世界一賢い妖精・アルヴィナ

カスガ

第一話(一話完結)

 クロスリー教授はオックスフォードで三十余年にわたって教鞭を取り、職を辞してからはウィッチウッドで隠遁生活を送った人である。その教授の隠居所の書斎には、不釣り合いな標本箱がひとつ飾ってあった。

 それは数枚の乾燥した押し葉を貼付した標本で、書斎への訪問者でこの標本に目を止める者は少ないし、目を止めたところでしげしげと眺める者はもっと少ないだろう。木の葉はブナやトネリコなどありふれた雑木のものばかりで、ご大層にガラス蓋の箱で保存しておく価値のある標本とは、到底思えなかった。

 黄ばんだ台紙には、すっかり褪色しきったインクで簡単な図形と数式が書き添えてあった。すると、これは取るに足らない自然の中にも数学の美が潜んでいるという、クロスリー教授なりの知見を記録したものなのであろうか? そう憶測しながら標本を見ていたぼくに、教授が声を掛けた。

「そんなに、その標本が気になるかね?」

 ぼくは、いささかきまり悪げに頷いた。

「なら、木の葉に書き込まれている線には気付いたかね?」

 よく見ると干からびた葉の表面には、樹液とおぼしきインクのような物質で、ほとんど消えかかった細かい記号や図形がごちゃごちゃと描き込まれていた。その規則的に並んだ線は、あたかもキノコの下の地霊小人が書き記した魔法の記号のように見えた。

「十年前までは、もう少しはっきりと見えたんだがなあ」教授は老眼鏡の奥から木の葉をにらんで、白い顎鬚あごひげを撫でつつ嘆息した。そして、唐突に質問を発した。「君はよもや、妖精というものを見た経験はあるまいね?」

 ぼくは内心の妄想を見透かされたような気がして、ぎくりとした。

「あなたのような真面目な方が、そんな夢みたいな話をするとは意外です。それは、なにかの比喩でしょうか?」

「比喩ではないし、夢でもない。妖精は本当にいたのだよ」教授は首を振り、馬巣織りのウィングチェアに腰をおろした。「君もかけなさい。よろしい、これもなにかの縁だ。わたしの息のあるうちに、誰かに『世界一賢い妖精アルヴィナ』の昔話を伝えておきたい――」


   *     *     *


 今からずっと昔、イングランドに森が残っていた時代の話だ。当時のウィッチウッドに、ひとりの若い数学教師が下宿していた。その青年は母校のカレッジで常勤講師の身分を得るのに必要な論文のため、夏季休暇のあいだは郊外に部屋を借りて、山ほどの資料や文献を持ち込み、ひたすら計算と執筆に没頭した。

 作業に行き詰まると、お気に入りの数学書を片手に森歩きを楽しんだ。計算をのぞけば森での散歩が彼の唯一の趣味で、それもこのあたりを下宿先に選んだ理由のひとつだった。当時のウィッチウッドはまだ伐採が進んでおらず、自然のままの森がそこかしこに残されていたのだ。

 その日も人気のない森の奥の秘密の場所で、青年はブナの木漏れ陽の下に腰をすえ、ガウスの『整数論』をひもといていた。初夏のうららかな気候は、木陰での読書には少しばかり快適すぎた。そのため、彼はうたた寝をしてしまったらしい。彼が目を覚ますと、開かれたページの端に、一匹の妖精がちょこんと座り込み、しきりにため息をついていた。

 その生き物の姿かたちは人間の少女とそっくりで、背丈は手のひらに乗るほど小さかった。ほぼ瞳で占められた大きな目と、小さくとがった鼻のせいで、なおさら幼く見えた。それに透き通った水色の羽根に、薄い緑色のチュニック。青紫色の髪もあいまって、さながら春の名残りのスミレの花が、人間の姿を取って動き出したかのような印象を受けた。

 こういう生き物を妖精と呼ばなかったら、なにを妖精と呼べばいいのだろう?

