第4話 散華、我が意を得たり

 最近はカーテンから日が差し込み始める時間が早い。真朱は布団から体を起こして、大きな欠伸をした。あてがわれた二階の部屋を出て、洗面所で顔を洗う。そのままリビングに入ると、焼けたパンの匂いがしてきた。

 キッチンには珍しく和装ではない布由が立っている。彼はシャツとデニムの上にエプロンを掛けて、朝食を作っていた。

「おはよう」

「ん、おはよう」

「今日出かける日だったか?」

「うん。神沢署まで書類の確認。一緒に来る?」

「行く。オレも書類関係覚えたいし」

「わかった」

 布由は手際よくフライパンに卵を二つ落とした。

「楽な格好で行っていいか?」

「うーん、いいけど和服よりは洋服のほうがいいかな」

「そうなのか?」

「署にいくのはだらしない恰好でなければいいけど」

 皿にレタスやきゅうり、プチトマトなどが盛られて色鮮やかになっていく。

「今日はお昼、外で食べるのはどうかなと思って」

「おお」

 真朱はカウンター越しにキッチンを覗き込んだ。

「オレ前に行ったカフェがいい。サラダがすげえうまいところ」

「あの山盛りの?」

「うん、山盛りの」

 くす、と笑った布由に、真朱も笑顔になる。

「なあ」

「ん?」

「今日のもデート?」

 目玉焼きを皿に乗せる布由。その顔を覗き込み、じっと見つめる真朱。

「……うん、デート」

 布由が少し気恥ずかしそうに微笑むので、真朱も照れ笑いを漏らした。




 警察署での書類確認を済ませた真朱と布由は、繁華街にあるカフェに来ていた。以前一度入ったことがある店だ。

 真朱は人間の食事も何でも食べる。肉や魚も出されれば好き嫌いせずに食べるが、元々ずっと菜食だったせいか野菜を特に好んだ。山では見られない野菜を調理して食べるのが気に入ったらしい。

 パスタのランチセットを二人分に加え、量を多く食べる真朱のためにサラダを二種類頼む。前回頼んだときは皿に山盛りのサラダがやってきたが、真朱はぺろりと平らげていたのでこれくらいの量は必要だろうと思ってのことだ。店員に二度も「多いですが大丈夫ですか」とジェスチャーを交えて聞かれたが、二回とも真朱は笑顔で「大丈夫だ」と答えた。

 料理が運ばれてくると、温かいパスタから手を付け始める。真朱が頼んだのはキャベツとベーコンが入ったクリームパスタ。布由が頼んだのはキャベツとイカのオイルソースパスタだ。

「布由のそれ美味いか?」

「おいしいよ」

 布由はパスタをフォークに一口分取ると、真朱の口元に差し出してくる。周囲が少しばかりざわめいた気がしたが、真朱は至って平生を装い口に含んだ。ざわめきがどよめきに変わった気がするが、気にしてはならないのだ。

「あ、うまい」

「前に頼さんが作ってくれたことがあって」

「え、あいつ器用だな……」

 真朱も自分のパスタを一口分、フォークにとって布由に差し出す。

「……」

 自分が同じことをした手前、断りづらかったのだろう。ほんのりと頬を染めて、布由は口をつけた。

「あ、これもおいしい……」

「な、美味いよな」

 笑い合う二人の周りでどよめきが大きくなったが、真朱は気づかないふりをした。

「この後予定は?」

 大根のサラダを口に入れる。砕いたナッツが入ったドレッシングが美味しい。

「夕飯の材料買って帰るくらいかな……どこか寄りたい?」

「いや。あ、買い物ならあのでっかいスーパーがいい。いろんな店が入ってるやつ」

「ん、わかった」

 コーンスープを一口飲んだ。なめらかな口当たりで、やはり美味しかった。




 ごった返す、というほどではないにしろ、程々に人の多いショッピングモールに入る。主婦や子供連れの多い中を背の高い男が二人、というのは流石に目立つようで、ちらちらとこちらへの視線を感じた。はじめのうちは鬼だからとあまり人目を引かないように気を使っていたのだが、最近の真朱は諦めかけている。真朱は髪色も身長も目立つというのが一つ。もう一つは、一緒にいる布由がそもそも目立つという理由だ。

