カミサマのままでいてくれ

海沈生物

第1話

 日常は不変であってほしい。明日の平穏に安心していたい。ずっと幸福という快楽に身を浸していたい。そんな平凡な祈りを支えるモノを、人は「信仰心」と呼ぶ。その信仰心を支えるものは、信仰する対象……つまり「カミサマ」が不変的に素晴らしいものであることだ、と思う。


 だから、私は許せない。「カミサマ」が私と同じアパートの隣部屋に住んでいて、休日にポテチを食べながらソシャゲの周回をする、ただの「人間」であることに。


 しかも、彼はカミサマの癖に「酒」を飲む。下賤な男や女を誘惑して部屋に連れ込んでは、脳ミソが溶けてるんじゃないかと思うぐらいの「喘ぎ声」を漏らしている。そんな甘ったるい声を壁越しに聞くたび、私の心は耐えられないほどの不平や不満ではち切れそうになった。


 こんなカミサマ、私の信仰していたカミサマではない。私が理想に描いていた、あの聖書に載っている偉業を成し遂げたような、神々しいカミサマではない。ただの時代によって捻じ曲げられた、俗人化されたキャラクターである。量産型ソシャゲに出てくる、威厳を奪われたカミサマである。


 だから、私は理想を打ち砕いてきた、そのカミサマをことにした。これ以上、私の理想の姿から遠ざかってほしくない。そんなどこまでも自分勝手な感情ワガママから、カミサマをことに決めた。


 思い立ったが吉日。早速私は包丁を持ってカミサマの部屋に向かった。錆に蝕まれてまともに機能していのか怪しいチャイムを軽く押すと、両手で包丁を持ち、彼が出てくるのを待つ。私は手に汗を握らせながら、いつ彼が出てくるのかと心臓をドキドキさせた。


 ――――――しかし、数分経っても中からカミサマが出てことなかった。追加でドアをノックしてみたが、出てくる気配は一切と言っていいほど、ない。


「……寝てんのかなぁ」


 包丁の柄でうなじをポリポリ掻きながら、私は溜息をつく。ひとまず、部屋に帰ろうか。私はドアに背を向けた。


「あれ、もう帰っちゃうの?」


 口から心臓……いや、包丁が飛び出るかと思った。

 

 そこには、のりしお味のポテチを袋ごと食べている、もじゃもじゃ髭のカミサマがいた。口周りの髭には、青々とした青のりが付いており、清潔感のあるカミサマ像とは乖離した姿をしていた。そんなカミサマの姿に、私は眉を顰める。顰めながら、包丁を両手でギュッと握る。


「なっ、なっ……」


茄子なす? 今まだ春だし、旬早くない?」


「く、くだんねぇギャグ言ってるじゃんねぇ! 殺すぞ!」


 私は手に持っていた包丁をカミサマに向ける。向けた刃先がふいに彼の髭に当たると、髭の先が切れ、地面に舞い落ちる。カミサマはその姿を見届けると、道化じみた笑みを浮かべ、私を見てくる。


「な、なんだよ」


「包丁を人に向けるのは……危なくないか? さすがに」


「うるせぇ! そんなこと分かっているんだよ、バカ!」


「えー……じゃあ、分かった上で僕に包丁を向け――――――まさか、僕を殺そうとしているのか!? 今ここで!?」


 カミサマの癖に、そのバカみたいな鈍感さに激しい嫌悪感を抱く。玄関の前で包丁を持っているような人間がいた場合、十中八九、お前を殺しに来ている以外の理由がないだろうに。

 その程度のことを自覚できていないなんて、あまりにも鈍すぎる。もっと他人の感情に目を向けてほしい。もっと、私なんて超越して、万能な存在であってほしい。そうでないのなら、死んでほしい。


 ……とはいえ、「そう」思ったところで、目の前のカミサマは「そう」なってくれやしない。そんな虚しくも残酷な現実に、私は深い溜息をつく。カミサマはまだ、あの、道化じみた笑みを浮かべている。


「どしたん? 話聞こか?」


「インターネットのキモイ構文を使うなよ、気持ち悪い」


「キモ……一応僕はカミサマなんだから、尊敬とか信頼とか、そういう気持ちを持って接して欲しいのだけれど」


 まるでコミュ障の人間みたいに、うじうじとするカミサマ。その様子もまた道化じみた笑みを伴ったものだった。一体、どうして私の心をそんなに煽ってくるのか。どうして、そんな道化のような下賤な笑みを浮かべるのか。どうして、どうして、どうして、どうして!