 青年が夢見心地のまま思案していると、妖精がまたため息をついた。その素振りがあまりに愛らしく、また悲嘆に満ちていたので、彼はとりあえず彼女に質問してみた。

『――妖精くん。その、君はさっきからため息ばかりついてるが、なにか、悲しいことでもあったのかい?』

『お友達のエインゼルが、いなくなったんです』妖精がヨークシャー訛りの英語で答えた。

『いなくなった?』

『妖精は死体を残しませんから。ただ、いなくなるだけなんです。先生だって、森の中で妖精の死体を見たことなんかないでしょう?』

『それはお気の毒に。ところで、君はわたしが教師だと知ってるんだね』

『ええ、先生がいつもここで難しそうな本を読んでるのは、妖精仲間のあいだじゃ噂になってますから。……けど、あたしが悩んでるのは悲しいからだけじゃありません』

 アルヴィナと名乗った妖精の少女は、彼女らの一族について話した。

 自分たちは大昔からこの土地に住んでいたようだが、いつからいたのかはわからない。どこからやって来たかもわからない。なぜここに来たかもわからない。なんのために生まれたかもわからない。

 なぜわからないかと言えば、妖精というのは非常に頭が小さく、多くの事柄を憶えてはおけないからである。記録を残すという習慣もない。気がつけばこの世に生まれ落ちて、長いあいだ子供の姿のまま、ただただ刹那的な享楽の日々を送り、いつの間にか消えている。仲間が消えると友達だった妖精たちはワンワン泣いて嘆き悲しむが、しばらくすればその友達が存在していたことすら忘れてしまう。

『でもね、あたしはお友達のことを、どうしても忘れたくなかったんですよ』

 アルヴィナは、そのためにいい方法を思いついた。彼女は創意工夫の才に富んだ妖精だった。

 仲間との思い出を残すため、友達がひとり消えるごとに、小石をひとつずつ木のうろに貯めておくことにしたのだ。普通の仲間のためには灰色の小石を、仲良しの友達のためには白い小石を、大切な友達のためには、めったに見つからない透き通った特別の小石を。

 仲間がいなくなるたびに、彼女は繰り返し小石を積み続けた。

 そして今朝、涙をぬぐいながらエインゼルのための小石を積み上げようとしたアルヴィナの足元へ、うろに入りきらなくなった小石が転がり落ちた。十分な広さがあると踏んでいた木のうろは、すでに無数の小石でぎっしりと満たされ、それ以上の小石を詰め込む余地はなかった。

 たくさんの灰色や白の小石に混じって、点々と透明な小石が散らばっているのが見えた。けれどもアルヴィナの小さな頭の中には、それらの小石と繋がるはずの特別な友の想い出は、なにひとつ残されていなかった。それらは、ただの灰色と白と透明の小石に過ぎなかった。

『それを見て、あたしは怖くなりました。あたしもいつかは、こういう風に誰からも忘れられちゃうんだな、って気づいたから。道ばたの石ころみたいに、誰にもおぼえられずに、なんにも残さずに』

 アルヴィナは寂しそうに肩を落とした。

『あたしは、この世に名前を残したいんです。誰かの記憶に残りたいんです。あたしが消えたあとも、ずっとずっと誰かがあたしをおぼえてるような、そんな妖精になりたいんです』

 その落ち込みようがあまりに不憫だったので、話を聞いていた青年はある提案を持ちかけた。

『なら、わたしが君を人間の新聞記者に紹介してあげよう。妖精発見のニュースは人々のあいだできっと話題になるだろうし、そうすれば君の名前を載せた新聞や雑誌が、世界中の図書館にいつまでも残るという寸法だ』

 アルヴィナはかぶりを振った。

『いいえ、だめです。妖精の秘密は人間には教えられませんし、たとえ教えたところで、人間はあたしたちの存在を決して信じません。……そもそも、そんな方法で名前を残せたとしても、それは、あたしが妖精だからでしょう? それじゃ、“あたし”の名前が残ったことになりません。だって、そのやり方で名前を残すのは、このアルヴィナじゃなくて、あの気取り屋のウィニーでも、意地悪なリリーアでもいいんだもの』

