第3話 水の流れ着くところ

 道場の床の上に転がっている。背中に感じる床の冷たさに反して、腕をきつく握ってくる手は、顔にかかる吐息は熱い。動きたい。逃げ出したい。それなのに、動けずにいる。

「本当に可愛くなったなあ」

 その声が、その視線が、まとわりつくような粘性を感じさせて、唇が震えだす。見知ったはずの顔、見知ったはずの声。皺の多い優しげな顔も、しわがれた声も、いつもみているはずなのに――こんなにも、恐ろしい。

「きっと将来はもっと男好きのする顔になるだろうよ」

 顎を掴まれてひゅっと喉が鳴った。

 いやだ。やめろ。はなせ。

 そのどれもが細い息となって空気に溶け、消えていく。




 布由は、声にならない悲鳴を上げて跳ね起きた。

「え……?」

 頬を押さえ、その手で顎を、首筋をたどる。ひどく汗をかいていた。

 今彼は布団の上にいて、ここは道場ではなく自室である。そう自覚するのに、ずいぶんと時間がかかった。

 大きく息を吐いて額を抑える。祖父の夢を見るのは、久しぶりだ。

 何度か首を振り、布団を出た。重苦しい気持ちでキッチンに向かうと、水を一杯飲む。目を閉じて深呼吸。それでも出てくるため息に辟易して、今度は風呂に向かった。着ていた寝間着を脱いで浴室に入り、シャワーから水を出す。まだ冷たいそれを頭から被れば、体が震えた。

 窓から見える空模様はどんよりと暗く曇っており、雨を予感させる。

 今日は仕事が入っているから、早く出ないと。そう思っていると、不意に物音がした。シャワーを止める。浴室の、磨りガラスの扉越しに薄っすらと見える赤は、真朱だろう。

「どうかした?」

 扉を開けた瞬間、真朱が裏返った悲鳴を上げた。

「かかか顔を洗おうと思っただけだ! すぐ出ていくから!」

 まだ裏返った声で叫び、慌てて洗面所から出ていってしまう。

 布由は首を傾げる。が、自分が何も身に着けていないのだと気づき、眉根を寄せた。自分自身の頬を軽く叩く。だらしがない、と叱咤する。そうしながらも、裏返った真朱の声を思い出して思わず吹き出し、バスタオルに手を伸ばした。

「真朱」

 リビングにいた真朱に背後から声をかける。びくりと跳ねてから振り返るさまがおかしくて、笑みがこぼれた。

「さっきはごめん。ぼーっとしてて」

「いやまあ……うん……次からは気をつけて……」

 もごもごと呟いた真朱が不意に眉をひそめた。

「布由、真っ青じゃねえか。具合悪いのか?」

 駆け寄ってきて頬に触れられる。今度は布由の方がびくりと跳ねた。

「そういうわけじゃない。大丈夫」

「でもすげー冷たい」

 見上げれば眉根を寄せたままの真朱がじっと見つめてくる。

「……本当に大丈夫だから。ありがとう」

 微笑んだ布由は、キッチンへと向かった。朝食を、作らなければ。




 迎えにやってきた警察の車に乗り込んで、やってきたのは遠い廃村だった。もう誰も住む人のいない、荒れ果てた民家がぽつりぽつりと建っている。

「布由くん、真朱くん」

 車から降りると、かな恵が大きく手を降っている。二人は会釈をしながら駆け寄った。

「来てくれてありがと。毎回悪いわね」

「仕事ですから」

「そうは言っても毎回重労働だから」

 眉尻を下げて肩をすくめるかな恵。

「今回も山か?」

 真朱は廃村の奥に広がる山を見上げる。

「今回も山なのよ。……とは言え、前の神沢山よりも瘴気の範囲が狭いから、探索はまだ楽だと思うわ」

 かな恵は地図を広げた。赤いマーカーで囲まれた場所に二人は目をやる。

「今回の瘴気は今のところマーカーの場所にとどまってるわ。目撃された穢奴は猫の形を取っていたそうよ」

「まだそれほど大きくはない?」

「目撃されたときの大きさは少し大きめの猫、くらいだったそうよ。でも今はもう少し変形が進んでるかもしれないわね」

「分かりました」

 布由はうなずいて、地図を受け取った。

「じゃあ今から行ってきます」

「ええ、気をつけて」

 布由が真朱を視線で促し、二人は山へと入っていった。


 人の出入りがなくなり、荒れ果てた山道を進む。ときにうっそうと茂る草をかき分け、途切れた道の先を探しながら。曇り空の中では、山中の視界は晴れているときよりも悪い。瘴気の中へ入り、ものの気配が感じづらくなると、二人はますます慎重に歩を進めた。

 もうすでに布由は変身しており、頭部にアメジストの巻角が現れている。

「まずはマークの中心部に向かおう。瘴気は中心部が一番濃い傾向にあるから、力を蓄えている時期の穢奴が見つかりやすい」

「わかった」

 もともと布由はあまり話さない方だが、今日はいつにもまして口数が少ない。何かあったのだろうか、と横目で様子を伺っても、彼は気づく気配がなかった。

(何かあったんだろうなあ)

