花椿に鳴く

朝喜紅緒

第1話 夜明けの瞳

「この辺も食えるものが減ってきたなあ」

 真朱まそおは低木をかき分けてひとりごつ。彼の頭から生えた二本の枝のうちの一本、その根本をかきながらため息を付いた。

 真朱は鬼である。人里を離れ、神沢山と呼ばれるこの場所で数百年を生きてきた。草木の精気を食料とする彼は、いざとなれば雑草でも食べられる。そのため食うに困ったことは殆どなかったのだが――

「瘴気が濃い……ここ数ヶ月移動は繰り返したが、山全体が限界か」

 またため息を付いて空を仰いだ。

 瘴気、すなわち霊的な病の原因となる気。人里からの噂によれば、ここ数年瘴気が濃く発生し動植物に影響を与える被害が多発しているらしい。ただ病に陥るだけならまだしも、穢奴えどと呼ばれる異形のものとなって破壊活動に及ぶようになるというから迷惑な話だ。

 数ヶ月前にこの山にもとうとう瘴気が発生し、ねぐらにしていた廃神社の周辺はもはや立ち入ることも難しくなってしまった。幸いまだ穢奴には遭遇していない。しかし、何度場所を移動して瘴気に侵されていない植物を探し回っても、見つけることがどんどん困難になってきている。

 「腹減ったなあ……」

 ぐう、とちょうどよく腹が鳴る。長い間まともな食事をしていないせいで、紅葉の色の長い髪は毛先が黄色く変色してしまっている。筋骨隆々とした体躯であったはずが、少しばかりやせ衰えた。顔を洗おうと覗き込んだ川のに映った自分は、垂れた目とつり上がった眉は健在であったものの、頬骨が主張を増して見えた。

 三度、ため息を付きそうになったとき――がさ、と茂みから音がした。

 振り返ると同時に黒いものが喉元めがけて飛びかかってくる。

「しまっ……!」

 衝撃を受け、真朱の体は後方に倒れた。

 犬。黒い犬だ。長身の真朱に迫るほどの体長の、犬。唸りを上げて喉に食いつこうとするのを、顎を掴んで阻む。

「くっそ……力でねえ……!」

 平素なら後れを取るような相手ではない。しかし、ろくな食事を取れないまま数週間を過ごした身では分が悪い。突っ張った腕がガクガクと震えだした。その間も、黒い犬は地面を蹴り、勢いをまして真朱を喰らおうとしてくる。

 黒犬が咆哮する。山中に響いたであろうその声はびりびりと腕に響いて、汗に濡れた手が、滑った。

「ぐあっ」

 とっさに身をひねるが肩に食いつかれる。やめろ、と叫んで犬の腹を蹴るも、今の真朱では大した攻撃にはならない。

 ――何百年と生きて死因がこれかよ!!!!

 胸中に毒づいたその時、がさ、とまた近くの茂みで音がした。新手か、と身構えた瞬間、横からの衝撃が真朱を襲う。が――吹っ飛んだのは、黒犬の方だった。

 ぎゃん、と犬が吠え、したたか地面に打ち付けられて転がる。

 何が起こったのかと身を起こそうとして、肩に走った激痛に悶えた。

「怪我、ひどいから動かないで」

 上から声をかけられる。優しげな男の声だ。

 見上げると、目に入ったのは紫の瞳。夜明けの色、赤みがかった紫だ。さらりと流れる短い黒髪はつややか。肌の色は白くシミ一つない。こちらを覗き込む顔の美しさに息を呑んでいると、顔の上にひらりと細長い紙が舞った。