 アルヴィナはそう言うと、金色の輝きをふりまきながらふわりと飛び上がり、青年の肩に止まった。

『あたしが“あたし自身”だからという理由で、あたしの名前をおぼえていてもらう方法ってないのかな?』

 そうつぶやきながら、開きっぱなしになっていた『整数論』の原著に目を落とした。

『ところで、先生はいつも本を読んでるんですね。それって、騎士やお姫様が出てくる本ですか?』

『これは、ガウスという人が書いた数学の本だよ』

『ガウス? 数学?』

 数学教師はフリードリッヒ・ガウスと、彼が数論において果たした役割を説明した。なるべくわかりやすく説明したつもりだったが、その本がもうこの世にいない外国の数学者によって書かれたということぐらいしか、アルヴィナには理解できなかったようだ。

『そのガウス先生はずっと昔に死んだのに、今でも世界中のみんなが名前を知ってるんですか?』

『ガウスだけじゃない。大勢の数学者たちが、その重要な発見と共に歴史に名を刻んでいる。タレスの定理、ユークリッドの互除法、ヘロンの公式、フィボナッチ数列、ネイピア数、メルセンヌ素数、フェルマーの定理、オイラーの等式……その中には古代ギリシャの人もいるくらいだ』

『つまり、“重要な発見”をしたから、その人たちの名前は残ったってことですか?』アルヴィナが大きな藍色の瞳を輝かせた。『じゃあ、先生もオイラー先生やガウス先生みたいに歴史に名前を残すために、数学を勉強してるんですね?』

 まだ一介の非常勤講師に過ぎなかった彼は、自分を数学の巨人たちと同列に並べられて赤面した。確かに、そういう野心がないとは言い切れなかった。

『そんな方法があるなんて、知らなかったな』アルヴィナは宙に目をすえ、うっとりと呟いた。『オイラー、ガウス、それにアルヴィナ……アルヴィナの定理、アルヴィナの数列……。なかなか素敵な響きじゃないですか』

『ところで』さっきから引っかかっていた疑問を、彼はぶつけてみた。『妖精というのが現実にいるとは、わたしは今まで知らなかったんだが』

『そうでしょうね。あたしたちは人間の前には姿を見せませんから』

『そのわりには、君は気軽に話しかけてきたように思えるがね!』

『ああ、それなら大丈夫ですよ』妖精の子は、ひょいと本の上に飛び降りた。『話が終わったら、みんな夢にしてしまえばいいんですから』

 はっと気がつくと、彼はブナの根かたに背中をあずけたまま寝こけていた。『整数論』は膝から滑り落ち、西に傾いた陽射しがその上に長い影を作っていた。急いで下宿まで帰り着いた頃には日が暮れかけており、家主のタンカーズリー夫人が、こんな時間までどこをほっつき歩いていたのかと小言を言った。

 彼は適当に言い訳をして、裏庭に面した自室へ戻った。そして、彼が計算用紙で散らかった薄暗い室内に足を踏み入れると、外気を取り入れるために開けっ放しにしていた窓の下枠に、あの小さなアルヴィナが先回りをして、足をゆすりながら腰かけていた。

『先生、あたし、やっぱり夢にするのはやめました』黄昏を背景に金色の光をまとわせた妖精の子は、彼を見て手を叩いた。『あたしも数学を勉強して、“アルヴィナの定理”で歴史に名前を残すことに決めたんです。だから、先生があたしを手伝ってください! あたしも、先生が名前を残すのを手伝ってあげますから!』


   *     *     *


 ぼくは、どう反応すべきかわからなかった。

 これがクロスリー教授以外の人の口から出た話であれば、途中で茶々を入れて笑い飛ばしていたであろう。実際、その若い数学教師とやらが森の中で唐突に目を覚ましたくだりを聞いたときは、話はここで終わりかと思いかけていたのだ。

 しかし、教授がほら話で若者をからかったなどという噂は、ついぞ聞いた記憶がなかった。数学者に洒落や冗談を好む人が多いのは事実であるが、クロスリー教授はどちらかと言えば生真面目な、研究と教育のみに生涯を捧げた人物であり、とうとう結婚もしなかったような人である。

