幸せな負け (聡子の場合)

帆尊歩

第1話 聡子の負け


前の会社に入社したときの写真が出てきた。

そこには邦子が私と共に映っている。

まだ二十二歳だ。

あの頃の女子社員は制服だった。

他の大勢の女子社員は結婚するまでの腰乗せだったが、邦子は違った。

私と本気で会社を変えようとしていた。

あの時の私と邦子は同士だったのだ。


「ああ、何ですかこの写真」片腕の河野が言ってくる。

前の会社から引き連れてきた部下だ。

河野を連れてきたときは、一番有能な人間を連れて行ったと相当に言われたが、何とか納めた。

おかげで前の会社から連れて来れたのは彼だけだったが、まあ彼の優秀さを考えれば彼だけでも十分だ。


「私が入社したときの写真よ」

「ええー、部長にもこんな可愛い時があったんですね、何だか初々しいな」

「けんか売っているのか」

「いえいえ、でも僕が入ったとき、部長、制服着ていませんでしたよね」

「すぐなくさせたから」

「部長がさせたんですか?」

「違うよ、横にいる邦子が言い出したの。思えば会社を変えようとした戦いの宣戦布告だった、二人で戦ったのよ」

「なんだ、戦う女は、昔からだったんですね」

「発展性がないって」

「そんなこと言いませんよ。ああ、そんな事言いに来たんじゃ無いですよ。初取締会、遅れますよ」

「ああそうね。どうせ、社外取締役なんかお飾りだからて、言われちゃうからね」


二年前にこの会社を立ち上げた。

最近軌道に乗ってきたが、始めたときは大変だった。

元業界最大手の部長だったという肩書きがあっても、取引先に行けば、どうしても代表が女か、と言うと空気は拭い去れない。

元取引先を回っても私が社長です、と言うとあからさまに軽く見てくる。

所詮業界最大手の肩書きが大きかったと、思い知らされることになる。

あんなに良い関係を構築したつもりになっていたのに。

苦肉の策が社長でありながら、営業部長と書かれた名刺だ。

そのせいで河野はわたしのことを部長と呼ぶ。

部長と呼ばれる社長なのだ。

言うなれば、私は代表取締役部長と言うことになる。

今日は頼まれた社外取締役としての初取締役会だった。


私は成功者だ。

年収も一応二千万くらいに抑えているが、株やその他で資産は十億に近い。

車の中でもう一度写真を見る。

邦子は同期入社で上を目指そうと誓い合った仲だ。

でも邦子は入社十年目で会社を寿退社した。

私としてそれは裏切りに他ならなかった。

男社会を生き抜くサバイバーとして同士だったはずなのに。


私は何とか部長にまでなれた。

でもここで頭打ちだ。

明らかに私より仕事の出来ないやつが役員になっていった。

五十五で役職定年と言う暗黙のルールがあったので、五十五までに役員になれなければ、役職を外される。

五十四になったとき、どう考えても会社は私を役員にする気がないんだなと見切りをつけて今の会社を立ち上げた。

業績は順調で、その実績を買われて、社外取締役を頼まれた。

今日はその初取締役会の日だった。

今でこそ順調だが、順風満帆とはいえなかった。

打ちのめされることや、女と言うだけで不利益を被ることも日常茶飯事だった。

営業用に部長という肩書きの名刺を作ったのがいい例だ。

それでも世間的に見れば私は成功者だ。

でも写真の中の二十二歳の邦子を見ると負けたのかなと思う。

この調子なら、一生独身だろう。

遊ぶことも、旅行すらしたことがない。

出張は数限りなくこなしが、その時、時間を見つけて観光でもすれば、とよく言われたが、そんな時間があれば会社に戻って管轄するプロジェクトの進捗の確認をしようと思っていた。

そのために私は何を犠牲にした。

何を?

いや何を、ではない。

全てだ。

たった一回しかない人生の全てを犠牲にした。


聡子。結婚する。もう無理だ。

聡子。新婚旅行、ヨーロッパ、ドイツ、フランス、行って来たよ。

聡子。子供が生まれたよ、もう子育ては戦争だよ

聡子。旦那と子供三人で温泉いってきたよ。

聡子。二人目の子供生まれたよ。

聡子。上の子が小学校にはいった。下の子も保育園。

聡子。子供の部活が大変だよ。

聡子。上の子が高校に入ったよ。

聡子。下の子も高校に入ったよ。

聡子。上の子が大学に入ったよ。

聡子。子供が就職したよ。

聡子。子供が結婚したよ。

聡子。孫が出来たよ。

聡子。孫の世話が大変だよ。


連絡だけは取り合っていた邦子からは事あるごとに連絡を受けた。

本来私にもあったはずのそうした人生の全てを、私は放棄した。

でもそのせいで今の地位がある。

それは幸せなことなのだろう。

でも私は邦子に負けたのか。

たった一回の人生なのに。

幸せを全て放棄して。

邦子は全てを手に入れて、私は失うどころか、手にすることもなかった。


「社長、つきました」

「はい、ありがとう」私は車を降りた。

取締役会担当の総務部員が、私を見つけてよってきた。

深々と頭を下げる総務部員をみて。

私は邦子に負けたけれど、今は幸せだと自分に言い聞かせる。

これは幸せな負けなんだと。

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幸せな負け (聡子の場合) 帆尊歩 @hosonayumu

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