 肩の怪我が更に熱を持つ。治癒の霊符だ、と気が付いた。

「少し寝てて。すぐに終わる」

 たん、と軽い音がする。男が地面を蹴ったのだ。体が震えるほどの咆哮が響いて、同時に真朱は気を失った。




 人の話し声が聞こえる。どうして、と疑問が湧いたところで、目が覚めた。

「あら、起きたのね」

 女の声を聞きながら体を起こす。白い天井、自分が寝かされていたのはこれもまた白いベッドの上で、ここはどこかの室内だとわかった。

 ベッドの横には2人、人間が座っている。スーツ姿の髪の短い女が一人。もう一人は――先程見た、夜明けの瞳の男、だった。

「怪我がひどいから山から降りてもらったの。ここは神沢市の警察署よ。治療は済んでるけど、どう? まだ痛む?」

 女が指差すのにつられて、左肩を見た。真っ白な包帯が巻かれているが血は滲んでおらず、思い切って肩を回してみても痛みはなかった。

「いや、大丈夫みたいだ。ありがとう」

「どういたしまして。結構血が出てたからね、しばらくは無理しないで」

 女がはつらつとした笑みを浮かべる。真朱は「ああ」と短く笑顔で返した。

「とはいえ、しばらくはこっちの保護下に入ってもらうことになるから無理しようにもできないんだけどね」

「保護?」

 真朱が眉をひそめると、女は眉尻を下げて微笑む。

「瘴気の影響を見るため、というのが一つ。もう一つは、人間に発見されたあやかしは安全だとわかるまで警察か、その信頼する民間の祓い屋の元で保護することになってるの。この国の法律よ。人間の法律になんで……って思うかもしれないけど、従ってくれると嬉しいわ」

 真朱は女をまじまじと見やる。肌はつるりとして若々しく、栗色の髪と瞳には光がさし、しっかりと生気を感じさせた。目尻はやや釣り上がり、勝ち気に見える。はきはきと喋る堂々とした態度には好感が持てるが、いかんせん決定事項として述べられる内容には抵抗がある。

「条件次第だな。やれ拘束だ投獄だ、なんてことになれば流石に逃げるぞ」

「まさか! 衣食住保証の上であなたが安全かどうか見させてもらうだけよ」

 からからと女は笑う。

「……そういうことなら」

「ありがと、協力的で助かるわ」

「いや。こっちも助けてもらったからな。……その、あの黒い犬……穢奴っていったか? はどうなったんだ」

 今度は、女の隣に座る男を見やる。先程見たときと変わらず、吸い込まれそうな深い色の瞳。見惚れていると、男は真朱の視線を気にもとめない様子で口を開いた。

「倒した。あいつが山全体の瘴気の原因だったんだ。助けられるかと思ったけど、もう犬そのものが瘴気の塊みたいになってて無理だった」

「そうか」

「その後気絶してるあんたを連れてすぐに山を降りた。今は警察が瘴気の浄化にあたってる。保護観察期間が終わる頃には、あんたも山に戻れると思う」

 淡々とした口調だが、声は柔らかく優しい。

「真朱」

 口にすると、男が首を傾げた。

「オレの名前。真朱。アンタは?」

 ああ、と短い返事をして、男が落ちてきた髪を耳に掛ける。

月白布由つきしろふゆ

「ふゆ」

 復唱すれば、布由が小さく頷いた。

「ついでに、あたしの名前は柳かな恵よ。よろしくね」

「ああ、世話になる」

「早速だけど、身元を警察に預けたいか、こっちの布由くんに預けたいか、希望はある?」

 真朱は目を瞬かせる。かな恵をじっと見つめ、今度は布由をじっと見つめた。

「希望していいのか?」

「どっちの方がいい環境かとはいえないけど、今の時点で希望があるなら聞けるわよ」

「……じゃあ、布由の世話になりたい」

 今度は布由が目を瞬かせた。

「決まりね。面倒な手続きはやっといてあげるから今日はもう二人で帰りなさいな。布由くんもお疲れ様」

「お疲れ様です」

 軽く頭を下げ、かな恵は部屋を出ていく。扉が閉まると、彼女の後ろ姿を見送った布由がこちらに向き直った。

「……歩ける?」

「多分大丈夫だ」

「じゃあ、行こうか」

 ベッドから降りて立ち上がると、失血のためか少し目が回った。

「本当に大丈夫?」

「これくらいなら平気だろ」

「……まあ、うち近いから」

 歩きだした布由に従い、真朱も部屋を出た。

 廊下をしばらく進み階段の前に差し掛かると、やけににやけた顔の中年の男が2人こちらをじろじろと見てくる。ここの刑事なのだろうか。何事かと自分の体を見下ろすが、裸足に袴、上半身は裸の上に包帯を巻いているだけ、と人間にとっては怪しいところしかない。

「鬼喰いのニイチャンが鬼連れてんじゃねえか」

「帰って食っちまうつもりか? あ?」

 男二人が声をかけたのは布由の方だった。鬼喰い、と口の中で反芻している間に、布由は階段へ向かってしまう。完全に無視された男二人が口を大きく開いた瞬間、後方から「こら!」とかな恵の声が聞こえてきた。