 半信半疑で耳を傾けているぼくをよそに、教授は淡々と話を続けた。


   *     *     *


 こうして、数学教師の青年は本来の仕事と並行して、妖精の個人授業を引き受けるはめになった。アルヴィナに数学を教えようとした彼が驚いたのは、彼女が“数”の概念を持っていないことだった。

 たとえば、人間なら『三輪のスミレが咲いている』と表現する状況を、妖精はこう表現する『つぼみが開いたばかりのスミレと、空に向かって元気よく首をあげたスミレと、少しうなだれてしおれかけたスミレが咲いている』。いちいち個別のスミレについて述べるのが面倒なときは、『スミレたち』で済ませてしまう。彼は、まず抽象化と数量化という手法を理解させようとした。

『だって、昨日遠出して見かけたスミレと、今朝巣の近くで目にしたスミレは違うじゃないですか。どうして、それが同じになるんです?』

『しかし、君はひとりの友達との思い出を、ひとつの小石に対応づけていただろう。そのとき、君は無意識のうちに“数を数える”という行為をやっていたのだよ。同じ要領で、それぞれのスミレの花を、一、二、三……という数字に対応づければいいんだ』

『じゃあ、昨日の朝にカッコウを見つけて、昼間は友達のポウジーと遊んで、その晩にサンザシの実を食べてたら、それもスミレと一緒に数えなくちゃいけないんですか?』

『それはスミレと一緒に数える必要はない。違うものは一緒には数えられないんだ』

 彼がそう説明すると、アルヴィナは必死に抗弁した。

『だけど、あたしにとっては、どれもスミレを見たのと同じくらい大切な出来事なんです』

 若い数学教師はタンカーズリー夫人に頼んで、夫人の息子が小学校の時分に使っていた算術の教科書を貸してもらった。一緒に借りた石板の上に1から9までの数字を並べて書くと、彼は、興味しんしんにまわりを飛び回っているアルヴィナに説明した。

『ほら、1、2、3、4、5……という数字が順番に並んでいる。1の次に2、2の次に3、3の次に4だ。ここまではわかるね?』

『はい。春の次に夏が、夏の次に秋が、秋の次に冬が来るのと一緒ですね』

『その通り、うまい喩えだ。では、“4”の次にはなにがある?』

『ええっと、“1”が春で、“2”が夏で、“3”が秋で、“4”が冬だから、その次は……』

 アルヴィナは空中で少し考えてから、自信たっぷりに“1”の文字の上に舞い降りた。

 万事がこの調子であった。

 ところが、ある日突然にアルヴィナは目覚ましい進捗ぶりを示した。教科書に載っている足し算の例題をすらすらとこなし、ついには二桁の足し算すら習得したかに見えた。青年は、ようやく自分の教育が実を結んだのだと信じた。だが、それはとんでもない誤りであった。

 その日もアルヴィナは石板に身を乗り出して、石筆のかけらで計算問題に精を出していた。自分の教師としての才能に慢心していた青年は、ちょっとアルヴィナの学習の具合を確かめてみようと思った。

『じゃあ、応用問題を出してみよう』彼はサイドテーブルの上にある果物鉢を指し示した。『そら、今はその鉢に八つのスモモが盛ってあるね? わたしの手元には三つのスモモがある。このスモモも一緒にすると、全部でいくつになる?』

『わかりません』アルヴィナは茫然と首を振った。その返事に彼も困惑した。

『でも、これは君が今やってる足し算よりも、ずっと簡単な問題じゃないか』

 アルヴィナはきょとんとした顔で訊き返した。

『え? この“足し算”って、スモモの“数”となにか関係があるんですか?』

 アルヴィナは数字とその変換規則を丸暗記して、その規則通りに数字を変換していただけだった! たとえば『19+15』という計算をやる場合、彼女はまず右端の『9』と『5』という数字がプラス記号で結ばれているのを見て、暗記した通りに『1』『4』という一連の数字に変化させる。そして、左端の『1』と『1』に新しく生まれた『1』を並べて、丸暗記した規則で『3』に変化させ、先の『4』とあわせて『3』『4』という結果を得る。

