第2話 花の便り
真朱が布由の家で暮らし始めてから数日が経った頃、彼は訪れた。
ちょうどその時は二人で洗濯物を畳んでいるときだった。ドアホンが鳴って、布由が立ち上がる。映像を確認すると、布由は「あ」と小さくこぼした。
「すぐに開けます」
ほんの少し慌てた様子で、小走りに玄関へ向かう布由の背中を見送る。ここ一週間でこの家を訪ねてきたものはほとんどいない。真朱は首をひねる。
「久しぶりだねえ、最近は忙しかったから中々来られなかったし」
「あまり気を使わないでください」
雑談をしながらリビングに入ってきたのは、布由と見知らぬ男だった。年は二十代半ばだろうか、布由と背格好が――雰囲気も、どこか似ている男。スタンドカラーのシャツとサスペンダーに綿のズボンを身に着け、その上から長めのカーディガンを羽織っている。青みがかった紫の瞳が印象的な黒髪の男だった。
「これおみやげのケーキね。二人で食べて」
「ありがとうございます」
布由は手渡されたケーキを冷蔵庫にしまう。
じっと男を見つめていると、彼はにこりと笑って手を振ってくる。なんとはなしにそれに会釈をした。
「本当に鬼なんだね。しかも
「……なんで知ってるんだ」
「そりゃあ僕が
「舛花……?」
眉間にしわを寄せる真朱にも、男は笑顔を崩さない。
「うん。古い家でね、あやかしや怨霊の退治屋を続けてるの。今はもっぱら穢奴祓いだけどね」
そのこととどう関係があるのか、と問う前に、やってきた布由が洗濯物をテキパキと片付け、ソファーとテーブルをきれいにする。二人に座るように促すと、温かいお茶を持ってきた。
男と向かい合わせに真朱が座り、布由は真朱の隣りに座った。当然のようにそうする様がうれしくて、ついつい真朱の口元が緩む。すると、前方の男は面白いものを見つけたと言わんばかりの良い笑顔になった。
「とりあえず、まずは紹介する。この人は
「本家……偉い人か」
「そこそこかなあ。当主はねーちゃんだから、僕はあんまり偉いって感じでもないよ。まあ、今日はそのねーちゃんの用事できたんだけど」
「
「うん」
頼はじっと真朱を見て、うんうんと一人頷く。
「ずっと一人で暮らしてた布由くんが鬼と二人暮らし始めるって言うから見てきてくれって」
「……連絡もせず、すみません」
「ああ、ねーちゃんも怒ってるわけじゃないよ。
布由は左右に首を振る。
「まあ、とにかく」
小さく頼が手を叩いた。
「どっちかっていうと心配してるとか老婆心とかの方だから。本当に見るだけで帰るつもりだし。ひと目で見極められるほど眼力もないしね」
真朱を見ながらにこりと笑う。
「パッと見た感じふたりともうまくやってるようで良かった。これから色々あるだろうけど、布由くんをよろしくね、真朱くん」
頼はカバンの中から薄くはない封筒を取り出し、机の上に置いた。
「これ、ねーちゃんから真朱くんに。色々入用だろうからって」
真朱は首を傾げながら封筒を手に取り、中身を覗いて「げ」と声を出す。
「こんなのもらう理由がねえぞ」
「言ったでしょ、うちは古い家だって。分家の子があやかしと暮らすならその支度をある程度整えてやるのも本家の仕事なの」
あとこれ、と言ってさらにカバンの中から取り出した包には、袴と長手甲が入っていた。「戦装束にどうぞだって」
椿の刺繍が縫ってある袴をしげしげと見ながら、おそらく生地に霊力を込めた糸を使ってある事に気づき、いい値段がするものではと口が開いてしまう。
「なんかあったらねーちゃんが後見人になることもできるってさ。ま、そんなの必要なさそうだけどね」
「色々考えてくださってありがとうございます」
「暇なんだよあの人。ナイショね」
頭を下げる布由に、人差し指を立てて見せる頼。
「ま、とりあえず買い物デートでもしに行ったらいいんじゃない?」
お茶を一口飲んで、彼は立ち上がる。
「それじゃね、また顔見に来るよ」
ひらひらと手を降って、布由ですら見送る隙もなく笑顔で帰っていってしまった。
「なんだったんだ一体」
呆然とする真朱に、布由は小さく微笑みを返す。
「昔から当主の天さんの代わりに走り回ってる人なんだ。情報収集なんかも積極的にやってて、穢奴やあやかしについてなら知らないことはないんじゃないかっていうくらい」
「へー」