「まーたあんたたちはいいがかりつけて! 懲りないわね!」

「へいへい、申し訳ありませんね」

 男たちは舌打ちをして廊下の奥へ歩いて行く。

 かな恵はその後姿にふん、と鼻を鳴らして、階段の方へと歩いていく。

「ごめんね布由くん、うちのが迷惑かけて」

 階段の下の踊り場に立っていた布由は、首を横に振った。

「気にしてない。柳さんもお疲れ様」

 かな恵はもう一度ごめんね、と眉をひそめ、手を振る。それに会釈で返し、一度真朱を確認するように見やってから布由は歩き出した。

「なあ」

「ん?」

「鬼喰いってなんだ?」

 布由は速すぎず、ゆっくり過ぎない歩調で歩いて行く。真朱は、その後ろを一歩遅れてついていく。

「言いにくいことならいいんだけど」

「言いにくくはないよ。俺の家系に伝わる能力というか術の話。房中術の派生みたいな術で、鬼の気を取り込むことができるってだけだから」

 本当に食べるわけじゃない。さらりとそう付け加える布由の背筋はしゃんと伸びていて、歩く姿も美しいなと感心する。

 真朱はなるほど、と相槌を打った。そして、房中術の派生、と胸中にひとりごつ。それはつまり、まぐわいが関わる術ということではないか。

(え、それじゃそっちの意味で喰われることはあるのか?)

 疑問に思った瞬間は少しドキドキしたが、すぐに布由はそんなことはしないだろうという考えに至り、深呼吸をして自身を落ち着かせた。




 警察署を出てあたりを見回す。空は青く、雲は白い。まだ昼なのだ、と理解する。穢奴に襲われたのは朝食を探し歩いている最中だった。どうやらそれほど長く意識を失っていたわけではないらしい。

 キョロキョロしながら数分歩くと、閑静な住宅街の中に入り、やがて布由の家にたどり着いた。一軒家の横に平屋の離れがある、大きな家だ。

「ただいま」

 布由は玄関の鍵を開けて中に入り、そう呟いたが、返事はない。しん、と静まり返った家の中は暗い。

「入って。一人暮らしだから気兼ねしなくていいよ」

 靴を揃えて中に入り、布由はタオルを持ってきた。足、と言われて、大人しく足首から下をきれいに拭く。

「お邪魔します」

 中に入ると、布由が不思議そうにこちらを見てくる。

「お、なんだ?」

「いや……真朱さんって、人間慣れしてるなと思って」

「たまに人里に降りて情報収集くらいはするからな。あと、呼び捨てでいいぞ」

 案内されるままにリビングに入る。ソファーとローテーブル、テレビが置いてあり、奥にはカウンターキッチンとダイニングが見えた。きれいに片付けられた部屋からはあまり生活感を感じなかった。と、いうよりも、誰かが暮らしていたあと――そんな印象を受ける。

「布由はよくあやかしの受け入れをするのか?」

「いや、あんまり。たまに頼まれて小動物型の世話をするくらいで……真朱みたいに意思疎通できるあやかしははじめて」

 はじめて、という言葉に得も言われぬ感動を覚える。腹がムズムズするようなこそばゆい感覚はなんだろう。「先に風呂入る?」

「あ、臭かったか?」

「いや、臭くはないけど。地面に転がってたから入りたいかと思って」

 真朱の、自分の匂いをスンスンと嗅いでいた動きが止まった。今更ながら、一番格好悪い出会い方をしたのではないか、と気づいてしまう。

「た、たしかに埃っぽいかも……」

 ぐうう、と大きく腹の虫が鳴り、真朱の言葉を遮った。

「お腹空いてたのか」

「はい……」

「なにか作るよ。人間の食べ物は食べられる?」

「うん……」

「作ってる間にシャワー浴びてもらえれば」

「わかった……」

 風呂場へと案内する布由の後ろを、肩を落としてついて行く。

 湯の出し方などを一通り教え終わると、布由は着替えとタオルを用意しに行ってしまった。真朱は着ていた袴を脱ぎ捨てる。途端に上がった土埃に咳き込み、土まみれの上ほころびだらけのそれに大きなため息をついた。よくこれで人間が家に上げてくれたものだ。せめてピカピカに磨いて見直してもらおうと決意し、水栓を上げる。