 けれども、数と数字の対応や、その操作が19と15という数量の和が34になることを示すのだという算術の本質は、なにひとつ理解していなかった。これでは話にならない! 彼はもう一度、彼女に数の意味から教え直さねばならなかった。


 それでも、アルヴィナが妖精の中の天才児だったのは認めねばなるまい。数の概念は別にして、おそらく人間の十二歳児ぐらいの知能は持っていただろう。

 そこで、青年は算術の授業を取りやめて、アルヴィナを幾何に専念させた。彼女としても、意味不明な記号の操作に過ぎない計算式に取り組むよりは、自分が何をやっているかがわかる図形の方が、性に合うようだった。三角形や長方形の作図はなんなく覚えたし、そのうちには三角形の等積変形や平行線の性質などの、ユークリッド幾何学の初歩さえ飲み込んだ。

『これが五角形の書き方? まずは、円を描けばいんですよね』

 書き物机の隅では、アルヴィナが教科書の指示に従い、彼の小コンパスと定規で正五角形の作図に取り組んでいた。彼女の小さな両腕に抱えられると、真鍮のコンパスは製図工の使う木製コンパスよりも大きく見えた。

 青年はその横で、例の講師資格のための論文を書き進めていた。最初に懸念したほど、アルヴィナは作業の邪魔にはならなかった。むしろ個人教授のあとでは、彼女に費やした時間を取り戻してお釣りがくるぐらい仕事の能率があがった。初歩的な定理をやさしく説明したり、素朴な疑問への回答を考え出す行為は、執筆に疲れた頭脳にほどよい刺激を与えてくれたし、彼の方でも彼女の訪問が楽しみになっていた。

『あれっ?』

 唐突にすっとんきょうな声が響いた。彼が目を向けると、コンパスで描かれた円の中で立ち往生したアルヴィナが、しょんぼりと助けを求めていた。

『……ここから出してください』

 伝説によれば、真円には魔性の者から身を守ったり、彼らを閉じ込める呪力があるという。彼女は、自分で描いた魔法円に閉じ込められてしまったのだ! 彼は吹き出しそうになりながら、円の一部を親指の腹でこすり消してやった。切断された魔法円から慌てて飛び出すと、アルヴィナはしみじみと言った。

『コンパスってのはずいぶんと危険な道具なんですね、先生』

 それからの彼女は用心して、コンパスを使うときは慎重に円の外から針を動かすようになった。

 そのときの彼は、アルヴィナのような無知で無邪気な妖精に“歴史に名を残す発見”を成しとげる能力があるなどとは、全然信じていなかった。彼にとってアルヴィナへの個人授業は、森の散歩に代わる、単なる執筆の気晴らしでしかなかった。


 しかし、妖精には熱意があった。最初は功名心から始めた勉強だったのに、今や幾何学それ自体の魅力に取りつかれているような素振りすら見えた。

 不思議なことにアルヴィナが帰ったあとは、彼女の印象は急速におぼろげになり、はたして訪問が現実の出来事であったのかさえ疑わしくなってしまうのだ。それは、見ている瞬間は鮮明でありながら、目覚めたあとは手からこぼれる砂のように失われてしまう、夢の記憶に似ていた。

 それでもベッドに入るたびに夢を見るように、彼女は毎日欠かさず授業を受けにやって来た。

 お茶の時間には、きれいに洗った指ぬきで彼のお相伴をした。妖精はお茶が大好きだった。ポットで淹れたお茶と沸かしたミルクを、青年が自分の茶碗と彼女の指ぬきに交互に注ぐと、彼女は待ちきれないようにふうふうと吹いて冷まし(それが妖精の特徴なのか彼女の個性なのかは不明だが、アルヴィナはひどい猫舌だった)、数滴の紅茶をつつましやかに飲んだ。

