄凰サンにとっちゃ初めてで新鮮だろ。そういうのを私が色々教えて、嫌なこと塗り替えて、今までの悪運がアホみたいになるくらい笑わせてやるよ。死ぬんだったら暗い気持ちじゃなくて、人生満喫してから明るく逝こうぜ」
言ってる言葉は安っぽいけど、その分余計なものが無くてストレートに飛び込んでくる。
「でもわたくしは……」
「一度は捨てたその命、私に賭けてみない? 元より捨てちまうものなんだから減るもんじゃないだろ。その賭け分、超絶でっかくして返してやる」
この人は、どうしてこんなにも自信満々にそんなこと言えるの?
根拠なんてどこにもない、正直でまかせに過ぎないだろう。
だけど今まで投げかけられたどんな言葉よりも、わたくしに刺さっている。
散々ぶつけられた言葉のナイフから心を守るため、過度に傷つくことを恐れて閉ざし切ったわたくしの胸の内。
強固な守りを築いたそれが今、千鶴の安っぽい言葉で脈動している。
さっきのパーティは楽しかった。
ただ栄養を摂取するためだけに、あり物を口に運ぶだけに成り果てていた食事。
だけどお喋りして、くだらないことで笑って、味に酔いしれて。
別段特別に優れた料理ではない。
けれどそこに楽しいなんて感情はいつぶりに抱いただろう。
わたくしが笑顔になったのはいつぶり?
きっとそれはわたくし一人では到達できなかった場所だ。
そしてこの先忘れていたもの、あるいはまだ知らないものに触れていくことができるなら……?
黙っている間、彼女はわたくしから1ミリも顔をずらさなかった。
こんなにも……。
敵意ではない、こんなにも透き通った眼差しだってわたくしは知らない。
きつく閉ざしたカーテンの隙間から差し込む陽光のように、わたくしの中にスッと入り込んでくる。真っ暗だった気持ちをほんの僅かだが照らしてくれる。カーテンの向こうに駆け出すための気力はまだないけど、覗いてみたくはなってしまう。
掴まれた手首はもう弱くない。
あぁ困ってしまう……。
わたくしは今生きることに一瞬興味が湧いてしまった。
しつこくへばりついた
「それに、澄凰がどうだって難癖つけて突っかかってくるやつももういないだろ。こんなご時世に。だからこっから悪くはなんねー」
「そう……ですわね……」
「いたらいたで、私がぶちのめすわ。ケンカも嗜んでるんで」
掴んだ手を離すとシュッシュとシャドウボクシングを披露してくれる。確かに身のこなしにキレはある。
ま、死ぬのはいつでもいいでしょう。
死にたくなったらそのときまた首を括ればいいだけの話だ。わたくしは今良くも悪くも自由なのだ。束縛されていた人生とは違って爪先の向きは自分で決められる。
自由……。
いい響きですわね。
わたくしはちょうど頭くらいだったロープの輪っかを閉じた。
「いいですわ。寝食のお礼だと思って余生とやらに付き合ってあげます。わたくしを死なせないように精進なさい」
「随分と偉そうなことで」
「あら、あなたの望みでしょう。今から気が変わってもおかしくないわよ」
わたくしが親指でシュッと首切りをして見せると千鶴はやれやれといった様子で息を吐く。
「はいはい。分かりましたよお嬢様」
「あなたもお嬢様でしょうに」
「私はそんなもんじゃね。ただの不良娘だよ。そんじゃどこで寝る? 部屋なんて売るほどあるから好きなの選びな」
「それでは内覧と行きましょ。ご案内お願いします。できればお部屋は……」
こうしてわたくしは捨てかけた命をしまいなおしてもう少しだけ生きてみることにした。
わたくしみたいな小さな者の灯火が輝いてたって世界は変わらない。隕石だって落ちてくる。澄凰の姓を持って、人間界で幅を利かせていたって、宇宙からすればごくごく小さな存在なのだ。
けれど千鶴はこの
長い廊下の途中、外を覗けば、暗黒の中にぽつんと白い月が浮かんでいるのが分かる。
愉快な生活が待っているか、さらなる地獄が続くか。
どちらに転んだとしても。
どうせ皆死ぬのです。
変わりゆく世界、変わらない君 私が死ぬまでの7日間 トッチー @Toccy520
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