EX:落ちて、落ちて、落ちて。

 この話は本編とは一切関係が無いです。ご了承ください。

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【プロローグ】


 落ちていく感覚を味わいながら、私は思いを馳せる。

 世界から外れて、「地獄」としか形容できない狂気と出会った。

 何度も泣いて、もがいて、苦しんで。

 今のこの状況から思えば、無駄な足掻きでしかなかったというのに。

 でも、こんな私でも、彼女だけは私を救ってくれた。

 彼女は私を零落から連れ出し、叱咤してくれた。

 彼女の太陽とも見紛う笑顔、それが私を、地獄の妄執から安堵させてくれた。

 しかし、希望はもう潰えた。

 真っ黒な空間、光なんてある筈も無い。

 ただ、何も出来ぬまま、落ちている。

 これは神からの罰か、あるいは偶然という運命の思し召しか。いや、そんなことは関係ないのだ。

 私は今落ちていて、それだけだ。よけいな過去の回想に意味は無い。

 あぁ、あの人に逢いたいな――


――などと考えていても、それこそが意味の無いことだった。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 


【狂気の世界へようこそ】

 

 私は受け入れがたい現実を前に、ただその空間を右往左往していた。

 

 ――黄色い空間、それは終わりが無いように見える。

 しかし、こんなところで右往左往しても現状が打破できるわけではない。腹をくくるしか無いのだろうか。

 ついさっき、愚かしくも私は地獄に迷い込んでしまった。

 いつも通りの道、いつも通りの景色。

 私はただ、そこを歩いていた……直後、浮遊感が私を襲ったのである。

 一瞬だけ落ちる感覚があり、体が地面と激突する。

 そこまで痛くは無かったのだが、突然浮遊感が襲ったことや、お尻を地面にぶつけてしまったこともあり、あやうく漏らすところだった。

 そんなことは今はどうでもいい。

 それよりも、どうやってこの奇妙な空間から脱出しないといけないかを考えるべきだ。

 少しの恐怖を、心に滲ませながら私は歩きだす。

 歩いて、歩いて、歩き続けて。

 

 きっと出口があると信じて……。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


【黒い異形】


 正直、どれくらい歩いたかは分からない。ただ、今にも倒れそうなほど、私は疲れ切っていた。

 出口は未だに見つからない。

 これも仕方のないことかもしれない。

 何故なら、一秒前まで歩いていた空間が、ふと振り返った時には既に跡形もなく変化しているからだ。

 これは、出口が見つからない要因に大きく貢献しているうえ、私を焦燥感で苦しめている。

 徐々に疲労の影響を受ける足に、常に頭に響いている、ただただ無機質で騒々しいハム音。

 それに苦心する私を、見世物にして嘲笑うように照らす不均一な蛍光灯と黄色の壁紙。

 私の心を、ゆっくりとはいえ、壊し続けるには十分な辛さだった。

 思えば、半日前の私は、なんの苦労も知らない女子高生だった。

 そんな私がいきなり、奇妙な空間に突き落とされて、歩いて歩いて、苦しみ続けている。

 些か理不尽な仕打ちでは無いのか。


 「……なんだって私がこんな目に合わなくちゃいけないの?」


 そんな私の口から出る、蚊の鳴くような、掠れたあまりにも小さい声は、黄色の空間を照らす蛍光灯のハム音に搔き消される。


 「本当に……ははっ……笑えちゃうよね……」


 そんな分かり切った現実に、身勝手に失望して、逃避しては。

 これまた身勝手に、さも悲劇に陥ったヒロインのように、自嘲して――


――それでも、足を止めることなんて出来ないのだから、私はさらに速く歩みを進めた。


 そのときだった、想像の埒外……否、想像もしていなかったことに出くわした。

 表現は間違っていない。文字通り「出くわした」のだ。

 

 「あ」


 口から間抜けな声が漏れる。

 しかしそれは仕方のないことだ――


――突如として、目の前の曲がり角から得体の知れぬ黒い異形を見たのなら、誰だってこのような反応をしてしまうだろう。

 