 お茶のあいまに、アルヴィナは授業への感想を訥々とつとつと語った。

『あの、あのですね』

 唇の上をミルク入りの紅茶で濡らしたアルヴィナは、指ぬきから顔をあげて言った。

『あたしが勉強をはじめたとき、先生は、最初に算術を教えてくれましたよね? 先生から算術を教わるまでは、あたし、おとといと昨日と今日に別々の場所で見たスミレの花を“三輪のスミレ”と呼ぶことも、“三輪のスミレの花”と“三日間友達と遊んだ”が、どっちも同じ“3”という数で表せるなんてことも知りませんでした。

 ――でもね、やっぱり違うんです。その、おとといと昨日と今日のスミレの花が違っていて、三輪のスミレと三日間が違うように、“小石ひとつ”と“友達の思い出ひとつ”は、同じ“1”であっても、やっぱり別のものでした。“ウィニーの思い出”足す“ミカーラの思い出”足す“先生の思い出”は、“友達の思い出みっつ”にはなりません。違うものは、どうやっても足せないんです。それが、あたしが算術をおぼえられなかった理由だと思います』

 概念として把握しながらも自分の言語能力には余る疑問を、彼女は懸命に表現しようと試みていた。

 一体、なぜ人間が作り出した公理の体系に過ぎない数学が、自然の諸現象を反映できるのだろうか? なぜ人間は数を通じて現実を認識しているのか? そもそも“数の実体”とはどこにあるのか? それは現実に根拠を持つものなのか? それとも単なる虚構に過ぎないのか? それらは、数を学ぶ者が常に抱き続けてきた根源的な疑問であった。

 しかし、そのときの青年は別の疑問の方が気になっていた。今の彼女は明らかに“数”というものを理解しつつあった。そして、彼女がその天真爛漫な悟性を捨てて人間的理性に近づこうとするたびに、彼女の姿は輝きと実在感を失うのだ。

 妖精は――少なくとも自然数を知る前のアルヴィナは――数量という概念にとらわれず、直観のままに自然を把握する能力を持った種族であった。その妖精が数学を学べば、どういう結果がもたらされるのだろうか? 妖精が数を知らないことと、人間が夢の中では数を数えられないことに、関係はあるのだろうか? 夢から覚めたとき、その夢はどうなるのか?

 彼は子供の頃に読んだ、よかれと思ってキリスト教の洗礼を受けさせたために、その場で死んでしまった妖精の話を思い出していた。

 そんな彼に、アルヴィナが得意気に語った。

『でもね、あたし、勉強をしているうちに、やっと先生の言ってたことの意味がわかりましたよ。あたらしくなにかを知ったなら、また次のわからないことが出てくるように、一、二、三、四、五……と、どこまでも続いていく終わりのないものがあって、それが“数”なんだってことが』

 青年ははっとなった。かつては学習不能に思えた“数”の概念を、彼女は学習という行為そのものを通じて学んでいたのだ。

 ふと見ると、書き物机の上には誰もいなかった。空っぽの指ぬきだけが転がっていた。

『アルヴィナ』青年は妖精の名を呼んだ。『アルヴィナ!』もう一度、今度は大声で呼びかけた。

『なんですか?』

 書き物机の上では、指ぬきを持ったアルヴィナがかしこまっていた。彼は思わず安堵のため息をついた。一瞬、本当に彼女がこのままいなくなってしまいそうな気がしたのだ。

 だが、まだ安心はできなかった。彼はアルヴィナに質問した。

『君は、以前はよく空を飛んでいたような気がするが、最近は机の上に座ってばかりいるんだね?』

『なんだか、このごろ空を飛ぶのがおっくうになっちゃって』

『君の友達は、最近の君の様子について何か言ったりはしないのか?』

『いいえ、近頃はお友達の誰とも遊んでません。森の中を歩いてても、お友達と会わなくなったんです。お友達の顔も名前も、よく思い出せないし』

『アルヴィナ』青年はきっぱりと言った。『君は、数学をやめた方がいい』

『……いやです』アルヴィナもきっぱりと拒否した。

 彼は数学をやめるよう強く説得した。一か月も何もしなければ、頭に詰め込んだすべての知識を忘れ去ることができただろう。だが、彼女は数学教師の豹変に戸惑いつつも、絶対に従わなかった。