 布由自身はそう思っていないようだが、彼は目立つ容姿をしている。艶やかな黒髪、夜明けを写したような美しい瞳。端正な顔立ちに、目元にある縦に連なる二つのほくろという特徴まである。背が高く手足はすらりと伸びて、薄い体は華奢な印象さえ与えるほどだ。実際に人の視線を集めているのは真朱よりも布由の方ではないかと思うこともある。

 注目を集める布由に、当然だと思う真朱も居るが、同じくらいにあまり彼を見ないでほしい、と思っている真朱も居る。

 スーパーの中に入り買い物かごを持つ。はじめのうちは布由も遠慮していたが、今はもう買い物での真朱の役割だ。

「夕飯何がいい?」

「うーん、考えてるからまってくれ」

「さっき食べたばっかりだと思いつかないよな」

「そうなんだよ」

 会話をしながらも布由はかごに真朱が好きそうな野菜を入れていく。彼が大根を手に取ったとき、真朱が「あ」と声を上げた。

「あれがいいな、魚と大根煮たやつ」

「それじゃあ魚も買わないとな」

 魚売り場へと足を向けた瞬間、悲鳴が上がった。ざわめきと人だかりの中心へ二人は視線を移す。

「何かあったのかな」

「なんだろな」

 顔を見合わせていると、なにか生ぬるい空気が足元に漂ってきた。まとわりつくようなそれに、二人は覚えがある。

「瘴気……!」

 人だかりへ足を踏み出したとき、衝撃を周囲が襲った。大きな悲鳴がいくつも上がって、ばたばたと人が倒れていく。しゃがみ込んで目をつむり、真朱と布由は衝撃を殺す。

 倒れた人々の中心に、少女がひとり立っていた。黒く変色した白目、白く濁った黒目。額からは大きな二本の角。黒曜石のように艶やかな黒が天を指している。

 少女はゆっくりとこちらを向き、真朱と布由を視界に認めると、どこへともなく走り去ってしまった。

「まずい、穢奴だ!」

「追いかけるぞ」

 穢奴が生まれる経緯は二通りある。一つは瘴気に心身を侵され、徐々に変異していく例。もう一つは、心をひどく病み、体内で瘴気を生んで変異する例。今のは完全に後者だろう。

 布由が走りながらスマートフォンを取り出し、電話をかけ始めた。

『はい、神沢警察署、柳です』

「柳さん! 穢奴だ! 場所は神沢モール、変異したのは人間の少女、瘴気に当てられて倒れた人達がいるから救護と封鎖を!」

『オッケー、すぐに手配するわ』

 通話を切り、更に速度を上げてエスカレーターを駆け上がる。瘴気の影響を受け始めた人々が、ぐったりと通路の端に座り込んでいる中を走る。少女は髪を翻し、ひたすらに逃げ――段々と、その背が霞んでいく。

 眉をひそめて首を振り、前方を見直すが、視界がどんどん白く薄れてきていた。

「……霧か?」

 同じく眉間にしわを寄せた真朱が呟く。

 霧はどんどん濃くなって、少女の姿はどこにも見当たらなくなってしまった。

「……見失った……」

 布由が唇を噛む。

「この霧が穢奴の能力か……?」

「多分。でも能力の一部の可能性も」

 言いかけた瞬間、何かが高速で布由をめがけて飛んでくる。布由は長い筒のようなそれを、かかとで蹴り落とした。

「なんだこれ」

 真朱が筒を拾い上げて眉をひそめる。こつ、こつ、と前方から足音が響いてきた。

「ふむ……避けたか。腕はまあ鈍ってはいないようだな」

 しわがれた声が霧の中に響く。

「誰だ!」

 霧の中からゆっくりと老人が現れた。皺が刻まれていてもわかる端正な顔立ち。すっと伸びた背筋。辛子色の着物がよく似合うその老人は、右手に抜き身の刀剣をぶら下げている。