 声には出さずにひとりごちて、真朱は索敵に集中し直す。

「……あれ」

 伸びっぱなしの草木が生えた左手奥に、少し開けた場所があるのを見つける。そして、そこには崩れかけた積石と、体を丸める黒い猫の姿があった。

「居るな」

 布由もうなずく。

 この距離で視認できるということは、目撃されたときよりも大きくはなっているだろう。しかし、その他に変形は見当たらず、それほど大きな脅威には見えない。

「一気に仕留めよう。俺はこっちから、真朱はそっちからで」

 布由が左右を指さして刀を抜く。ほぼ同時に二人は駆け出した。

 物音に気がついた黒猫が顔を上げるが、それが動くよりも早く真朱が跳躍した。

「はああ!!」

 拳が触れる直前に猫はすり抜けるようにそれを避ける。真朱の拳は地面を割り、土と石の破片が空を舞った。

「布由!」

 振り下ろされた布由の刀が空を切り、地面を打った。猫は後方に飛び退る。更に距離を詰めようとして、真朱と布由はピタリと立ち止まった。

 黒猫は毛を逆立てて威嚇する。その背に、ぼこり、と棘が生えた。ぼこ、ぼこ、と首の後ろから尾の付け根まで棘が生えていき、次いで額に二本の角が生えた。

「変形した……!」

 猫が一足飛びに布由に襲いかかる。

「くっ!」

 体を横に反らすも爪が角に食い込み、ぼきりと中央から折れた。バランスを取り切れずに、布由の体が地面に転がる。

「てめえ!!」

 激昂した真朱の拳が猫の角を捉えた。角が粉々に砕け散り、瘴気の切が吹き出すと黒猫の雄叫びじみた悲鳴が上がる。黒猫は体をしたたか地面に打ち付けて悶絶した。二度、三度転がるうちに棘が抜け、黒かった体毛は茶トラの色柄に変わった。

「布由、大丈夫か?」

 駆け寄ってくる真朱に「うん」と返して、布由は立ち上がり体を払う。

「角はすぐに再生するから」

「そうか、他は怪我ないか?」

「大丈夫」

 真朱はほっと胸をなでおろした。

 布由は気を失っている茶トラの猫を抱き上げると、瘴気に再び侵されないよう霊符で結界を張ってやる。

「村に……」

 言いかけたとき、水滴がポツリと頬を濡らした。――雨だ。ぽつり、ぽつりと降り始めたそれは、あっという間にバケツを引っくり返したような土砂降りになる。

「少し戻ったところに大きな木があったから、そこでましになるのを待とう」

 猫を抱き上げたまま布由が駆け出し、真朱もそれを追って走り出した。


 程なくして大きな木の下にたどり着きはしたが、その頃にはふたりとも全身ずぶ濡れになっていた。布由が脱いだベストでくるんでやった猫だけがそれほど濡れず、小さな寝息を立てている。

 布由の体にぴたりと張り付き、肌が透けて見えるシャツが心臓に悪い。

「こいつ呑気だな」

 やましい気持ちをごまかしたくて、視線を猫に移した。

「動物だからな、こんなものだよ」

 布由はくすりと笑うが、その頬が青ざめている。

「……布由、今日体調悪いんじゃないのか」

 眉をひそめて見つめると、目を丸くして見上げてきた布由が、バツが悪そうに目をそらした。

「隠すようなことじゃないだろ?」

 咎めたい気持ちがあるわけではない。できるだけ声音を優しく作る。

「……その、今日昔の夢を見て」

 しばらくの沈黙の後、布由は雨音に消え入りそうな声で話しだす。

「嫌な夢で、でももう終わったことで」

 布由はぎゅっと猫を抱きしめる。

「……だから、体調が悪いとかではないんだ。情けないかもしれないけど」

 そうして、俯いてしまう。

 真朱は口を開きかけて、つぐむ。どう声をかけるか考えている間、何度かそれを繰り返す。布由はずっと俯いていて、どんな顔をしているかはわからない。

「雨の日は、嫌なことを思い出しやすい気がする」

 真朱はやっとのことで呟いて、布由の肩に手を回した。目を見開いた布由が、また真朱を見上げてくる。

「多分、寒いときも」

 そうして、布由の体を抱き寄せた。

「うん……そうだな」

 布由は緊張していた体を少し緩めて、真朱に身を寄せる。

 真朱にはそれ以上、踏み込むことができなかった。

 ――いつかは、聞かせてほしい。嫌だった過去、家族、布由の辛いことも苦しいことも。扉を開け放すように、傷口を見せるように。

 まだ、そう口にすることはできないけれど。

「雨、早く上がるといいな」

 半分は嘘で、半分は本当。そんな気持ちで口にする。

「……うん」

 少しの間をおいて返事をする布由に、抱き寄せる手が熱くなった。

 雨はまだ降りしきっている。望むと望まざるに関わらず、ここから動けるのは、もう少し先の話だ。




「布由、入るぞ」

 真朱は布由の部屋の前で扉をたたき、返事を待たずに中に入った。

 結局、穢奴探索の後に布由は風邪で倒れた。大丈夫大丈夫と言いながらこの有様で、布由としては少し恥ずかしい。しかし、真朱はどこか嬉しそうに、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている。

「ほら、昼飯」

 よろよろと起き上がると、お盆に載せた卵がゆを渡される。初めて粥を持ってきてくれたときには手づから食べさせようとまでしてきたのだが、流石にそれは気恥ずかしさが過ぎて断った。

「真朱」

「なんだ?」

「その……ありがとう」

 上目遣いに彼を伺うと、真朱は満面の笑みを浮かべる。

「お安い御用だ」

 こうしてみていると、人懐こく子供のような無邪気さがあるのに――と、雨の中の出来事を思い出して、思わず頭を振った。

「わ、どうした?」

 目を丸くする真朱に、なんでもない、とだけ呟く。

 そう、なんでもないのだ。頬が赤いのも熱いのも、全ては熱のせいなのだから。

 

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