 多少賢くなったところで、彼女が歴史に名を残す発見を成し遂げられる見込みなど到底ないと、はっきり伝えてやるべきだったのだろうか? けれども、それはあまりにも残酷な行為に思えたのだ。口で言ってやめさせるのは不可能だった。青年は翌日から自室の窓を締め切り、鍵を掛けた。だが、これは無駄だった。家屋に少しでも隙間があれば、アルヴィナはするりと入り込めるのだ。

 そこで、彼は書き物机とベッドのまわりに毎日チョークで真円を描くことにした。こちらはうまくいった。アルヴィナは円の中にいる青年を認識できないらしく、何時間も青年の名を呼びながら、うろうろと部屋の中をさまよった末に、あきらめて出て行った。家主のタンカーズリー夫人からは、床を汚さないでくれと苦情を言われた。

 三日ほどその方法で無視を決め込んでいると、彼女はふっつりと来なくなった。青年は、彼女がこのまま数学を忘れてくれるようにと願った。

 ある晩、青年はアルヴィナの夢を見た。見る影もなく輝きを失ったアルヴィナが、あの真鍮のコンパスを貸してくれと哀願しにくる夢だった。

 個人教授を打ち切る決心をした以上、断固として拒絶すべきであった。なのに、その痛ましい姿を見た青年は罪悪感で胸がいっぱいになり、コンパスを渡さずにはいられなかった。あるいは、翌日に例の真鍮のコンパスをいくら探しても見当たらなかったことから考えるに、それは現実の出来事だったのかもしれない。

 別の晩には、巣の中にいるアルヴィナの夢を見た。夢の中のアルヴィナは、床一面に撒いた砂を石板代わりに、なにやら作図に没頭していた。


 青年の休暇が終わり、カレッジに帰寮すべき日が近づきつつあった。論文は完成していたが、妖精への個人教授を打ち切って以降に書き上げた部分は、彼本人の目から見ても不満足な出来だった。窓の外では、夏の終わりに吹く強風が、がたがたと窓枠を鳴らしていた。

 彼は荷物をまとめ終えると、床に描いたチョークの円をスポンジで念入りに拭き消した。そのとき、窓枠を鳴らす風の音にまじって、小さな声が聞こえた。

『……先生、先生』

 もう二度と聞くことはないと思っていた、あのヨークシャー訛りのアルヴィナの声だった。

『窓を、窓を開けてください』

 彼は自分に課した誓約を思い出して、しばし躊躇した。しかし彼女の声を耳にすると、反射的に足が窓へと向いた。――構うものか。いずれにせよ、自分は一両日中にはオックスフォードへ帰るのだ。最後に一度ぐらい顔をあわせても、彼女の害にはなるまい――

 だが、窓を開けて妖精の姿を見下ろした瞬間に、彼は彼女の姿を見てしまったことを後悔した。

『羽根が……』彼には、そう言うのが精いっぱいだった。

『ああ、これですか?』妖精は自分の背中を振り返った。『でも、もういいんです。あたしは、もっといいものを手に入れましたから』

 あの自由に生きていた妖精が空も飛べずに、この窓の下まで歩いてきたのだ。青年は手を伸ばして妖精を拾い上げると、書き物机のいつもの場所まで運んでやった。インク壺にぐったりともたれかかった彼女は、数枚の木の葉を大切そうに胸元へ抱え込んでいた。

『先生、ついにあたしは“アルヴィナの定理”を発見しましたよ』妖精が顔をあげた。『きっと、これは妖精にとっても、人間にとっても、役に立つ発見だと思うんです』

 アルヴィナはそう言って、束ねられた数枚の木の葉を差し出した。そうだ、その標本箱に貼付してある枯れ葉だ。そのときはあの枯れ葉も、みずみずしい緑色を保っていた。

『巣の床にいろんな三角形を並べて描いてたときに、気がついたんです。ほら、ここの四角形を動かすとこうなるでしょう? だから、こちらの四角も動かせば、こうで……ここが、こう、と……どこか、間違ってますか?』