 頭から湯を被り、まずは体を洗うために石鹸を手に取った。そうしながらきょろきょろと風呂場を見回す。リビングと同じく清潔に磨かれた空間は、布由を生真面目に思わせるには十分だった。

 生真面目そうで、どこか浮き世離れした、とても綺麗な人間。今まで出会ったことがない類の人間だ。しかし、興味をそそられるというと違和感がある。単純にもっと原始的な感情のほうがしっくり来る。あの夜明けの瞳をもっと見ていたい。柔らかそうな肌に触れてみたい。さらりとした黒髪にも。優しい声をもっと聞かせてほしい。

 ――一目惚れ。

 その言葉がよぎった瞬間、ぼっと火がついたように顔が赤くなった。




 浴室の外に用意されていた濃紺の着流しを着て、リビングに戻る。布由は四人がけのダイニングテーブルに、大皿に盛った大量の野菜炒めを置いたところだった。

「着物、着れた? 昔譲ってもらった大きなやつだったんだけど」

「ああ、十分だ。ありがとな」

 改めて自分を見下ろす。だいぶ着崩してしまっているが、布由は特に気に留めた様子はない。

「なんか悪いな、こんなに作ってもらって」

 テーブルに目を移すと、煮物や小鉢の和え物、先程の野菜炒めに、米と味噌汁まで用意されている。

「どれくらい食べるかわからなかったから、とりあえず出せるもの全部出しといた。残り物もあるけど」

 布由は多かったかな、と首を傾げる。

「無理して全部は食べないでいいよ、口に合わなかったら外で買えばいいし。おれもシャワー浴びてくるから適当にしておいて」

 椅子を引いて真朱を座らせ、布由は風呂場へと消えてしまう。

「脈どころじゃねえなあ……」

 未練がましく閉じられたドアを見つめて、小さなため息を付いた。

「まあ会ったばっかりだしな、今朝だし……」

 乾いた笑いを漏らして食事に向き直り、手を合わせた。いただきます、と箸を手に取る。まずは山盛りの野菜炒めに箸をつけた。口に入れた瞬間野菜の甘味と塩味が広がる。

「うまい」

 思わず目を輝かせてしまう。精気がじんわりと全身に広がって、体の緊張もほぐれていくようだ。

「味噌汁もうまい……」

 豆腐とネギの味噌汁に口をつけ、優しい味わいに息を吐く。次は大根の煮物に手を伸ばし、これもまたよく味がしみているとゆっくり噛み締めた。

「料理っていいなあ……」

 料理など口にしたのは百年ぶりだろうか。山ぐらしで文明の利器も使わず、選り好みをする余裕もなくなってきているとなると、味など気にしていられない。良質な精気さえ摂取できればいい、という考えで野草や花をただ食べてきた。これはもしかしたら癖になってしまうかもしれない。

「食べれそう?」

 いつの間にか、布由が部屋に入ってきていた。きっちりと着付けられた薄水色の着流しがよく似合っている。清潔感があるはずのその姿に、妙に色気を感じて真朱の心臓がどきりとはねた。

「あ、ああ、すげえうまい」

「ならよかった」

 ふっとかすかに微笑んだ布由に、思わず箸を落としてしまう。

「あ」

 床まで転がった箸を慌てて拾う。

「新しいの出すから待ってて」

 布由が落ちた箸を受け取る。食器棚から新しい箸を取り出して真朱に手渡し、落ちたものをシンクで洗った。

 真朱は、嫌な顔ひとつせずに自分の世話を焼く布由をじっと見つめる。とても甲斐甲斐しい。面倒見がいいのだろうか。保護観察対象だからと丁重に扱われているのだろうか。どちらにせよこの甲斐甲斐しさは、新妻――

 そこまで考えて、また瞬時に顔が真っ赤に染まった。正気に戻らなければと自分の頬を両手で思い切り張る。すると「わっ」と声を上げた布由と目があった。

「悪い、なんでもないんだ。気にしないでくれ」

 目を何度か瞬かせた布由が、真朱の向かいに座る。

「変なの」

 今度は、小さく声を立てて笑った。




 書類仕事に追われながら山の浄化の様子を見て数日を過ごし、かな恵はタイピングの手を止めないまま大きく欠伸をした。中々まとまった睡眠時間が取れないままでいるが、そろそろ仮眠がしたい。