 「――――――――!!!!!!」


 それは鳴き声とは言えない、つんざく金属音のような、聞くものの脳に爪を立てる、不快感をもたらす歪んだ音を発した。

 思わず耳を塞ぐ。

 黒いワイヤーのような細長い何かで構成された体。

 存在自体が歪で、まるで生き物らしさを感じない。

 その形は、棒人間、とでも表現すれば伝わりやすいかもしれない。

 もはや冒涜的なまでに理解に苦しむ姿。

 それは生命を生命たらしめる自然の法則から大きく逸脱している。

 それらを目前で見た私の中で、恐怖が滲み、広がっていく。

 これは本能の警鐘だ。

 これ以上、それを視認したくない。

 これ以上、それの発する音を聞きたくない。

 これ以上、それの存在する空間に居たくない。

 脳がアラートを鳴らし、恐怖はさらに拡散され、私の頭の中を支配する。

 燃え尽きんばかりに頭が回転し、現状を打破するための解法を必死に探す。

 今の私にできる、私の命を守るための行動、それ即ち――


 「逃げなきゃ」


――不可解な異形、その存在から必死に逃げることだ。

 斯くして、遊びとは程遠い、命懸けの鬼ごっこが開始されたのである。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


【人生最悪の鬼ごっこ】


 「―――――――――!!!!!!」


 全身を搔きむしりたくなるような不快な声を無視し、息を切らしながらも走り続ける。

 もともと蓄積していた疲労、化け物の金切り声も相まって、心身ともに擦り削られていくばかり。

 背後から迫る、今までで一番間近にあるであろう死を振り払うように、一心不乱に走る。

 恐怖が体を絡めとる。

 殺人的な心労や疲労、しかし、ここで足を止めても死んでしまうのだから笑えない。


 「はっ、はっ、はっ、はっ!」

 

 息を切らし、走っている。

 鬼ごっこが始まって約10分。

 化け物は、未だに私を追いかけ続けていた。

 時折、化け物を攪乱するように角を曲がったりしながらも、決して化け物には殺されてやるまいという静かな決意と、あまりにも不条理な運命への怒りを、走り続けるための糧にし、今まで命を繋いで来た。 


 「―――――――――!!!!!!」


 化け物は金切り声をあげて、決して私を逃がすまいと追跡してくる。

 時々、転びそうになりながらも、私は必死に走り続ける。

 本当に、この地獄のような空間に落ちてから、ロクな目にあっていない。

 疲弊、恐怖、失望、怒り。

 今も必死に走る私の中で、様々な負の感情が、一緒くたに混ざり合っている。

 心はぐちゃぐちゃで、やっぱり、今にも私を正気に繋ぎとめる精神の糸ははちきれそうだ。

 しかし、今は走る他無いのだ。

 正気を保てなかろうが、恐怖に支配されようが、怒りが燃え滾ろうが、今、ここで足を止めたら、死んでしまうから。

 疲労で足が悲鳴を上げる。

 不安定な心が、私の中でパニックを起こす。

 走って、走って、走って。

 必死に、必死に、走り続けて――


――鬼ごっこ開始から20分ほど。

 ついに見つけた、出口。

 壁に取り付けられた扉。

 長いようで、とてつもなく短かった。

 背後の死から逃れるため、扉を勢いよく押し開けて、転がるようにして中に入った。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


【オフィスと割れた心】


 扉を閉ざし、私は倒れ込む。

 とにかく疲れた。

 体も、心も。

 心臓は大きく脈を打ち、喘ぐように必死に息を吸う。

 ......何だったのだ、アレは。

 「生物」とは一線を画す異常な怪物、瞼に焼き付いている。

 発せられる不快な金属音、赤子のような泣き声、女性の悲鳴に似た声、鼓膜に焼き付いている。

 死が常に自分に迫ってくる、体の芯から舐られるような恐怖、脳に焼き付いている。

 出口を求めて彷徨い歩いた、黄色単色で構成された狂気的な空間、忘れられるはずがない。

 死を身近に感じ、無様に逃げ回っていたときにも聞こえた、やはり騒々しい蛍光灯のハム音、忘れ去ってしまいたい。

 怪物も怪物だが、あの空間も何なのだ。

 誰によって創られた?何の目的があって?どうやって空間は常に変わる?