 その証明に誤りはなかったので、青年はそう伝えた。

『よかった。これで、あたしの仕事は完成です』

 彼女は力尽きたように、また横たわった。

『あたしの代わりに、先生がこの発見を発表なさってください。たとえ、それが“アルヴィナの定理”だということを誰も知らなくても、この発見がいつまでもこの世に残って、世界中のみんながこの発見を使ってくれたなら、それで、あたしは十分満足です』

『だけど、君の仕事はまだ完成してないじゃないか』

 青年は懸命に話しかけた。アルヴィナがそこにいるのだと無理に自分に思い込ませていなければ、たちまち彼女が消えてしまいそうな気がした。それくらい、今の彼女の姿には現実味が感じられなかった。

『この発見から生まれる無数の新しい定理や、この発見の背後にある意味の探索には、まだまだ研究の余地が残っている。君が前に言っていたように、学問に決して終わりはないのだから』

『でも、あたしにはもう無理です』アルヴィナが書き物机から転げ落ち、木の葉が床に散らばった。『残りの仕事は、あとの人たちにまかせます』

 床に倒れ伏したアルヴィナの体を、彼は両手でそっと持ち上げた。彼女の体は空気と陽の光でできているかのように、もうなんの重みも感じられなかった。見下ろすと、手の中には しおれた青紫色のスミレの花があった。もう一度目をこらすと、その花さえも残っていなかった。

 青年は翌日ウィッチウッドを離れた。それ以来、彼が妖精を見ることは二度となかった。


   *     *     *


「――あの子が、自力でその証明を発見したのは間違いないよ」クロスリー教授は、話の発端となった例の標本箱を指し示した。「わたしが見せたのは小学校の算術の教科書だけだったし、その教科書にその式は載っていなかった」

「でも、これは……」

 木の葉の上の線と、それをわかりやすく書き直した台紙の上の図形を見比べて、ぼくは絶句した。その覚束ない線でつづられた図形と記号が示す一連の証明の結論は、要約すれば、おおむね次のような内容だった。


『辺abcを持つ直角三角形の、直角と向かい合う辺cを一辺とする正方形の面積は、残りの辺aと辺bを一辺とするふたつの正方形の面積の和に、いつでも等しい』


 さらに誰もが見慣れた数式に変換すれば、こういう意味になる。


   a^2 + b^2 = c^2


「その通り」教授は頷いた。「あの妖精の子が全存在を犠牲にしてまで到達した“発見”とは、中等教育を終えた人間なら誰でも知っている、ピタゴラスの定理の再発見に過ぎなかった。

 ――だがね、アルヴィナがその証明に自力でたどり着き、数すら知らなかった妖精の導き出した解答が、二千年以上も昔に人間の導き出した解答と同じであったという事実は、それこそ数学の本質そのもののように思えるし、なによりも尊い真理のように感じられるのだよ」

 教授はそう言うと、開かれたままの窓に目をやった。

 すっかり暗くなった窓の外を、火花のようなホタルが数匹飛び交っていた。




 ぼくが教授から上の話を聞かされたのは、例のコティングリーの妖精事件が世間を騒がせるずっと以前で、ウィッチウッドの森がもはや森とは呼べないほどに木の数を減らし、すでにクロスリー教授も故人となった今では、この話の真偽は確かめようもない。

 アルヴィナの木の葉を収めた標本箱は、一体どうなったのであろうか? 売りに出す価値もない遺品として炎に投じられたのか、それとも、どことも知れない古物屋の棚の奥で、今もひっそりと眠っているのか。できれば後者であると信じたい。

 そして、教授は単にありふれた落葉標本に仕掛けをほどこして、なんでも信じ込むうぶな若者を引っかけようとしたのであり、ぼくはそのいたずらに一杯食わされただけなのだと冷笑する人々には、教授は謹厳実直な紳士であり、人をかついで楽しむような悪趣味とはおよそ無縁の人であったことを、もう一度述べておこう。






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