第66話 日常


「山中、お前なんでいまさら文字式の引き算なんぞ間違った?」

「雑念が入りました。申し訳ない」

 山中が数学の教師に頭を下げる。


 数学しかできない山中が、すでに高3レベルをクリアしている山中が、三学期の定期試験でいきなりやらかせば先生だって不安になるだろう。答案用紙を返しながら、どうしても一言言いたくなったのだろう。

「なんで、8a−3aが5aにならないんだ?」

「だって、2組の八木から6組の三木を引いたからって、うちのクラスの五木いつきにはならないでしょう?」

「は?」

 数学教師は絶句し、そこへ佐々木が追い打ちを掛けた。


「五木にはならないが、ゴキブリにはなるな」

「うん、五木ごきだけに」

「だまれ、新村!」

 五木が立ち上がって叫び、数学教師は自分の目頭を揉んだ。たぶん、頭痛がしてきたのだろう。


「あのな、数学と文字式が成立しそうな苗字を混同するな」

 軽く説教して逃げようという魂胆だろう。このまま不毛な議論に巻き込まれたら、今日の四時間目のこの授業への雰囲気は水のように流れてしまう。流れたら試験も終わった三学期、生徒は全員堂々とエスケープするだろう。

 卒業式まで1週間を切っている。できうる限り生徒は管理下に置けと、他県出身の校長は職員室で無理難題を命じている。これはもう、板挟みである。


「……どうしても、八木引く三木は、五木とは違う気がしてしまって」

「違わないから。絶対違わないから」

 そう力説しながら、数学の教師は自分の言葉に不安そうな顔になった。それはそうだ。現実問題として、八木引く三木は、五木ではないのだから。

 その不安そうな顔の目頭には、チョークの粉がくっきりとついている。先ほど揉んだ指から移ったのだ。


「大丈夫。さすがに一富士二鷹三茄子は、項が違うから足せないのはわかっていますから」

 黒崎の追い打ちに、数学教師は天を仰いで授業の終わりを告げた。続けるの馬鹿らしくなったのだろう。山中の失点を利用し、今日は5組の面々の勝ちである。


 映画では学校にしてやられた。

 たぶん、来年もしてやられてエスケープできないだろう。

 だが、当然負けてばかりではない。

 地元オーケストラのクラシックコンサートでは、当然のように生徒側が勝った。他の大オーケストラから招聘されてきた常任指揮者は、学校教育の中のコンサートに懲り懲りしていた。今までは、どこの高校でも演奏中にもぞろぞろと生徒が出ていこうとし、それを止める教師との小競り合いの中での演奏してきた。海外でも名を知られるほどの指揮者が、それを苦行とするのは当然だ。


 それを知った政木高の生徒たちは、がっつりと予習をし、演奏曲の作曲家に対する高度な質問を用意した。イタリア語やドイツ語までそこには織り込んだのである。その成果はあからさまだった。

 彼らがあまりに理想的聴衆すぎた結果、その指揮者は感動してステージ上で泣き出してしまったのだ。まぁ、無理もない。5万円だ、10万円だのチケット料金のコンサートの観客と同等の理解とマナーを、しかたなくやっていたはずの高校生相手のコンサートで突然示されたのだから。


