第三手記 群れなす闇を照らす光
一斉に灯りは消え失せて、私の視界は漆黒に閉ざされる。
暗闇が私の中の焦燥や恐怖を掻き立てる。
まるでこれから起こりうる最悪な死を、暗闇が祝福しているようだった。
暗闇からの喝采を浴びた体の制御権は、成す術もなく恐怖に支配されてしまっている。
ここで私が辿る運命は、まさしく暗闇そのものであるかのような暗示に、しかし正気を保って暗闇と相対する。
私が打てる手段は全て使う。
絶対に、私は生き延びなければならない。
少なくとも、これからも狂気の世界を旅し、出口を探すと言うのであれば、暗闇程度の恐怖には打ち勝てなくてはなるまい。
大きく息を吸い込み、吐く。
カバンから、懐中電灯を取り出した。
私の身体が吸い込まれてしまいそうな暗闇に、決心した私は光を灯す――
――懐中電灯によって照らされた空間、暗闇の中では、気味の悪い笑みを湛えた、理解し難い生物……それはまさしく、『顔』そのものであった。
「――っ!」
暗い場所に同化して、体は見えない。しかし、笑顔だということは分かる。
目の前には暗闇があるはずなのに、その暗闇には光った表情が浮かんでいた。
言葉の通りだ。暗闇の中で、その明るい笑顔は目立つ。
顔、顔、顔、辺り一面に広がる笑顔。
こんな状況で、笑えるわけがないのに。
ビデオ越しでは分からない、この地獄の狂気にさらに踏み込んでしまった。
私の中で、狂気への諦念が渦巻く。
動悸が激しくなる、心臓が暴れている。
笑顔の怪物は、私の恐怖心を嘲笑っているように見えた。
……覚悟はしていた。
きっと、これから私が歩む道は地獄、はたまたそれよりも恐ろしい何かであるかもしれないと。
マニラルームで知ったはずだ。
この空間には、人ならざる異形も存在していると。
私は知っていたはずだった、否、知った気になっていたのだ。
私は遅い理解をする。
その遅い理解の――浅慮の報いを受けなければならないほどに。
これは私が覚悟していたものとは違う。
私如きが知った気になっていた狂気、それの本当の姿を垣間見てしまったのだ。
これは違う。違うのだ――
――私が覚悟していたのは、こんな生命を冒涜するような、骨の髄まで恐怖を刻むような怪物では無かった。
私は、私の想像しうる矮小な世界でか生きられないのだ。
勝手な理解で、私は身を
笑われている、哂われている、嗤われている。
なるほど、あの怪物が嫌な笑顔を浮かべていたのも頷ける。
ああ、そうだ。まったくもって、その通りでしかない。
こんな奴を見れば、誰だって失笑嘲笑くらいはくれてやる。
ここまで私が愚かで、浅ましい人間だったとは。
分かった気になって、起こりうるかもしれない現実から目を逸らして、自分勝手に考えていた。
さも希望があるかのように振舞って、自分は狂気を抜け出せると思い込んでいた。
確かに、笑ってしまうのも仕方がない。
あまりの滑稽さだ、自覚がある。
私の正気を繋ぎとめる紐など、とうの昔に千切れていたに違いない。
すでに私は、狂気に囚われていたのだ。
そこから目を逸らして、自分勝手な妄信に猛進していただけ。
なんともまあ、救えない。
これで娘や妻の元に帰るなんて、蒙昧にも限度があるというものだ。
もうとっくに味わいきったはずの絶望は、飽きもせず私の心を貫く。
自分には、これ以上ないほど、飽き飽きしているというのに。
懐中電灯の光は、虚しく空を照らす。
おそらく私の体は、おそらくビデオの男のように食い荒らされてしまうだろう。
「い、やだ。いやだぁ……」
掠れた声で、現実を拒む。
目から涙が溢れる。
さっきはさも冷静に、自身の愚かを指摘して見せたが、そんなのは目の前の現実から逃避する術でしかない。
「死にたくない……」
とにかく死が恐ろしい。
初めて死の危機に瀕して、そんな当たり前のことにやっと気付いた。
私は、迫る死を受け入れられずに、みっともなく涙を流し続ける。
怪物の酷薄な笑みが、さらに深まった気がした。
必死に後ずさりして、それから距離を取ろうとする。