「私が誰か、か。鬼ならば知るまいよ。なあ、布由。教えてやりなさい」

 真朱は布由を振り向く。そして、目を見張った。

 布由は目を見開いていた。無数の冷や汗に濡れ、体が震えてさえいる。ひゅ、と彼の喉を息がかすめた。

「おじい……さま……」

 わななく唇が、やっとのことで言葉を紡いだ。

「そう、お前のおじいさまだ」

 ニタリと老人の口が弧を描く。

「そ……んな、まさか」

「驚いているなあ、久しぶりの再開だというのに、歓迎の一言も無いとは」

 刀剣を床に突き立て、杖のようにもたれかかった。

「まさか、まさか……か」

「そんなはずがない、そんな」

 震える布由。老人は大声を張り上げて笑い出した。

「そうだな、布由! 私がここにいるはずがないとも! お前が! その手で! 私を殺したのだから!!」

 真朱がますます目を見開く。

 いよいよ大きく震えだした布由に向かって老人が走った。老人は布由に刀を振り下ろす。真朱はそれに割って入り、硬化させた腕でそれを受けた。

 ぎいん、と金属のかち合うような音。びりびりと衝撃が真朱の腕を伝う。

「邪魔だ、どけ!」

「うるせえ! ……布由、大丈夫か!?」

 布由は自分を抱きながら、青ざめ震えて動けない。

「クソ、一時撤退だ!」

 真朱は老人の剣を力任せに横に薙ぐと、布由を抱えて霧の中へ飛び込んだ。




 ショッピングモールの周りを警察が包囲し、更にその周りに野次馬が人だかりを作っている。立入禁止のパネルを組む警官、耐瘴気用防護服に身を包む警官、その全てにかな恵は声を張り上げる。

「中は濃霧よ、見えない分いつも以上に救護班は気をつけて」

 まだ中の瘴気はそれほど濃くはない。今なら防護服を来た警官たちでもなんとか救出に入っていける。

「霊符の準備は?」

「一巡しました!」

「結界を張るわ、二巡目も急いで」

「はい!」

 建物の周りを霊符を貼り付けた綱で取り囲む。それに術者が霊力を込めれば結界術が完成するが、霊符の綱が二巡、三巡と幾重にも取り囲むことにより、結界は強固になっていく。

 霊符の綱に霊力を送ると、ショッピングモールの建物全体が薄い半球状の膜に覆われた。

 結界の成立を見たかな恵は小さく息を吐き、後方へと指示を出そうとして――上空で、ガラスの割れる大きな音を聞いた。

 はっとして見上げた先には人影がある。その、翻る赤い髪。

「真朱くん!」

 真朱はかな恵の数メートル後ろに重い音を響かせて着地した。

「悪い、一時撤退してきた!」

「どうしたの!? 布由くん……!?」

「それが」

 布由は自身の旨をぎゅっと掴む。

「おじいさまが」

「……おじいさまって……月白春希つきしろはるきのこと?」

 眉をひそめたかな恵に、布由はただ頷いた。

「濃霧の中で穢奴を見失ったら、布由のじいさん?が奥から出てきたんだ」

「待って……月白春希はもう死んでるのよ」

 目を見張るかな恵に、真朱は首を横に振る。

「でも実際に出てきたし、攻撃を受けた。……骨まで響く剣撃だった」

 刀を受けた腕を見やる。びりびりとしびれた感覚がまだ残るようだった。

「……暗示を伴う幻影」

 かな恵は顎に手を当てて考え込む。

「月白春希の死亡当時、あたしを含めて複数の警官が遺体を確認してるわ。死者蘇生なんていう夢物語でもない限りは、本人であることはありえない。なら、可能性があるのは『布由くんの記憶から姿かたちを取り出した幻影と、攻撃を受けているという強い暗示』ね。変異したての穢奴がそこまでの力を持っているかどうかだけど……」

 かな恵は首を振った。

「とりあえず布由くんを向こうで休ませてあげて。あたしが結界を張ったから、どういうものであれ月白春希は出てこれやしないわ」

 にこりと微笑むかな恵に、布由は弱々しく頷いて見せる。

 真朱は布由を抱き上げて、近くの木陰に向かった。警官たちはせわしなく動いているが、一般人の目が届かない場所だ。真朱は木の根元に座り、布由を膝に乗せて抱いたまま放さなかった。

「布由、ここなら大丈夫だ。今は休め」

 これにも布由は弱々しく頷いた。

「でも、俺が、いかないと」

「布由」

「おじいさまなら、俺が」

「布由……!」

 真朱は、布由を抱く腕に力を込めた。彼の腕の中で布由は深呼吸をする。何度も、何度も。

「……おじいさまは、穢奴になったんだ。だから、俺が殺した」

 ポツリとつぶやかれた言葉に、思わず布由の顔を見る。

「……もう少しだけ、こうしていてほしい。そうしたら、元通りになるから」

 真朱は泣きそうな顔で頷くと、ますます強く布由を抱きしめた。




 布由は月白家という舛花家の分家の一つに生まれた。舛花家と同じく、武術や独自の術でもってあやかしや怨霊を退治することを生業にしてきた家だ。厳格な祖父、優しい父母との四人ぐらし。武術の鍛錬は厳しかったが、幸せだった。

