副流煙

夏目有紗

副流煙

「初めまして、ナノハと申します。よろしくお願いします」

 その名前が本名なのかはたまた芸名なのかはサークル長や勧誘に関わった数名しか知らない。俺は少なくとも知らない。

 彼女の第一印象は小綺麗にした最近のギャルって感じだった。最近のギャルらしく派手な髪ではないものの、黒茶系に染めた髪、丁寧に塗られた化粧、小洒落たセクシー系のパーカーに短パン。何より挑戦的な紅い唇が好みドストライクであった。とはいえ自分の好みが完全に遊びがちな女性であることも分かっていたし、彼女にするにはちょっと向いてないな、と。勿論、彼女にするなら一途で真面目な子が良いし、外見ギャルの中身真面目だなんて都合の良い話も無い。故に交わるのであれば遊び相手としてだと即座に理解した。女性を遊び相手か否かで判別する頭の回転率の速さが自分の女に手を出す速さも物語っていた。ヒモ先輩、といつの間にやらサークル内でつけられた渾名もやけに自分自身納得してしまっているあたり、救いようがないクズである。クズと呼ばれないのはサークルが演劇サークルというちょっと変わった人が集まりやすい、それも遊び人が集う下北沢という土地柄なのだからだろう。

 小さな会議室にパチパチパチパチと手拍子の音が賑やかに鳴る。新しい演劇サークルのメンバー発表。演劇サークルらしく大袈裟にみんな喜んでいる。数日もすれば全員示し合わせたように冷静になるのだから演劇サークルというものは面白おかしい。その宴から脱落しないよう自分も笑顔を作ってみせた。


 副流煙が好きだ。鼻に薫る、どこか背徳的な香り。自分で吸うのも好きだが、喫煙室の中、周りが吸っているのを嗅いで密かに銘柄を当てて楽しんでいる。絶対自分は長生きしない。

「先輩、もう少し臭い落としてから来てくださいよ」

 会議室、柔軟体操をしながら後輩の御堂が顔を顰めている。真面目な彼女はタバコが嫌いらしい。タバコが嫌いな割に自分に向ける視線がたまに熱がこもっていることにきっと彼女は気づいていない。そう、彼女にするならこういう子。でも遊べるような軽い相手ではないから気づかないふりして気持ちだけ繋ぎ止める。

「ごめんごめん」

 笑みを作ると、ぷいっと彼女は拗ねたように顔をそらす。その耳が少し赤い。俺は俺の顔面の強さを知っている。


 ある日の練習後の帰り道、話題のニューフェイス、ナノハと一緒になった。男を挑発するような、お腹がチラリと覗く服。

「この後飲みに行こう?」

 極めて紳士的に会話を進めてからお決まりの台詞に落とし込んでいく。飲んで、酔って、終電逃して。

 そのうちサークルから出禁を食らうのではと思うくらいには遊んでいる。残念ながら、サークルの収入源の多くは自分のセフレ達であるからサークル長も強く注意できないし、表立って事を起こしてるわけでもないから追い出すのも躊躇するらしい。

「はい」

 ナノハは軽やかに笑う。紅い唇が夜に映えていた。


 ナノハは二軒目の居酒屋あたりから上機嫌になり、一杯飲むごとにキスしてあげると言い出した。

「ほら飲んで飲んで」

 ナノハが手を叩いて笑っている。思ったよりも遊んでいる女を引いてしまったらしい。しまった、とぼんやりした頭で俺は新しいコップを掴んでいた。


 ……ガン、と殴られたような痛みが後頭部に走って呻き声が出る。今日は何曜日だったか。

「もー、大丈夫?」

 長い、金髪の痛んだ髪が俺の頬をチクリと刺す。あの後、何度も飲ますことに飽きたらしいナノハに1人で放り出され、ふらふらな足取りの中で頭に浮かんだ、1人のセフレの顔がそこにあった。

「痛い」

「飲み過ぎ」

 呆れたような声。テーブルの上には味噌汁らしきお椀。

「ごめん」

 謝りながら彼女の頬にキスをする。そうだ、今日は土曜日。仕事は無い。あったら欠勤するところだった。

 彼女は動じることなく、キスをし返してくる。献身的なセフレ。好みの顔。たまに会いたくなる。

 ガン、と再び後頭部が痛んだ。

「雰囲気最低」

 くすり、と彼女は笑う。


 自分がセフレを作るように、彼女達の多くは自分以外とも肌を重ねている。その証拠はたまに彼女達の肌に残っていたりする。味噌汁を作って笑っていた彼女だって、本命の彼氏は別にいる。鎖骨の上、薄い青痣。自分がつけたわけではないキスマーク。だから副流煙のように軽くて楽。心底信用できないのに心地良くてじわじわ内側から蝕んでいく。