「……今日はせっかくだから買い物に行こうか。バタバタして行けないでいたけど、外に来ていく服とか色々揃えたほうがいいだろうし」
真朱は自身を見やる。家や近所の散歩くらいなら与えられた着流しを着ていればいいが、街へ出ていくことがあればこれは少し目立つだろう。角は幻術で隠せるが、目立つことは極力避けた方がいい。
「スーツも一式あれば便利だし、普段着の和服と外用の洋服と……」
「なあ」
「ん?」
真朱は布由の袖を引っ張った。
「『デート』なのか?」
言われた布由は目を丸くし、ほんのりと頬を染める。
「いや、あの」
「……デート?」
少し顔を近づけると、ふい、と背けられた。一緒に暮らし始めて間もないが、どうやら布由は甘い雰囲気を出されるのに弱い。
「そ、う……かも……」
それでも素直に返事をしてくれるところが本当に愛おしく、真朱はにやけずにはいられないのだった。
きちんとサイズの合うものを仕立てようという、という布由の提案で、二人は馴染みの呉服屋に向かっている。
とりあえず、と今回着せられたのは黒い縦縞柄の着物で、布由の父が着ていたものだそうだ。どうやら体格が布由よりも真朱に近いらしい。その父親が今どこにいるのか、生きているのか、それとも死んでいるのかは聞かなかった。人と出かけるのは久しぶりだと、少し嬉しそうな様子を見せた布由に水を差したくはなかった。
隣を歩く布由が着ているのは、ボートネックのカットソーと綿のジャケット。濃い色のデニムも布由らしい、清潔な装いだ。
様々な店が立ち並ぶ中に小さな呉服屋を見つけると、布由はそこを指さす。
「ほら、あそこ」
中に入ると、色とりどりの反物や帯、小物などが目に入った。小柄な老婆がにこりと笑って出迎えてくれる。
「あらあら、布由くんお久しぶり。そちらはお友達?」
「お久しぶりです、寿子さん。……今日はこの人の着物が欲しくて」
真朱との関係をなんと言えばいいのか迷ったのだろう。珍しく布由の歯切れが悪い。
「まあ、そうなのね。じゃあ採寸からでいいかしら」
「お願いします」
真朱は店の奥の畳の間に上げられると、真っ直ぐ立つように指示される。
「あらやだ、大きくて届かないわ……布由くん、メジャーの端を持ってもらえる?」
布由は頷くとメジャーの端を持ち、首の後ろでとめる。
「ありがとう。ええと、あなたお名前はなんていうのかしら」
「真朱だ」
「真朱くんね。真朱くんは何色が好きかしら? どんな柄が好き? 最近は若い人向けの柄も出てるから、きっと気に入りのものが見つかるわ」
テキパキと採寸しながら寿子はくすくすと笑う。
「なんだか月雪くんを思い出すわね、懐かしいわ」
真朱が首を傾げる。布由は小さく「父さんの名前」と呟く。
「布由くんたちはよく家族で来てくれたのよ。月雪くんも大きい子でね……あら、このお着物、月雪くんのかしら? うちで仕立てたやつよね?」
「はい。真朱が着られるサイズのものがなくて」
「あらあら、本当に懐かしい」
寿子は目を細めて微笑んだ。
「今日は何を仕立てましょうか? 真朱くんはきれいな赤い髪だから、墨色も似合うけど爽やかなお色も似合いそうね」
「今日は訪問着と普段着られる軽いものをお願いします」
「わかったわ。じゃあ次は生地を選びましょうか。ちょうどいいのが入ってきててね」
寿子は店の奥から反物を何本も持って来る。真朱が思わず「長くなりそうだな」とこぼすと、布由が眉尻を下げて微笑んだ。
放っておくと際限なく反物や小物を広げていく寿子を「次に寄る場所があるから」と布由が止め、濃灰色の訪問着を一式と、薄茶色の普段着を一本、最近『若者向け』に取り扱い出したという化繊の普段着を一本買うことにした。
去り際に店の奥から両端に飾りの付いた一本の黒い紐を取ってきた寿子は、おまけだと言って笑う。
「そろそろ暑くなってくるでしょう? 髪を結えるものがあると便利かと思って。今結っていく?」
頷くと真朱は紐を受け取り、長い後ろ髪を一つにまとめて結った。
「垂らしていても素敵だけど結ってもかっこいいわねえ、男前は得よ」
「ありがとな、ばあちゃん」
ころころと笑う寿子に礼を言い、二人は呉服屋を後にした。店先が見えなくなる程度に歩き、真朱が大きく息を吐く。
「疲れたって顔してる」
「疲れたっていうか、勢いに負けっぱなしだったからな……元気なばあちゃんだ」