「柳さん」

「なあにぃ?」

 画面から目を離さずに、男の声に返事をする。

「浄化班から電話が」

 眉をピクリと動かして手を止めた。

「わかったわ」

 転送された電話を受け取ると、まずざわめきが聞き取れる。

「どうしたの?」

「柳さん、それが……現場に来栖さんが来てまして」

「来栖が……?」

 来栖といえば、30代なかばの刑事だ。近年設立された警察の部署――ここ、穢奴対策課でも中々の腕を持つ刑事で、穢奴討伐で特に成績を上げる事が多い。そのためか功を焦るきらいがあり、外部協力者の布由を妙に敵対視しているところがある。数日前も布由と真朱に絡もうとして空回りしたばかりだ。

「浄化が遅いと言われたんです。なにかまだ瘴気の源があるのかもしれないと説明してんですが」

「来栖に替わってもらえる?」

「わかりました」

 暫く待つと、ガサガサと物音がして、いかにも不機嫌そうな低い声が聞こえてきた。

「なんですか」

「なんですか、じゃないわ。どうしてそんなところに行っているの? 浄化中も危ないから浄化班以外は近寄っちゃいけないことくらいは覚えてるわよね?」

「なあ柳さん、俺らはいつまで『部外者』に頼って戦うんだ?」

「……は?」

「あいつは瘴気の中を歩くことを許されて、俺らはなんでだめなんだよ」

「それは……」

「もう我慢ならねえんだよ、大して力もないアンタみたいな女のいうことを聞くのも、部外者に譲り続けるのも!! おれはそんなことのために訓練受けてこの課に入ったわけじゃねえんだ!!」

 言い捨てられ、電話は途切れた。

「え、ちょっ……待ちなさいよ、来栖!!」

 部屋の中がざわめき出す。慌てて浄化班に電話をつなぎ直したが、先程よりもざわめきが強い。

「来栖は!?」

「それが……まだ穢奴が居るかもしれないと言って瘴気の中に……!」

「っ……! あいつ!! すぐに人をよこすからあなた達はそのまま作業を続けて。瘴気の中に入ろうなんてしちゃだめよ、絶対!」

 電話を切って深呼吸をする。こういうときこそ落ち着かなければならない。

 瘴気の影響をどの程度受けるかは人によって差がある。瘴気の中に入れば誰でもすぐに穢奴になるわけではない。しかし、瘴気から身を守る防御結界を貼れないはずの来栖ではすぐに汚染が始まるだろう。功を焦り負の感情を爆発させてしまった様子の彼であれば、汚染は恐ろしく早い可能性が高い。

 かな恵は再び電話を取る。コール音が3回、はい、と短い返事。

「布由くん?」

「はい。……仕事ですか」

「ええ。悪いけど、緊急よ。神沢山でまた探索からお願いしたいの」

 電話を強く握りしめ、きつく唇を噛んだ。




「真朱、仕事に行ってくる」

 布由は電話を切り、リビングのソファーに座っている真朱をに声をかける。

「穢奴がでたのか?」

「出るかもしれないって段階かな」

「なあ、オレも行きたい」

 布由は首を横に振った。

「俺が行くのはいつも瘴気の濃い場所だ。真朱を連れて行ったら真朱が穢奴になりかねない」

「それなら大丈夫だ、もう飯食って力も付いたし」

 小さく首をひねる布由。真朱は自分の頭に生えた枝を指差す。

「もともと花鬼は体内の毒素を排出する能力が高いんだ。瘴気も一緒だ、枝から花にして外に出せる」

 布由は目を見開いた。

「足手まといにはならないから、な?」

 にこりと笑う真朱。そういえばあの瘴気の中を空腹で歩き回っていたにも関わらず、真朱は瘴気に侵食され始める兆候さえ見られなかった。

 でも、連れていけば。瘴気の中にともに入れば、真朱に改めて『見られる』ことになる。疑問に思うでも、聞くことを遠慮をしている様子でもないということは、黒犬から助けたときのことはあまり見られていなかったか、忘れてしまっているかのどちらかだ。できればこのまま知られずにいたい。