しかし怪物は、じりじりと、少しずつこちらとの距離を無くしていく。じっくりと、嬲るような態度で。
「なんで、なんで私が、こんな目に……!」
嘆くことしかできない。
私へと襲い来る理不尽に、不条理に、声を大きくして糾弾することしかできない。
みじめで、哀れで、情けなくて……そんなことは、私が一番分かっている。しかし無力なカモは、圧倒的な死を前には、こうなることしかできないのだ。
怪物の笑顔が、とても近くに見える。
あと数歩怪物が動いてしまえば、矮小な私は、いとも容易く食べられてしまう。
その小さな体に見合った、無い希望に縋ろうとする心が。凍えるくらいの恐怖の中で、唯一熱をもって拍動する心臓が。だからこそ私の体を、死への恐怖で縛り付けるのだ。
「嫌だ、嫌だ、嫌だぁ!」
まるで、子供だ。気に食わないことで地団太を踏む駄々っ子だ。
そうやって叫んでも、怪物が買ってくれる同情などあるはずもない。精々、狩ってくれるだけか。
泣いて、鼻水を垂らしながら、暴れた。変わらない結末を、せめて先送りにしてやろうと、必死に藻掻いた――
――どれだけ哀れで情けなくとも、この時この行動をとったことを、私自身が私に褒めてやりたい。
足をばたつかせた拍子に、手元からずり落ちた懐中電灯を蹴飛ばした。それが、功を奏したのだ。
懐中電灯から伸びる一本の光が、目の前の怪物を照らすと、怪物はまるで怯えるみたいに光から離れていく。
……見つかった。この袋小路から抜け出す、まさしく希望の光を。
奴らはきっと、光が弱点だ。
思えば、違和感もあった。いつまでも私を殺そうとしない、あの時は嬲り殺しにするつもりかとも思ったが、きっと私の足元にあった懐中電灯に近づけなかったのだ。
それさえ分かったのなら、やりようはある。
未だにガクガクと震える足を、無理矢理持ち上げる。恐ろしい。恐ろしくてたまらない。でも、恐怖はもう、十分だ。
「こ、これでも、食らえ!」
上手く出ない声、舌先に一さじの希望を湛えて、今度こそ音を乗せる。
それと同時に、しっかりと握りしめた懐中電灯の光を、周りの怪物たちに浴びせた。
怯えて逃げる奴、その場から霧散して消える奴、依然としてそれは笑顔だ。それが薄気味悪かったため、もっと執拗に光を浴びせてやる。
そうして得られる安心と、希望を噛み締めて。
照らして、照らして、照らし続けた。
懐中電灯が明滅し、これももうすぐ機能しなくなると悟るまで、ずっと時間を忘れていたほどに。
群れなす闇を照らす、希望の光を見つけてから、疾うに一時間は過ぎていて――
――そして、闇に閉ざされた悪夢は、この瞬間に終わるのだ。
チカチカと、天井の蛍光灯が明滅すると、いつかとは逆に、私のいた空間を明るくしてみせた。
気づけばもう、笑顔の怪物たちはいなくなっている。
「ハァ……ッハァ……」
極限まで張りつめていた緊張の糸が、徐々に緩んでいく。喘ぐように呼吸をし、少し潤んだ目をこすりながら、私は安堵に溺れた。
生きた心地がしなかった。今私が生きていること自体、奇跡の類であるかもしれない。それほどまでに恐ろしく、絶望的なまでに自らの死を感じた。
そもそも、先述のような呼吸を繰り返しているのは、何も疲労感のみが原因ではない。「喘ぐような呼吸」の原因とはまさしく、件の死への恐怖なのだ。
酸素とは、生の必需品だからと、死を遠ざけようと大量にそれを取り込もうとする。死に竦みあがった私の心が、せめて生を近づけようと足掻く、焼石に水どころか息を吹きかけるような無意味なこと。
こうでもしないと、自己満足を得ることが出来ないなんて。
「あっははは……馬鹿みたいだ」
――私は、Backroomsを甘く見ていた。私が想像しうる範囲の恐怖を、私が想像しうる範囲の覚悟で、勝手に測りすぎていた。
ツケが回った、とも違う。私はとにかく、蒙昧だった。
あんな惨い死に様を、怪物を。今までぬるく生きてきた私が、それを見せられて、どうして平静を保っていられようか。