「それじゃあ、そういう気持ちを抱かせるようなカミサマであれよ!」


――――――私はもう、耐えることができなかった。


 こんなくだらない会話を繰り返したところで、何になるだろうか。「おっ、話してみたら、やっぱり良い奴じゃん」と思い、絆されることが正解なのだろうか。それで私は殺人行為をすることもなく、ただ良好な近所関係を築く。


 この胸に燃える怨嗟の炎を有耶無耶にして、誰も死なないような甘ったるい結末を迎えることを「ハッピーエンド」だと持て囃し、安心し、またリベラルな日常を過ごすのだろうか。


……いや、そんなわけがない。ハッピーエンドなんて、くそったれだ。


 有耶無耶になった先に待っているのは、緩やかな死しかない。そこにあるのは社会が強制する平穏しかない。それは「ハッピーエンド」などではない。自分の魂の形を社会という枠組みに押し当て嵌めた結果を、ハッピーエンドと呼んでいるだけである。そこに真の自由も、愛も、幸福も、カミサマも、ない。


 何がハッピーエンドで何がバッドエンドであるのかは、当事者の視点からしか観測することができない。社会というシステムが評価する「ハッピーエンド」など、所詮は多数派の圧力にしか他ならない。


 私は包丁を持つ手に力を入れると、カミサマの心臓を一突きで刺す。


 カミサマとは言えども、所詮は人間を形取っただけの存在だ。心臓を刺せば、死んでくれるだろう、という目論見だった。これでついに、私は私の理想のカミサマを維持することができる。こんなくだらない、人間を形取っただけの存在にその理想像を崩されることはない。


 死にかけていた信仰心が、心の中で息を吹き返す音がした。私の中のカミサマ像が蘇り、心に刻まれていた彼の真の姿を取り戻すことができた。


――――――そう、慢心した。


 しかし、彼は私の一突きで死ななかった。心臓に刺さったと思っていた包丁は、ものすごい高反発に押し出された。そこにあるべき、筋肉を切り裂くような感覚はなかった。ただ、弾力の強いスライムを刺した時みたいな、あの気味の悪い「ぶにょ」とした感覚だけがあった。


 その感触の気持ち悪さに気付いた瞬間、そこにいた「人間」の形をした「カミサマ」は死んだ。私の望む通りに死んでくれた。その代わり、カミサマは名状しがたい存在になってしまった。心臓のあった場所から溢れ出したのは、真っ青なスライム状の「何か」だった。磁力のように強力な力で引っ付いてきて、一度くっつくと、もう離すことは不可能に近かった。


 そこにはもう、私が失望していた「カミサマ」の姿はなかった。カミサマは、本当の意味でカミサマになった。人知など遥かに凌駕していた。物理法則を我が手の掌中に収めるような、そんな神々しい存在になっていた。


 やがて、スライム状になった「何か」は私の身体全てを覆った。爪先から脳天まで、そのぶよぶよとした肉体で覆った。視界が真っ青に染まる。身動きの取れない中で、私の身体は爪先から少しずつ溶かされていった。誰かに助けを呼びたくても、体内にまで入り込んでいた「何か」によって、声を出すことすら叶わなかった。


 溶けた部位からは激痛が走った。その痛みは到底常人が耐えられるようなものではない。イメージをするのなら、ヤクザがエンコした瞬間の痛みが無制限に続いている、と想像してくれたのなら、その痛みを理解してもらえると思う。


 しかし、それと同時に恐ろしいほどの快感が身体を駆け抜けていた。

 

 それはいわゆる「自慰行為」や単純な「セックス」と呼ばれる行為の時におきる快感などとは程遠い、野性的、とでも言わんばかりの凶暴な快感だった。ヤクをキメて感度を上げたセックスをしたら気持ちいいというが、そんなものが非にならないぐらいの快感だった。脳の見せる虚像である「自意識」など刹那の内にとろけてしまいそうで、現実の全てが忘却の彼方に消えてしまいそうな、おぞましいほどの快楽だった。


 そんな中で、あれほど昂ぶっていたはずの怨嗟の感情は、徐々に薄れていった。人はどれだけの強い意志を持っていたとしても、それを凌駕する快感の前では、決して勝利することはできない。簡単に敗北して、快感の奴隷になる。


 「何か」は私をそんな風にめちゃくちゃにしながら、脳ミソが溶けてるんじゃないかと思うぐらいの「喘ぎ声」を漏らしている。その声は私がいつも、部屋の壁越しに聞いていた、あの声だった。きっと、あの下賤な男や女たちも、こんな風に快楽の前で膝をつかされたのだろう。そして、私もその「下賤」の一部へと取り込まれていくのだ。カミサマという、神々しい存在の前にひれ伏すのである。


 私はその事実に脳ミソが溶けそうなほどに歓喜しながら、最期の瞬間まで「快楽」という名の真の幸福に打ち震えていた。

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