 しかし、山の探索から、が任務の内容だ。山で暮らしていた真朱が一緒に行けば、探索は遥かに円滑に行うことができる。

「……そういうことなら。ただし、俺のそばは離れないで」

 真朱が少し肩を落としたような気がしたが、気に留めている暇があるわけでもなく、布由は急いで着替えに向かった。

 糊の効いたシャツに、薄灰のスラックスとベスト。着替えると気持ちが自然に切り替わる。霊符を入れる革のポーチを、一つはベルトで胸の横に固定し、もう一つは右の太腿に固定する。刀をベルトで固定し、深呼吸を一つ。

 望まぬ姿を人に晒すことであったとしても、それが何をもたらしたとしても。受け入れられる。そうでなければ、ならない。




 迎えにやってきた警察の車に乗り、真朱と布由は神沢山の麓まで移動した。麓は立入禁止の看板やパネルで囲まれて封鎖されており、パネルの内部には霊符が張り巡らされている。

 車から降りると、他の警察官と話をしていたかな恵が駆け寄ってきた。

「ごめんね布由くん! ……って、真朱くんも来たの?!」

「瘴気の影響なら受けないし、問題ないってついてきた」

「……ええと、ああもう、いいわ! 何かあったら責任は取るからよろしくね。 で、早速なんだけど」

 かな恵が1枚の写真を取り出す。写っているのは髪をすべて後ろに流した、中年のスーツ姿の男性で、眉間に深いシワがよっているのが印象的だ。

「あれ、こいつ……」

「署で絡まれたんで真朱くんも知ってるかもしれないわね。うちの刑事で、来栖明よ」

「なんだって刑事が瘴気の中なんて入ったんだ? 危ないことくらいわかってるだろうに」

 目を丸くする真朱にかな恵は首を横に振ることしかできない。

「穢奴を倒して成績を上げて、早いとこ昇進したかったのかもしれないけど。あたしの下で働くのもかなりストレスだったようだし」

「え、かな恵偉いやつだったのか」

「ええ、ちょっと偉いやつだったのよ、実は」

 更に目を見開く真朱に、わざと神妙な顔でうなずくかな恵。

「ともかく、今回の任務は来栖の捜索と早急な確保。銃も持ち出してるから気をつけて。ただ、もし来栖の汚染が進みすぎて穢奴になっていたら――討伐に切り替えて頂戴」

 布由が静かに頷いた。真朱はなんと言っていいかわからず、戸惑いがちに頬を掻く。

「来栖は穢奴を探して瘴気の強い方へ移動してると思うんだけど……」

 かな恵は自分の車から大きな水晶玉を取り出してきた。目を閉じてそこに手をかざす。すると、水晶の中にぼんやりと黒く映像が浮かび上がった。真朱と布由も水晶玉を覗き込む。半分ほど崩れた屋根の建物、 傾いた鳥居。おぼろげだが、それが見て取れた。

