モネの「睡蓮」の話

モネの「睡蓮」とおじいさん

サンフランシスコの美術館でモネの展覧会があった時の話です。

そのエキジビションは大きな規模ではなく、50枚ほどの絵が展示されていました。目玉はセント・ルイス美術館所蔵の「睡蓮」（200x426.1cm、1915-1926年制作）の大作でした。

この企画をした方のレクチャーがあったので、出席してみました。

彼は元キンベル美術館のキュレーターだった人で、その時代に、他の美術館とのつながりができたのでしょう。その時の縁で、今ではこうやって、いろいろな美術館から絵を借りて、こういうエキジビションができるのだろうと思いました。

おもしろいエピソードとしては、今回、彼がある蒐集家からぜひある絵を貸りたいと思ったのだそうです。連絡してみると、持ち主はそのモネの絵をカンサスの美術館に寄贈したところだと言うのです。

　それで、カンサスの美術館に連絡をとったところ、「94歳の老人が、毎日、欠かさずそのモネを見にくるので貸せません」と言われたそうです。

企画者が貸してほしかった絵とは何でしょうか。

彼の説明はなかったのですが、思いつきました。

それは、「睡蓮」の大作でしょう。

モネの睡蓮の連作と言えば、パリのオランジェリーに、4連作がふたつ、つまり計8枚あります。

その他に3連作がふたつあり、それもオランジェリーのために描かれたものでしたが、そのうちの1セットが、アメリカの3つの美術館に分かれて所有されているのです。

展示されていた「睡蓮」の大作は、睡蓮3連作( Water Lilies Triptychs)として描かれたもので、このセント・ルイスの「睡蓮」は真ん中の1枚です。

あとの2枚はクリーブランド美術館、ネルソン・アトキンズ美術館にありますが、クリーブラント美術館は他にも貸し出していますので、企画者が言っているのは、ネルソン・アトキンズ美術館のことだろうと的を絞りました。

それで、「94歳、睡蓮、 ネルソン・アトキンズ美術館」と入力してクリックしてみました。

すると、

おおおっ、ドンピシャ。なんと、ずらりと情報が出てくるではありませんか。

このおじいさんはどうも、ただ者ではないようです。

ただ者でないどころか、アメリカ人なら、誰でも知っている超有名な人でした。

彼はヘンリー・ブロックさん(Heny Bloch）、

彼自身のことを知らなくても、アメリカでH&R Blockを知らない人はいないでしょう。

H&R Blockというのは税金申告の助けをしてくれる会社です。

「H&R Block」(彼の姓はBlochですが、会社名はBLokです。Blotch〈痣〉の発音と間違えやすいので変更したのだそうです。Hはヘンリー、 Rは弟のリチャードの頭文字です。

アメリカでは税金は毎年4月15日までに個人で申告しなければなりません。

それがなかなか複雑なので、計算が苦手だったり、どの資料をどうすればよいのかわからなかったり、税金の申告は誰にとっても頭の痛い問題なのです。H&R Blockはそれを安い手数料で手伝ってくれる会社です。ちなみにH&R Block のお客は庶民で、

会社とか金持ちなんかには専門の税金会計士がいますから、ここには来ないようです。

さて、ヘンリーさんのことです。彼はカンザスシティで生まれ育ったユダヤ系アメリカ人で、空軍に行った後、24歳の時に当地で、兄と小さな会計事務所を開きました。しかし、仕事はうまくいかず、兄は数ヵ月で諦め、ヘンリーは今度は弟のリチャードを雇い、細々と仕事を続けたのです。

1955年、一般会計部門だけにして、税金関係はやめようと思っていた時、人に勧められて新聞に「5ドルで税金申告を手伝います」という宣伝を2回出したのです。

すると翌朝、弟から自宅に電話があり、事務所に人が殺到しているというのです。

そんなに人が集まったのには、それまで無料サービスをしていたIRS〈税務署〉が、それをやめたことも原因のひとつでした。

これが「H&R Block」の誕生物語で、

今ではアメリカ各地のみならず、世界中に事務所があります。

それでは、会社の話はここまでにして、彼と絵画の話にいきましょう。

ヘンリーさんと妻のマリオンさんは1970年代に丘の上に家を建てたので、次に部屋に飾る絵画がほしいと思いました。しかし、彼はネルソン・アトキンガ美術館の会長にはなってはいたものの（大体、こういう会長には、お金持ちが頼まれます）、絵のことは何もわかりません。その時、美術館のディレクターとニューヨークに行くことがあり、そこで、1枚のオランダの絵を紹介されました。マリオンさんがそれを特に気にいって、これからはオランダ絵画を集めましょうと言ったのでした。それで、ふたりはオランダまで出かけ、現地で絵が安くて来たかいがあったと思い、ある著名画家の絵だというのを購入したのです。しかし、それが届いてキュレーターに調べてもらうと、「全く価値のないシロモノ」だとわかったのでした。

ヘンリーさんはそれを「Lucky Break(幸運をつかむきっかけ)」と言っています。

それでオランダ絵画とかかわるのはやめ、薦められて小さなルノワールの「腕をつく女」を買ったのです。

夫婦ともその絵がとても気に入り、そこから印象派、ポスト印象派の絵を集めるきっかけることにしたのです。つまりオランダでのミステイクが印象派に導いてくれたというわけですよね。そこで購入したのがモネの「睡蓮」でした。

「自分は生涯、ずうっとラッキーだった」と彼は言っています。

ヘンリーさんのこういう態度がラッキーを産むのでしょうね。

当時、絵に投資をすると何倍にもなると言われたそうですが、彼は一度も投資だと考えたことはないそうです。すべて気にいったから買った絵ばかりだそうです。

彼は数年前に12億円を出してネルソン・アトキンズ美術館の中にブロック・ギャラリーを作り、コレクションの絵画29点をすべて寄贈することにしたのです。

今回のサンフランシスコにおけるエキジビションの企画者としては、この「睡蓮」がぜひほしく、ネルソン・アトキンズ美術館に頼んだところ、断られたということでしたが、私が読んだ記事や動画の中には、ヘンリーさんが毎日、美術館を訪れているという話はなかったです。

それだけではなく、ヘンリーさんの家では、絵があったところにはそっくりの複製が飾られ、

「保険を払わなくてすむし、外出しても、もう心配することもない」と笑っておられました。

ヘンリーさんは以前に、ネルソン・アトキンズ美術館のレクチャーを聴きに行った時、

「メトロポリタン美術館にはどうしてあんなにたくさんの美術品があるのか。それはニューヨークの人々が、寄贈するからだ」

ということを聞いて、自分もいつかコレクションをこの地元の美術館に寄贈しようと決めていたのだそうです。

所蔵の絵が売却すればものすごい金額になることや、他の州からのお誘いがあっても、彼はネルソン・アトキンズ美術館に寄贈する以外、考えたことがないそうです。

今回の企画者が連絡した時には、ブロック・ギャラリーは開館（彼は2019年に亡くなられました）したばかりで、モネの「睡蓮」はその中心ですから、いくら頼まれても、他に貸すことはできなかったことがわかります。

そういうわけで、私はエキジビションではネルソン・アトキンズ美術館の「睡蓮」は観られなかったのですが、ヘンリーさんに習って、かえってLucky Breaにかることがあるかもと考えてみることにします。

少し前の近況ノートに書きましたが、「賢いヒロイン」の中のサナシスのモデルとしてカラヴァッジョの「洗礼者のヨハネ」を載せました。ネルソン・アトキンズ美術館とは、あの絵があるところです。ぜひ行ってみたいと思います。