 ナノハとガールズバーで飲んだ。喉に迫り出すアルコールの泡。今日こそは、と意気込んで来たが、今宵も多分潰される。唇だけがナノハの唇を覚えていく。


 胸の気持ち悪さの中、目が覚めた。何日かぶりの金髪の子。今日も頭が痛い。

「また遊んで来たの?というか遊ばれて来たんでしょ?」

 もう、と少し拗ねたような顔で彼女は笑う。

「なんか、ヒモくんに本気になんなくて良かった」

 どういう意味か、と問い返す。

「ん、ヒモくん、女に本気になれないでしょ。だから私も本気にならないの。ならなくて良かったって。ヒモくんが女に本気にならないような男で良かったし私も本気にならずに済むって。……好きになっちゃったらほら、禁断の恋になるでしょう?」

 アルコール混じりの頭ではよく分からなかった。


 何度も挑戦すればいずれ成功するもので。呆気ない程簡単に、ナノハは俺の腕の中で眠っていた。駅近くの寂れたラブホテルの中、ナノハの息遣いが聴こえる。

 彼女の髪を撫でているとガバッと彼女は起き上がる。呆気に取られていると彼女は慌てたように声を出した。

「今何時!?」

 終電を逃したことは既に伝えてある。実家暮らしでもないらしいし、もう今更何を急ぐことがあるのだろうか。

 怪訝な顔をしつつも俺は答えた。

「四時だね」

「そろそろ始発じゃん」

「何か予定でも?」

「まぁ待ってるのがいて」

「じゃ、俺は第二の男というわけだ?」

「さぁ」

「俺じゃ引き止められない?」

「うん」

 彼女は抱き合った余韻を引くことなくパパッと着替えて去っていく。そのあまりのあっさりさに俺は衝撃を受けていた。


 次の日の演劇練習。少し眠そうに彼女はしていたが、顔を赤らめることもなければ不自然に距離を取ることもなく俺に相対していた。

 俺と寝ておきながらまるで何事も無かったかのように振る舞う彼女。始発に乗るからと俺を捨てていった姿。その姿は清々しく手に入れたはずなのにするりと掌から零れ落ちたかのようだった。……もう一度。もう一度掴んでやりたい。今度はしっかりとセックス後の余韻でクラクラにさせてやりたい。

 あ、これか。

『禁断の恋になるでしょう?』

 金髪の子の言っていた言葉が脳内で反芻される。遊び人のはずの俺は今、1人の女、しかも、本命の男がいる女を本命から奪おうとしているのだ。


 普通はそこで諦めるようなものだが、俺は逆に燃えていた。これが本気の恋ってやつなのかもしれないと思った。そう思ったらナノハを何度も呼び出していた。普段ヒモのような生活をしているくせにナノハにはご飯を奢り、口説き続け、アルコールもガンガン飲み。そして終電を逃させ、ベッドに運ぶ。いつの間にか金髪のセフレとも疎遠になっており、俺はナノハ一筋のようになっていった。けれど、ナノハは何度も俺と寝るくせに全く好意というものを見せることは無かった。そして始発で必ず帰って行った。


「……付き合いませんか」

 ある日、耐え切れず俺の方から切り出した。セックス前に。これで拒まれても仕方なかった。始発で帰らせるわけにいかなかった。

「ごめんなさい」

 彼女は断りながら俺に抱きついてくる。どうして、と呟くと彼女は俺を見上げて意地悪そうに笑った。

「だってねぇ、付き合ったところで何も変わらないでしょ?」


 この日も彼女は始発で消えようとした。

「待って、俺も行く」

 何とか引き止めようとだるい体を起こして着替え始める。彼女は笑うと得意げなキスを1つ俺に落とした。

「ダメですよ、ヒモ先輩」

 追いかけさせてはもらえなかった。


 副流煙は厄介だ。主流煙じゃないくせにちゃんと香りがして主流煙よりも体を少しずつ、だが確実に体を蝕んでいく。俺は小劇場の喫煙所の中、タバコを片手に主流煙よりもほとんど副流煙を吸いながらナノハのキスを思い出していた。


 その日は突然だった。今日はナノハが来てないなとは思っていた。薄々嫌な予感はしていたのだ。サークル長の言葉はほとんど頭に入って来なかった。

 ナノハがサークルを辞めた。挨拶は無し。どこへ消えたかなんてのは分からなかった。


「折角の新人だったのに残念」

 喫煙所で俺はサークル長に探りを入れるように言葉をかける。サークル長は苦笑いしながら答えた。

「お前の好きそうな見た目だったもんな」

「バレてたか。で、結婚とか?」

「いや?転勤と言ってた。挨拶できなくてすみませんって」

 結婚でなかったことにホッとする自分がいた。

「でも彼氏はいたんじゃ」

「いやいなかったはず。彼女お前と同じで相当男作ってたしな。本命はいたのかもしれないけど」

 今となっては分からない。ただ、複数男がいて俺もその中の1人でしかなかったという事実だけが判明した。


 タバコを吸う。煙が鼻から抜けていく。煙は誰のものにもならない。ただ副流煙となってそばにいる人を魅了し、延々と蝕んでいく。

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副流煙 夏目有紗 @natsume_novel

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