「え、オレの根城だ」

「あら。じゃあ案内頼めちゃうわね。山の中で今一番ここが強い瘴気に覆われてるわ」

「うげー……」

「悪いけど急いで向かってくれる?」

「わかりました」

「了解」

 布由は真剣な面持ちで、真朱は大きなため息を付きながら、それぞれ頷く。

「じゃあ木の上移動するから、布由はしっかり掴まってくれな」

 は、と声を上げる間もなく、真朱は布由を抱きかかえた。

「え、ちょ」

 お姫様抱っこの形に収まり、布由は顔を真っ赤にして固まってしまう。

「これは流石に恥ずかし……」

 布由の言葉を待たず、真朱の足が力強く大地を蹴った。ぐん、と跳び上がった体は背の高い木の上部の枝へと着地する。

「喋ると舌噛むぞ」

 満面の笑顔で、真朱は次の枝へと飛び移った。

 残された警官たちとかな恵は、呆然とそれを見送る。

「鬼って積極的なのねえ……」

 ぽつり、と呟く声だけが残った。




 ざん、ざん、と大きな音を立てて木々が揺れる。真朱が飛び移るたびに木の枝が大きくしなって折れてしまいそうだった。

「真朱、もう降ろしてくれ! 自分でついていけるから!」

 猛スピードで木と木の間を移動する真朱にすがりつきながら、布由は叫ぶように懇願する。

「つってももう着くぞ、下降りるから口閉じてな」

 前方に、傾いた鳥居が見え始めた。奥には屋根の崩れた建物がある。水晶で見たものとたしかに一致する。

 とん、と驚くほど軽やかに、真朱は地面に降りた。そうしてやっと布由を解放する。

「ほら、早かっただろ?」

「心臓に悪い……」

 そうか?と首を傾げる真朱。布由は小さく息を吐いた。

「あ」

 真朱が声を上げる。彼の頭から伸びる枝に複数の芽が出て、あっという間に大輪の花を咲かせた。くろぐろとした大きな椿が咲き、そして地面に落ちる。

「流石に瘴気がすごいな。布由は大丈夫なのか?」

 声をかけた真朱の耳に、ぱき、ぱき、と硬いものが割れるような音が響きだした。その音は布由の頭部から聞こえてくる。

「布由……?」

 布由の頭部に、紫色の石が『生えた』。戸惑う真朱の前でそれはどんどん大きくなり、まるで羊のような巻かれた角となる。磨かれたアメジストの大きな角――

「心配いらない。これが俺の能力で、変身の一種だから。この姿のときは瘴気の影響を受けない」

 さらりと布由は言ってのけるが、変身というのはただごとではない。少なくとも真朱はそんな事ができる人間を今まで見たことがなかった。幻術を使って異なる姿を見せることを変身と呼ぶ連中がせいぜいだ。人間のように構成が物質に依った肉体を変質させる例は本当に見ない。

「すごいな、変身か。しかもきれいだ」

 笑顔の真朱に、布由は目を見張る。お世辞ではなく、変身後の布由も思わず手を伸ばしたくなるほどに美しかった。磨かれた宝石のような角がきらきらときらめいて、瞳に光が差す。そうすると瞳もまた宝石のように見えて、気に入りの宝物がますます輝きを増す気持ちになった。

 じっとまっすぐに見つめる真朱にたじろいで、布由は目をそらす。

「……ありがとう。その、今は急ぎだから、行こう」

 足早に鳥居をくぐって行ってしまう布由の後を、真朱は急いで追いかけた。


 ほとんど潰れかけた拝殿の前に立ち、二人はあたりを見回した。風に揺れる木々のざわめき以外は特に聞き取れず、また、瘴気のせいで気配に対する感覚が鈍くなっている。「中、入ってみるしかねえかなあ」

「その、ほとんど潰れてないか? ここ」

「意外と雨風しのげるんだよな。あと瘴気のせいで更に潰れてるみたいだけど、俺が住んでた頃はもう少しマシだった」

 傾き外れかけた戸を恐る恐る外してしまうと、真朱は中を覗き込んだ。

「んー、中には誰も……」

「っ! 真朱!!」

 叫んだ布由が真朱の腕を引き、後方に飛び退る。それとほぼ同時に、拝殿の真上が光り、轟音をまとって雷が落ちてきた。爆風と衝撃の後に目を開けると、拝殿は跡形もなく崩れ、ところどころに火がついている。

「なんだよ、避けれるのかよ」

 舌打ちが聞こえて、拝殿の後ろから人影が覗いた。

「おかしいなあ、お前人間じゃなかったのか。そんな格好じゃあただのバケモンじゃねえか」

 布由を舐め回すように見たかと思うと、引き攣れた笑いを漏らした、こちらへと歩いてくる男。くたびれたスーツ、後ろに流した髪は写真で見た来栖明のものだったが、写真と同一人物とは決していえないものになっていた。額の中央から青黒い角が一本、長く伸びている。その白目は真っ黒に染まり、黒目が濁った白色に変色していた。

「穢奴に……」

 きり、と布由が奥歯を噛んだ。

「討伐か?」

「そうなる、けど……瘴気の一番濃い場所を切り離せばまだ間に合いそうだ」

「なるほど」

「何ぺちゃくちゃ喋ってんだ!」

 来栖が銃を構える。布由はポーチから霊符を取り出し、前方へ突き出した。銃声が鳴り響き衝撃が腕を伝うが、弾丸は霊符の結界が弾く。来栖の眉間のしわが深くなり、彼の黒く染まった左手が天を指した。