懐から取り出した手記のページを一枚破ると、鬱屈としていた気持ちを解放するみたいに、必死にペンで文字を書きなぐった。さっきの暗闇のせいで、なんとなく、この手記を読む人なんていないだろうと思えたが。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私は今、Level1にいる。
出口を探して、Level0にあったエレベーターに乗った。そしたら、ここに着いた。
これを読んでいる人が、万が一にも、億が一にもいたのなら、どうかお願いだ。
私を、助けてほしい。私の中に、未だに巣食う暗闇から、救済してほしい。
私には妻と娘がいる。どうしても、彼女らに会いたい。でも、体が動かないのだ。
足が笑って、まともに歩けやしない。腕がコンクリートの柱を掴んで、離そうとしない。
今この瞬間にも、蛍光灯が明滅しないか、不安で堪らないんだ。もう、さっきのような暗闇は味わいたくない。
怖い。怖い。怖い。
一度は生き残れても、次は無いのだ。懐中電灯は死んでしまった。そうだ、死んだ。死ぬ。死んでしまうのだ。
死にたくない。生きて、彼女らに会いたい。
だからどうか、今まで信じてこなかった神よ。
私をお救いください。
あるいは、神でなくとも、この手記を読んでくれる人よ。
私を、助けてくれ。
――フォースン・ミフス
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
読む人は、いるのだろうか。神は本当に、実在しているのだろうか。
分からない。分からないからこそ、不安だ。
しかし、ここで何もせずに、黙って死んでいくのも不安なのだ。
だからどうか。届きますように。
私の中で増長する、私の心の闇。そんな群れを、照らしてくれる光へ。
今度こそ、暗闇を祓うのだ――
――ならば、今ここで立ち止まっている場合か。
諦念を抱くには、まだ少し早い。きっと、そうだ。
助けを待つにしても、出口を探す気力が無いにしても、それでも壊れかけの私に出来ることを探せ。
私は、震える足を無理やり止めて、コンクリートの柱から手を離した。
「なんだ、案外、簡単なことだったじゃないか」
恐怖で雁字搦めにされていた、それを私は外的要因によるものだと思い込んでいた。よく考えずとも分かること。恐怖とは、お前の感情ではないか。
私を恐怖で縛っていた張本人は、私に他ならなかった。
それならば、後は自らの鎖を断ち切って、前へと進むだけ。迷うことなどありはしない――
「もう、助けなんて必要ないな」
――気づいてしまえば、視界が晴れていく。まだ、明るい。暗くない。
自身の心の中に巣食う闇など、自身で照らさずしてどうする。
私は手に持っていた一枚の紙を、一思いに破った。何回も何回も、執拗に、元には戻せぬように。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
あてもなく、無限にも思えるような空間で、出口を求め彷徨う。
歩き続け、乾いた喉をアーモンドウォーターで潤した。
出口を探して、苦節数時間。その間、消灯を恐れながらも、なんとか何も起こらずに探索できている。
疲労に侵された私の目の前に現れたのは、下へと続く階段だ。
下の方は暗くてよく見えないが、その階段は途中から雰囲気が倉庫とは打って変わって、壁にパイプが這いずり回っている。
これは、やっとの思いで見つけた出口だろうか。それとも、もっと危険な空間へと続く道であろうか。どちらかと言えば、後者な可能性が高い気もするが。
そうやって、階段を下りることに辟易していると、真上の蛍光灯が明滅しだす。
どうやら、選択の時間は与えてくれないらしい。
もう、真っ暗な倉庫で時を過ごすのはまっぴらなのだ。
先へと進む不安とか、恐怖とかを、見えないことを良いことに、暗闇へ放り込んで。
私は急いで、階段を駆け下りるのだった。
手記 あるままれ~ど @arumama_red_dazo
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