朱の中のグリコ

ハヤシダノリカズ

あけのなかのぐりこ

「じゃんけんぽん!」「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル!」「じゃんけんぽん!」「グ・リ・コ!」元気な声が近づいてくる。小さな女の子とそのお父さんだろうか、石段を数えながら弾むように発せられる子供の声と、グーで勝った後の低い声。仲のいい親子がもうすぐ見えるに違いない。


 伏見稲荷の千本鳥居。その中腹に腰を下ろし、坂を見上げるアングルでオレは絵筆を走らせていた。石段に座って坂を見下ろす方が体は楽だが、それだと千本鳥居の裏側を見る事になる。各鳥居の裏側には奉納者の名前が彫られているので目にうるさい。


 ゆるやかなカーブを描いている朱塗りの四角の回廊にひょこりと姿を現したのは小学一年生くらいの女の子。黄色い帽子が可愛い。オレは筆を鉛筆に持ち替え、絵の中にその子のシルエットのアタリを入れる。うん。いいバランスで映えそうだ。オレは千本鳥居の石段を下りる少女の絵の完成図を頭の中に浮かべる。


 女の子が山の方を向いて「ジャンケンポン!」と言うと、それに続いて「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」とお父さんの声が聞こえた。筆を走らせては鳥居の並ぶ風景に目をやってを繰り返すオレの視界にお父さんも入ってくる。短髪で背の高い若いお父さんだ。オレは彼を絵の中に取り入れようかと一瞬思ったが、やめた。女の子一人の方がいい。


 ジャンケンの掛け声と石段を数える声が続き、女の子がオレの横を通り過ぎる。小さな体に収まりきらないといった力強い生命力がオレの横をサッと駆け抜ける。

 テンポ良く繰り返される掛け声は、程なくしてお父さんをオレの横に立たせた。「ジャンケンポン!」後方から聞こえてくる女の子の声の後、「グ・リ・コ」と歩き出したお父さんの体から、ポトリと何かが落ちた。視界の隅でそれを捉えたオレは、画板を置いて立ち上がり、それを拾う。


「落ちましたよ」と声をかけて、お父さんに手渡そうとしながら、オレはソイツを見る。なんだこれ。重さをまるで感じないソイツはいかめしさと荘厳さを持った護符のようなデザインで、ポケットティッシュ程度の大きさの見た事もない物体だった。


「スミマセン。ありがとうございます」と受け取った彼の顔には悲壮感がある。真剣な面持ちで額には汗を滲ませている。

「大丈夫ですか?顔色が少し悪いですよ。熱中症とかだと危ない。丁度、開けてないペットボトルのお茶がありますので、良かったら……」とオレが言いかけると、「あ、いえ。飲み物は持っていますので大丈夫です。お気遣いありがとうございます」と彼は言い、すぐに娘の方に目をやって、ジャンケンの掛け声に応じて右手を大きく上に突き出した。


「ありがとうございました。では。パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」そう言って、彼は娘に向かって石段を六つ数えて降りていく。オレはまた元の姿勢に戻り、親子の声を後方に聞きながら画用紙に向かうが、なんとなく落ち着かない。元気な女の子の声とは裏腹な、お父さんのどこか泣きそうなあの真剣な表情が気になって筆が動かない。一旦切り上げよう。あのお父さんが体調不良でどこかで倒れたりした時に、助けになれるよう彼らの後を追おう。


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 千本鳥居の入り口にまで戻ったオレは、その脇に画板と筆洗ひっせんバケツを一旦置いた。五メートルほど先にあの親子がいる。良かった。オレの取り越し苦労だったか。


「へっへー!ちあきの勝ちー!お父さん、約束どおり、ソフトクリーム!」大きな声で言う女の子。お父さんはしゃがんでその子の頭を撫でながら「負けちゃったなー。何味にする?」と言ってすぐに立ち上がり、露店の方へその子と手を繋いで歩き出した。

 周りには人も多い。もう、心配する事もないのだろうけど、オレもソフトクリームを食べたいと思い、彼らについていく。


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「あぁ、さっきの!」お父さんはオレに気付いて話しかけてきた。ソフトクリームを食べながら。さっきとは打って変わった晴れやかで元気な顔だ。

「良かった。元気そうで。さっきはなんだか死にそうなくらいに見えましたけど」オレもソフトクリームを舐めながら言う。

「ご心配してくださって、ありがとうございます。えぇ。元気です。……。そんなにヤバい顔をしてました?さっき」

「ええ。とても」

「そうでしたか……」彼は美味しそうにソフトクリームを食べている娘にチラと目をやって、「さっきのアレ、私が勝っていたら、拗ねて泣き出したこの子が道に飛び出して車に撥ねられてた、なんて言ったらアタマおかしいと思います?」と言った。

「え?」

「負ける為に過去に戻って来た、なんて信じられませんよね」

「え、あ、うん。はい」

「負ける事が幸せって、子供を持ったら気付くんですけどね。あの時、私はうっかり勝ってしまった。真剣に、死にそうな顔をしてたのはそういう事です」

 彼はそう言ってしゃがみ、愛おしそうに女の子の頭を撫でた。


 そういう事はもしかしたら、あるのかな。


 目の前の美しい光景は、オレにそう思わせてくれた。

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