「うん。ずっと元気でいてくれると嬉しい」
どこか寂しげな瞳を見つめていると、布由はふっとほほ笑みを浮かべた。
「残念なお知らせかもしれないけど、今から真朱のスーツを買いに行くから」
「う……スーツ要るか……?」
「何かと便利だよ」
「うー……わかった。試着とかするんだよな……?」
がっくりと項垂れる真朱を布由はじっと見つめる。そんな彼を見下ろして、真朱は首を傾げた。
「真朱って人間というか……人間の暮らしに慣れてるよね」
「あー……山は暇だからな。ちょいちょい下りて遊んではいた」
「遊ぶ……って、どんなふうに?」
うーん、と真朱は頬を掻く。
「幻術使って人間のフリしながら街の散策が主だな。たまに人間に混じって日雇いの仕事をしたりもした」
「仕事も」
これには布由も目を丸くする。
「よくそれで正体がバレなかったな……」
「運が良かったんだよなあ。まさか保護するような法律ができてるとは思わなかった」
基本的にあやかしは人間より弱い存在ではない。純粋な力では人間に劣るものも居るが、そもそもが物質的な生活や交流とは異なる場所で生きている。頭数が少ない種族であっても、それに困っているわけでもない。それを人間が保護だの観察だのと言い出したのには驚いたが、これも人間が隆盛を誇り、その数をあやかしなど比べ物にならないほど増やしてきた結果なのだろう。
「まあ今日でようやく、遊びに来るのと、そこで暮らすのとの違いはわかった」
「そっか」
返事はそっけないが、布由は目を細めて微笑んでいる。見守るような暖かさを感じるのは、気の所為ではないだろう。
呉服屋で買った小物に加えてスーツも靴も、となると荷物は結構な量になる。二人して両手に買い物袋をたくさん下げながら、夕方の街並みを歩いた。
昼を過ぎたあたりから出歩く人が増えたためか、妙に視線を感じる。大男が沢山の荷物を抱えて歩いているのだ、さもありなん、とはじめは思っていたが、中には熱っぽい視線を向けてくる者も居る。女の視線もあれば男の視線もあり、布由は性別関係なくモテるんだなあ、などと考えた。
「真朱、少し休もうか」
布由が指差す先には、コーヒーショップがある。
「……というか、気になる期間限定の飲み物があって」
「ん、気になるものがあるなら行こうぜ。今日は俺の用事ばっかりだったからな」
「うん」
ありがとう、と微笑む布由の表情は少し幼い。二人でいるときの彼は、他の誰かが一緒にいるときよりも子供っぽい表情をする。それが気を許してくれている証であればいい、と思った。
店内に入ると、中は人でいっぱいで、席は埋まってしまっているようだった。
「うーん、外歩きながら飲もうか」
「いいぞ。布由は疲れてないか?」
「俺は全然平気」
そういえば革靴で山を探索できるんだった、と胸中にひとりごちた。薄い体に花のかんばせ、儚げな雰囲気につい忘れがちになってしまう。
布由は店員に生クリームがたっぷり絞られた、オレンジや赤色をしたフラッペを頼み、真朱はどうするのかときいてきた。メニューを見ても見覚えのないものが並んでおり、どうするかと思案した後に、知った単語が含まれている方がいいだろう、とほうじ茶ラテを頼む。
「真朱って甘いもの好きだった?」
「好きってほどじゃないが嫌いじゃないな」
「そっか」
商品を受け取って店を出、真朱はほうじ茶ラテに口をつけてみる。
「……甘い」
「やっぱり」
「まあ飲めない甘さじゃないしうまいからいいか……」
布由は隣で小さく笑う。
「布由のそれはどんなやつだ?」
「ん、これ? 甘くて冷たくて……ええと……飲んでみる?」
説明が面倒になったらしい布由が、真朱にストローを向けてくる。
「……あ、俺が口つけたやつだからやっぱり」
言いさしてその手を引っ込めようとした瞬間、真朱はストローに勢いよく噛みつく。そのまま一口吸い上げ、口を離した。
「冷たくて甘いな」
唇を親指で拭う。目を見開いて真朱を見つめていた布由の顔が徐々に朱に染まっていった。
「……気障」
ポツリと呟いて先へと歩き出す布由は耳まで真っ赤になっている。どこか照れくさくなって、真朱もそれを隠すために「へへ」と笑った。
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