 ――布由が、十歳の誕生日を迎えるまでは。


 布由が十歳を迎えた日から数日。祖父、春希の様子は少しおかしかった。所用で出かけていった父母を二人で見送り、家の中に入ると、やけに機嫌のいい春希に「道場へおいで」と言われた。

 春希は年老いてなお父の月雪を凌駕するほどに強い。そのため時々稽古をつけてくれることがあった。今日もそういう気分になったのだろうか、と厳格な祖父にしては柔らかい表情を疑問に思いながら、部屋で着替えを済ませ、道場に向かった。

 道場の奥で正座をしている春希は、普段着ている着物姿のままだった。普段であれば春希も剣道着に着替えるのに。首を傾げながらも布由は彼の前に正座する。

「今日からは月白の家にのみ伝わる術の訓練をはじめる」

「はい」

「鬼の気を取り込み自分のものとする術だ。やり方は知らずとも聞いたことはあるだろう」

 もういちど「はい」と頷いた。あやかしが稀に発見される話は聞いたことがあるが、鬼に出会った話はまだ聞いたことがない。ご先祖様は出会ったことがあるのだろうか、と呑気に考えていた。

「布由、服を脱ぎなさい」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。ただ、春希の表情がいつもの厳格さも、先程までの柔らかさも失って、固く暗くなったことだけはわかった。

「おじ、い、さま……?」

 なんだか恐ろしくなって布由はじりじりと後方へ退いた。しかし、春希の腕が伸びてきて、あっさりと体は床に倒される。

「なにを……!」

 張る気が布由の腕をつかんで抑えた。いつもは優しく頭をなでてくれる手が、熱を帯びている。

「お前ももう十だ。頃合いだろう」

 口の端をきつく吊り上げたその顔は、布由の知らない大人の顔だった。

「はな、はなし」

「怖がることはない。いずれ慣れる」

 引き攣れた笑いを漏らす彼に、怯えずにいられるはずもない。助けを呼ぼうと叫びたかった。しかし、粘着質な視線に絡め取られ、喉を絞められているかのように、声が出てこない。


 それから一年の間『訓練』は続いた。心も体も蹂躙されるようで、日に日に疲弊してはいっても、布由は両親に訴えることができなかった。それをすることは恥ずかしいことで、恐ろしいことのように感じられたからだ。

 しかし、同じ家で暮らしていて、敏感な両親が気づかないはずもなく、十一歳を過ぎた頃に『訓練』は両親も知るところとなった。

 祖父と父の激しい言い争い、謝りながら布由を抱きしめ泣き続ける母。家を出ると言って荷物をまとめ、母と布由を連れて出ていく父に、祖父はずっと何かを怒鳴りつけていた。


 その日から七年近く、布由は平和な日々を送った。世間を騒がせる穢奴についての報道が日に日に大きくなっていっても、小さな剣道場を営み続けていた。

 十八の誕生日を迎えた日、ケーキを用意して待っているという母の元へ、友人の誘いを断って帰った。誕生日にはどうしても『あのこと』を思い出す。安心できる人のそばで過ごしたかったのだ。

 空気がやけに生ぬるいことに気がついたのは、家まで数十メートルというところへ来たときだった。訝しむ気持ちはあったが、それが何であるかわかるでもなく、布由は家のドアを開いた。