「黒焦げになりな」

 再び轟雷が落ちる。前方に跳んでそれを避け、布由は抜刀した。真朱と目を合わせると、同時に来栖へと走り出す。

 打ち下ろした布由の刀を後方に跳んで避ける来栖。かすった角の先から黒い霧が噴出する。

「くそっ、なんだ!?」

 混乱しながらも銃を撃つ。真朱は弾丸の軌道に入ると、拳を振りかぶった。

「っらぁ!!」

 迫りくる弾丸を、真朱は拳で打った。打ち付けられた弾はひしゃげ、勢いよく彼方へと跳んでいく。

「……は?」

 来栖がほうけた声を出して、跳んでいった弾丸を見送る。目は丸く見開かれたままだ。「うっし」

 絶好調、とでも言いたげな笑顔で、真朱はその場でとんとんと足を慣らす。

「花鬼って言っても鬼だもんな……」

「そういうこと」

 感嘆の声を上げる布由に、自慢げな真朱。

「クソっ……クソおおおおお!!」

 来栖が獣のような雄叫びを上げて、何度も引き金を引いた。自分に向けられたそれを、布由は刀を振ってすべて叩き落とす。

「なんなんだ……なんなんだお前ら!!」

 今度は落雷が降り注ぐが、それは結界で阻んだ。

「いいんじゃないか? 化け物で」

 いつの間にか距離を詰めていた布由が刀を打ち上げた。それは的確に角の根元に迫り、薄皮一枚分を残して角を切り落とす。来栖の額からは黒い霧が勢いよく飛び出し、地面に落ちた角がヘドロのように溶けて広がった。

 後方へ来栖が倒れ込む。意識を失った彼をつまみ上げ、肩に担いだのは真朱だ。

「じゃあ戻るか」

「うん。そうしよう」

布由はピクリとも動かない来栖をじっと見やる。

「ん? どうかしたか?」

「担ぎ方が違うな、と思って」

「そりゃあ布由とおっさんじゃ違うだろ」

「そ、そう……」

 歩きだす真朱の後ろを、布由はゆっくりとついていった。




 麓に下りていくと、こちらの姿を認めたかな恵が駆け寄ってきた。

「ふたりとも無事!?」

「はい、大丈夫です」

「おう」

 真朱に担がれた来栖を見ると、目を見開いた。

「来栖も無事だったの?」

「穢奴にはなっていましたが、手遅れになる前だったので」

 真朱はその場に来栖を下ろす。やや乱暴にドサリと音を立てて倒れるのを気にした様子もなく、かな恵は他の警官に担架と車の手配を指示した。

「ありがとう、ほんっとによかった……」

 彼女は額を抑え、長く大きなため息をつく。

「真朱くんも手伝ってくれてありがとうね。協力的なあやかしだっていうんで保護観察期間減らせるけど、どうする?」

「減らせるのか……うーん……」

「何? 都合悪い?」

「悪いっていうか……なあ、期間が終わってから、俺も警察で働いたりできないか?」

 布由とかな恵が目を見開いた。

「布由くんみたいに外部協力者ってことでならいけると思うけど、どうして?」

「ねぐらも壊れちまったし、しばらく人里に降りてみるのもいいかなと思ってな」

「あら、壊れちゃったの」

 口に手を当てるかな恵に、おっさんが壊した、と率直に返事をする。

「じゃあ期間終わってからもしばらくうちに泊まる?」

「いいのか!?」

 布由の提案には、食いつくように迫った。

「一人暮らしだし人の出入りもないから俺はいいよ」

「オレ、下心あるぞ!?」

 布由はキョトンと目を丸くする。ついで目を瞬かせ、したごころ、と呟いた。

「そう、下心だ」

 真朱はうんうん、とうなずいて見せる。

「まあ、あの、よくわからないけどいいんじゃないかな」

 たじろぎつつも微笑む布由に、真朱は拳を高く掲げた。

「よっしゃあ!!」

「あらまあ、やあねえ若い子たちは……」

「柳さん……」

「冗談よ。布由くんがいいなら文句を言う筋合いもないし」

 先が長そうだけどね、とこぼして、かな恵は軽く体を伸ばす。

「明日色々書類があるからまた署に来てくれる?」

「今日じゃなくていいんですか?」

「今日はいいわよ、疲れただろうし布由くんもまだ角でてるし」

「あ」

「送っていくわ。車に乗って」

 はい、と返事して、布由は喜びを噛みしめるようにしゃがみ込んでいた真朱の肩を叩く。先に歩き出したかな恵を、二人は小走りで追った。

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