終章 「輪廻」

転生者の君へ

 突き抜けるような青い空。柔らかな太陽の陽射し。生い茂った青草が優しい風に靡いて、不安で満ちた心に落ち着かせるような音を奏でた。


 ――これからどうしようか。


 頭の裏で両手を組んで草原に寝転ぶオレ。


 何度目か分からない溜息を吐き、おもむろに頭上を見上げると、凭れ掛かっていた巨大な針葉樹が根無し草のオレを笑うようにザワザワと揺れている。


 ――もうどうにでもなれ。


 そんな投げやりな気持ちで不貞腐れていると、空っぽになった頭に突然甲高い声が降り注いだ。


「あなたって、天使様なんでしょ!」


 何事かと思って閉じていた瞼を開く。すると視界全てを占領するように、大きな碧色の瞳がオレの顔を興味深そうに覗いていた。


 オレは驚いて木にへばり付くようにして後ずさる。すると品のいい白のドレスに身を包んだ同い年くらいの女の子が、好奇心一杯の顔に真っ白な歯をのぞかせてオレに笑いかける。


「ねぇ、あなた天使様なんでしょ!?」


「……え?」


 女の子は逃げ道を塞ぐように近付いて、息がかかる程の距離でオレの顔を再度覗き込む。


 ――絹糸のような綺麗な金髪。白磁のような滑らかな肌。そして宝石のように輝く大きな瞳……。


 その美しくもまだ幼い顔が突然迫ったことに、わけも分からずオレは戸惑う。


「きっとそうよ! だってあたし見たもの! あなたは空から落ちてきた! 天使みたいにフワフワ舞って、神宿りのその木に降り立ったの! だからそうに違いないわ!」


 やけに興奮している女の子。彼女は宝物を見つけたようにはしゃぎ回りながら、後ろで様子を窺う小柄な男の子にも同意を求めた。だけど白シャツに短パン姿の男の子は口を開かず、オレのことを猜疑心の篭もる眼でジッと見ていた。


「あたしには分かるの! これは運命よ! あなたが落ちぶれた我が家を苦難から救ってくれる、神様からの使いなんだって! ……ねぇ、そうでしょ!?」


「オレは――」


 記憶がない。自分が誰か分からない。どこから来たかも分からないし、帰るべき場所も分からない。


 村の人間にもそう言ったことを伝えると、女の子はそれでもめげずに、それどころか何か満足そうに頷いて、なぜかオレの隣に勢いよく座った。そして彼女は溌剌とした明るい声で、


「あなた三日前に空から落ちて来たのよ。あの日は雲ひとつない晴天だったのに、急にここの真上だけ夜みたく暗くなって、そこから白い穴がポッカリ開いて何かが落ちてきた。あたしが気付いて爺やに見に行かせたんだけど……それがあなただったってワケ」


 女の子は何か期待する目付きをしているけど、オレはその事について何も覚えていない。空から落ちた経緯も覚えていないし、どうしてここにいるのか分からない。


 だからこそオレは村中の人間に不審がられて、この村から追い出されそうなわけなんだけど……。


 そのことも包み隠さず伝えると、女の子は突然その場に立って不敵に笑った。


「あたしの名前はチェスター=グランベリ。あっちにいる小っこくて弱そうなのは弟のブラッドベリ。あの丘の上のお屋敷であたしたちは暮らしているの。それであなたの名前は?」


「オレの、名前……?」


「あなたそれも覚えてないの?」


 グランベリという女の子が表情豊かに呆れる仕草を取ると、すかさず弟のブラッドベリがやってきて何かをヒソヒソと姉に耳打ちした。


 その見るからに怪しむような態度から、どうやら弟の方はオレのことを不審者だと思っていることが分かった。だけど姉のグランベリはデコピン一発で弟の囁きを一蹴すると、益々オレに興味深げな視線を送った。


「いいわ。それじゃああたしが名付けてあげる。これから子分になるのに名前もなければ不便だものね。……そうね、ペロっていうのはどう?」


 オレは彼女の言っていることがよく分からず、別になんでもいいと思ったが、弟がなぜかそれに断固反対した。姉弟の諍いに聞き耳を立てると、どうやらそれは死んだ飼い犬の名前らしかった。可愛がっていた犬の名前をオレにあげることは許されないと、弟のブラッドベリは泣きそうな顔で姉に訴えていた。


 そして何か思い付いたのか、ブラッドベリは持っていた絵本を姉に差し出して、執拗にとあるページを見せつけた。


「……うーん。ま、そうね、それでもいいかもね」


 グランベリは弟の熱心な説得に負ける。そして置いてけぼりにされたオレに向くと、


「ねぇ、空から落ちてきた天使さん。あなたの名前はクローウェ。今日からチェスター=クローウェと名乗りなさい」


「クロー……ウェ?」


 ……どうしてだろうか。どこかで聞いたようなその名前に、オレは心の中で引っかかりを感じる。


 だけどそのとき生じた微妙な表情を命名への不服と勘違いした彼女は、弟の持っていた絵本を素早く奪い取ると、とあるページの中に描かれた不細工なキャラクターを指差して言った。


「そうよ。この外国の絵本の中で出てきた出っ歯ネズミの名前。このネズミは超が付くほどの世間知らずで大間抜けなんだけど、物語の最後には星を救って馬鹿にされてきた人間たちから英雄と呼ばれるようになるの。あたしこのネズミ好きよ。だって最初から強くてかっこいい英雄の話なんてつまらないもの」


 彼女は本を豪快に閉じると、それを投げ捨てるようにして弟に返した。弟はオレの顔を見てクスクスと笑っている。そんなにオレの顔はそのネズミに似ているのだろうか。


「クローウェ……」


 オレが何ともなしにそう呟くと、グランベリが思い出したように付け足した。


「そうそう、その名前はこっちの言葉でもう一つの意味もあるの。……えーと、たしかそれはね――」


 草原に吹きすさぶ一瞬の風。彼女は薫風にその美しい金の髪を靡かせて、その言葉を待ちかねたオレに唐突に言い放った。



 ――転げ落ちる者。



 その言葉を聞いた瞬間、オレはなぜか笑った。笑わずにはいられなかった。まるで自分自身を嘲るような、皮肉めいた一瞬の渇いた笑いだった。


「空から落ちてきたあなたにピッタリね! やっぱりあたしって良いセンスしてるわ!」


 グランベリはカラカラと笑いながら、放心していたオレの手を出し抜けに引いた。そしてくるりと振り返って草原を駆け出すと、


「行くわよ、クロ! お父様に紹介してあげる! あなたは今日から我が家で働くの!」


 オレの意思も聞かずに奉公することを決定させた。


 グランベリの手は温かい。その足取りは軽やかで力強い。まだ何の穢れも知らない彼女の天真爛漫な態度は、ざらついたオレの心をひどく和ませた。オレはそのまま彼女に引きずられるようにして、丘の上の立派なお屋敷を目指す。


「待ってくれよ、グランベリ! オレはちゃんと走れるさァ!」


 踏みしめた大地は息づいていた。茫洋たる青い空は無限に広がっていた。胸の中で脈づく確かな高揚感は、行く当てのない孤独なオレに得も言えぬ感覚を齎した。


 ――オレはこれから、何でも出来そうな気がした。

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転生者の君へ ~僕の罪科と君の罰~ 亀男 @saei0425

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