「ただいま――」

 むせ返るような生ぬるい空気に覆われる。眉間にしわを寄せ、なにか匂うことに気づいた。なんの匂いだろう、と考えたところで、声をかけられる。

「おお、帰ったか、布由」

 びくりと体が震えた。その声はリビングから聞こえる。

「な……んで……」

 肩に掛けた鞄が床へと滑り落ちた。自分自身が崩れ落ちるのはなんとかこらえられた。

 血の海の中に、春希が立っている。黒く淀んだ黒目、白く濁った黒目。左右の側頭部に生えた二本の長い角。知っているはずの祖父の姿は、もはや異形と化していた。

 そして、布由は何か匂ったものはこれだったのだと、やっと気づいた。血の海に沈む、二人の人物が、己の両親であることにも――

「あ、あ」

 わななく唇。春希は声を上げて笑う。

「ああああ――!!」

 叫びだした布由が春希に飛びかかった。春希は刀を持たない方の手で、布由を弾く。

 したたか背中を壁に打ち付けられ、苦痛に呻く布由の頭で、ぱき、ぱき、と音が響いた。

「布由、私の宝! 月白の家のため、戻ってこい!」

 喜びに浸りきった声音に吐き気がした。ぱき、ぱき、と音はどんどん大きくなる。

「……なんだ、その姿は。お前……?」

 戸惑う春希に向かって再び駆け出した。今度は右手からぱき、ぱき、と音が響く。

「お前は一体――!」

 どす、と衝撃が腕を伝ってくる。右手の拳を春希に当てた、はずだった。

 しかし、右手はアメジストのような輝く鉱石に覆われ――春希の胸に、深々と突き刺さっていた。


 その後のことは布由もよく覚えてはいない。担当の刑事だったかな恵から、近所からの通報で駆けつけたことや、身柄引受人としてやってきた頼のことを教えられた。

 事情聴取を終え、舛花家によって用意されたのは、暮らした場所とも生まれた場所とも遠く離れた、神沢の家だった。




 布由は「もう大丈夫」と立ち上がる。眉根を寄せたまま、心配そうに覗き込む真朱に微笑んだ。

「大丈夫。俺はやれるから」

 立ち上がった真朱は、布由を抱き寄せた。何も言えずにいる彼に、布由は微笑みを崩さない。

「真朱がいてくれてよかった」

 真朱の背に、腕が回される。

「ありがとう」

 見上げると真朱は、顔を真っ赤にして目を見張っていた。


 結界の前で待機していたかな恵が、足音に気がついた。こちらを振り向く彼女に「もう大丈夫です」と告げる。

「……三十分経っても音沙汰が無いときは突入するわよ」

「はい」

 かな恵は眉をひそめてため息を付いた。

「無理してるんだったら承知しないから。 ……今日も頼んだわよ」

「はい」

 布由は困ったように笑い、真朱を伴って結界の中へと足を踏み入れた。


 ショッピングモールの中はもう一階まで濃霧が広がっていた。あたりを見回してみても、何がどこにあるのかは分かりづらい。

「二手に別れよう」

「……布由を一人にしたくない」

「まだ買い物客が中で倒れてると思う。穢奴を祓うのは早い方がいい」

 まだ真朱は納得しきれない様子だ。腕を組んで、その場から動かない。

「もしあのおじいさまが幻影だったなら、穢奴を祓えば消える可能性もある」

 真朱がぴくりと片眉を跳ね上げた。

「できるだけ早く見つけて祓いたい」

 真剣な面差しで言われては、真朱には食い下がれない。

「……一階を布由、二階はオレだ。無理はするなよ、いつでも撤退していいんだからな」

「うん。ありがとう」

 微笑む布由の側頭部で、ぱき、ぱき、と音が響きだした。――変身が、始まる。


 一階のフロアをゆっくりと歩いた。自分の足音だけが高く響き続けている。

 と、そこに、誰かの足音が重なりだした。

 ぴたりと足を止める。重なった足音も、ぴたりと止まった。

「……おじいさま」

 ゆっくりと振り返った先に、春希が現れる。

「よく戻ってきたじゃないか。褒めてやろうなあ」

 言葉とは裏腹に、春希が舌なめずりをした。その手に持つ刀剣を鞘から引き抜く。

「……おじいさまが……あんたが、俺の記憶を写した幻影だって言うなら」

 布由の拳を鉱石が覆う。それは鋭く長く伸びて、剣となった。

「あんた、ただの俺なんだ」

 眉根を寄せる春希。

 生ぬるい空気が頬をかすめた瞬間――布由が動いた。

 一足飛びに距離を詰め、春希に向かって剣を振り下ろす。ぎいん、と音を立てて剣は刀とかちあい、止まった。