 もちろん、教養としての音楽の知識を身に着けるのは悪いことではない。世界に拓けているような外部の人物に対して、学校の評価が上がることも大歓迎だ。

 そしてもう1つ重要なことがある。

 外部イベントでここまでの評価を得ていれば、こういうときにエスケープし放題である。


 つまり、通称、「良い子のレッテル」である。なにをしようと、「本当はいい子だから」と大目に見て貰える。Win-Winとは、こういうことを言うのだ。

 これが一旦逆になり、「悪い子のレッテル」を貼られると、どんないいことをしても「なにを考えているのやら」と言われてしまうのである。

 そろそろ2年生になる彼らは、そういった駆け引きの高度なパフォーマンス力も身につけていた。


 ※

 彼らも、あと1月で上級生なのだ。新しく入ってきた1年生を感化しなければならぬ立場である。そういう意味で、おのずから1年生のときと同じ日常は送れない。

 例えば、応援団の面々はたった1年で、今度は自分たちが新入生の椅子を蹴飛ばす役に回るのである。



 数学教師が教室を出ると同時に、小桜は仰木とともに3階に駆け上がった。今日は珍しく3年生が揃っているはずなのだ。

 前生徒会長の杉山と話せるのも、今日が最後だろう。あいさつくらいしておこうと、小桜と仰木は決めていた。


 3階の廊下は雑然としていた。

 3年生たちももう帰るなら帰れる。だが、やはり名残惜しくて帰れないのだろう。あれほどエスケープを繰り返してきた学校なのに、である。


「杉山先輩はいますか?」

「おう、小桜に仰木か。入れ」

 そう声を掛けてもらい、小桜と仰木は久しぶりに3年生の教室に入り……、いきなり絶句した。

 それは、黒板にでかでかと男性器が描かれていたからだ。


「なんすか、これ?」

 ようやく口を開いた仰木に杉山は答える。

「年1回の体育教師の授業だ。性教育ってヤツだな。今までエスケープを続けて誰も一度も受けなかったら、さっき奇襲でリベンジに来やがった。ったく、高校の『最後の授業』がコレだよ。ビバ〇〇〇〇。だがな、俺たちは負けない。この黒板はもう絶対拭かんぞ。学校側の誰かが拭けばいい」

 小桜は思わずため息をついた。

 変わらない。変わらないものはあまりにも変わらない。


「先輩、受験、成算は?」

 話題を変える意味もあって、小桜は聞く。

「志望校の競争率が3倍だったんだ。両脇の奴を叩き落とせば合格と思っていたんだがな……」

「……上手く行かなかったんですか?」

 仰木が心配そうに聞く。


「ああ。席が壁際でな。位置的に合格は無理だ」

 なにを言っているのか、とは思う。だが、これだけの軽口が叩けるということは、それなりに成算はあるのだろう。まぁ、後輩に弱みは見せられないというのもありはするだろうが……。


「……それはそうと、先輩、いろいろとお世話になりました」

 再び小桜は話題を変え、ここへ来た本来の目的の言葉を放つ。

「俺はなにもしていない。それどころか、先輩から引き継いだものを後輩に伝えきれなかった。今は、後悔しかないよ」

「そんなことはないです。いろいろと受け取らせていただきました」

 生徒会でもいろいろと引き継いでいるのだろう。仰木がそう答える。


「いやいや。そうは行かんだろうよ。俺は、これから生物学準備室だ。皇帝に詫びを入れないと……」

「俺たちも一緒に……」

「不要だ」

 杉山は、一言で小桜の申し出を却下した。


「俺には俺の総括がある。

 小桜と仰木にも卒業の時は来るし、その時には自分なりに総括することもあるだろう。そこに、他者を入れ込みたいか?」

「いいえ。そういうことなら。ただ、皇帝に詫びを、ということだったので……」

 仰木が、それでも心配そうに続ける。


「それは俺には立場があったからだ。総括にも私的な部分と公的な部分がある。私的な部分は自己満足でも問題ないが、公的な部分はそうもいかない。反省点は残していかないとだからな。だが、皇帝も2年後には定年退職だ。仰木、お前が生徒会長になるとしたら、なったときから自分の意を残す方法を考えないとならんぞ」

「はい」

 仰木はそう答え、杉山はその肩を叩いた。


「いいか。去りゆく者から最後に言っておく。

 純度を高めろ。ここはそれができる。純度が低いと受験は切り抜けられん。もちろん、部活も日々の生活ですらだ。大学へ行ったら、純度を高めることはできてもそこに色がのる。無色透明に純度を高めることができるのは、ここでの日常だけだ」

「……」

 小桜も仰木も返答ができない。実感がわかないのだ。


「今はわからなくても、3年生になる頃には実感できるだろうさ。じゃあな」

 そう言って杉山は立ち上がった。

「ありがとうございました」

 小桜と仰木は声を揃え、頭を下げた。



「あと2年間か……」

 階段を降りながら、仰木がつぶやく。

「日常って、こんな重い言葉だったか?」

 小桜の問いに、仰木は踊り場までの残りの数段を一気に飛び降りた。そして、小桜を見上げて答える。

「重いも軽いも、小桜次第さ」

「残り、あと2年間か……」

 小桜は、仰木のつぶやきを繰り返した。


 踊り場の窓から、生徒たちがぞろぞろと帰っていくのが見える。

 その時が来れば最後の帰宅となって生徒としての日常は終わり、その立場でここに来ることはもはやない。


「仰木」

「なんだ?」

「がんばろうな」

「いまさらなにを……」

 少したどたどしく吐き捨てる仰木の真情は、小桜に伝わっている。

 

 窓の外を眺めながら小桜は思う。

 心は身体とは違う。その一部分は決してこの母校から帰ることはないし、ここでの日常に終わりがくることもない。

 だがそれは同時に、ここでの日常を過ごした者だけのものでもあるのだ。なんと当たり前で、なんと儚いのだろう。


 年季の入った校舎に、春の日差しが惜しみなく降りそそいでいた。



  あとがき

ありがとうございました。

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或る男子高の非日常 林海 @komirin

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