「まるで化け物だな」

「ああ、そうだな」

 数回打ち合っては鍔迫り合いになる。火花が散りそうなほど力を込め、奥歯をきつく噛んだ。

「全く、可愛くなくなったものだ! あんなにも私に怯えていたお前が!」

 剣を、弾かれた。しかし、布由はバランスを崩しながらも、春希の腹に蹴りを一撃入れる。

「ぐ!」

 春希が呻いて後方へ飛び退った。

 布由が再び跳躍し、突きを繰り出す。体を捻って避けた春希を、横に薙いで剣が負う。

春希は体をのけぞるも間に合わず、胸部に一閃、一文字に血が吹き出した。

「ぐぁ……!」

 よろめく春希。布由は剣を振って血をはらう。

「おじいさまは穢奴になった」

 こつ、と足音が響く。

「だからもういない」

 言葉は言い聞かせるような響きをもつ。布由は静かに目を閉じた。

「だからもう、怖くない」

 大振りの一撃が春希の首を捉え――その首が、あっけなく飛んでいく。

 血の代わりに吹き出したのは黒いもやだった。体はぼそぼそと細かく砕けて床に落ちていく。

 そうして、最後に残ったものは黒い土くれと、木の葉が一枚。

「……? なんで、葉っぱなんか」

 首を傾げた布由はその葉を拾い上げようとするが、それもまた崩れ落ち、土になってしまった。

 ため息をついた布由は踵を返し、濃霧の中、二階を目指して走り出した。


 エスカレーターを駆け上がり、二階に上がってすぐのことだった。静かなフロアに、女のすすり泣く声を聞いたのは。

 真朱は声の主を探して濃霧の中をさまよう。瘴気の中で気配が探りにくいが、ものにぶつからないよう慎重に奥を目指した。

「ど……して」

 すすり泣く声が一層大きくなる。

「どうして」

 濃霧の中、少女が姿を見せた。

「どうして追いかけてくるの!!」

 彼女が激しく頭を振った。その瞬間、何本ものつららが頭上から次々と落ちてくる。数本を避け、数本を拳で割り、真朱は眉間にしわを寄せた。

 少女は床にへたり込んだまま、顔を覆って泣いている。

「こわい、こわいよ……だれか」

 しゃくりあげ始めた彼女の前に、氷が壁を作り出す。その氷の壁にいくつもの棘が生えてきた。

 泣きじゃくる少女に声をかけようと、口を開きかけ――真朱は、口を閉じ直した。自分のやるべきことは彼女を泣き止ませることではなく、人間に戻してやることだ。

 真朱はポケットから種を一つ取り出す。椿の種だ。それを氷の壁に向かって放りなげると、すぐに殻を割って芽が出た。激しい音を立てて芽は木になり、枝葉が伸び、氷の壁を侵食して割り裂いていく。

 がらがらと音を立てて壁が崩れ去っても、少女はこちらを気にすることなく泣き続けている。

「だれか、たすけて、たすけて」

 混乱の中にいるのだろうか、顔を上げもしない。

「今楽にしてやる」

 真朱が蹴りを繰り出した。それは少女の二本の角をたやすく折り、黒い霧に変える。

 少女は力を失い、床に倒れ伏した。

 霧が徐々に晴れていく。見えていなかった店の入口の他に、避難しきれなかった人々が通路の端で倒れているのも見え始めた。運良く彼らにつららの攻撃は当たらなかったようだが、もしあたっていたらと思うとぞっとして、全身を冷や汗が伝う。

「真朱」

 背後からの声に振り返る。小走りに駆けてくる布由に、真朱の顔がぱっと輝いた。

「布由! よかった、無事だったんだな」

「うん、大丈夫だった。穢奴はこっちにいたんだな」

 真朱はぺたぺたと布由の頭や頬を触る。

「ん、なに?」

「本当に無事か確かめてる」

 布由は小さく吹き出した。

「本当に無事だよ。それより、彼女を警察に引き渡そう。救護も手伝わないと」

「……そうだな」

 布由は少女を抱き上げ、階下に向かって歩き出す。

「真朱」

「うん?」

「ありがとう」

 布由が頬をほころばせる。

「オレはただ一緒にいただけだけどな」

「うん」

 でも、と布由は続けた。

「それが一番嬉しいこともある。言葉より、ずっと嬉しいことも」

 噛みしめるように言われ、真朱は頬を染める。返事の代わりに、ただ布由の頭を撫でた。

 

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花椿に鳴く 朝喜紅緒 @asakibenio

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