 知らない、分からない、分かりようもない——


——未知とは、恐怖だ。

 恐怖は蜘蛛の巣のように、私を絡め取り、逃げられなくしてしまう。

 恐怖に支配されてしまう。

 恐怖に侵された体は、もがく。

 必死でもがく。

 最後は狂う。

 狂うのだ。

 あぁ、分からない。

 また、あの怪物と遭遇するかもしれない。

 あの怪物の存在意義、否、まずはあの生物の存在自体が分からない。

 また、追いかけられて、心をすり減らすかもしれない。

 あの怪物は生物的に機能はしているのか、どこから音を発する?分からない。

 また、死に怯え、もしかしたら本当に死を迎えるかもしれない。

 死ぬかもしれない。

 死ぬかもしれない。

 分からない。私はどうなる?捕まったら死ぬ。死ぬか分からない。怖い。でも死ぬ。

 死ぬ。死んでしまうと、死ぬ。死んだら、何も出来ない、何も為せない。死ぬ。死ぬのだ。死んでしまうのだ。死んだらどうなる?死?救い?神?分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない——


 「あぁ......ぁぁぁぁぁぁぁああああ」


——怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!

 狂う。

 狂ってしまう。

 狂ってしまった。

 ひび割れた心は、現状を確認しようとする理性を拒む。

 とにかく怖い。

 動くことが怖い。

 恐怖だ。恐怖に支配されたのだ。

 

 「あぁぁぁぁぁぁぁ、うううぅぅぅぅぅ」


 声にならない声、泣いている。

 泣くしかない。絶望するしかない。

 見てしまったのだ、生命を冒涜するかの如く悍ましい姿をした怪物を。

 私の壊れた心は、今もなお、黄色の狂気から抜け出せないままでいる。

 これからどうするべきか、どうなるべきか。

 とにかく怖くて、今は泣くことしかできないから。

 泣いて、泣いて、泣いた。

 

 かれこれ30分は泣いただろうか。

 落ち着きを取り戻したかもしれない心......深呼吸をしてから体に力を入れて——


「あれ?」


——体に力が入らない。立ちあがろうと床をつく腕が震えている。

 体を支える足は、言うことを聞かない。動かせない。

 ......落ち着いたはずの心は、やはり先へ進むことを拒む。


 「ははっ、はははは」


 笑うしかなかった。自分の腰抜け度合いに。

 あまりにも臆病だ。

 先へ進めない。

 先へ進む気が起きない。

 本当に、心の底から笑えてしまう。

 さながら、間抜けな道化の如く、今の私は酷く滑稽だろう。

 必死こいて逃げて、逃げ切ったくせに、恐怖に易々と支配されてしまう。

 何もかもが中途半端な大馬鹿だ。

 ......でも、仕方がないじゃ無いか。

 怖いんだ、死ぬのが。

 嫌なんだ、また死ぬような思いをすることが。

 無理なんだ、心に、恐怖を深く刻まれてしまった。

 みっともなく体を震わせ、いつ来るかも分からない死を幻視し、その度に、心が悲鳴を上げる。

 自分でも大馬鹿である自覚がある。

 自分でも無様だという自覚がある。

 自分で自分を、詰るかのように、糾弾するかのように。

 私は私を、さらに笑った、嗤った。


 「はははは!あははははは!」


 ああ、なんとみっともないことか。

 こんな大馬鹿者は、今すぐ死んでしまったほうがいい。

 死んだ方が世界のためになる。

 でも、死ぬのは怖い。

 死にたくない。

 どうしても、死にたくない。


——結局、私はみじめに蹲るしかなかった。

 蹲ることしか、出来なかった。

 


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


【こんにちは】


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 停滞し、希望を投げ出すことにした私に、それを知る術はないし、わざわざ確認しようとも思わない。 

 だが、この停滞にも限りがあるらしい。

 

 ......時折、自分が自分ではなくなるような感覚に襲われる。

 形容するのは難しい。

 何と説明すべきだろうか。

 私が、まるで私の恐れている......異形のなにか、恐怖そのものと重なっているように感じる。

 自分の形が不確定になって、恐怖そのものになっていく感覚。

 おかしい、何かがおかしいのだ。

 少しずつ、自分が無くなっていく。

 少しずつ、自分が奪われていく。

 

——私とは、一体なんだったっけ?

 何か忘れているような気がする。

 視界がぼやけて、霞む。

 そうしてとうとう、私という存在は消えて——

 

——いや、私は『        』だ。

 覚えている。大丈夫だ。私は私。そうだ、そうなのだ。

 私は母と一緒に暮らしている、『        』なのだ。

 父は行方不明で、でも強かな母に私は支えられて生きてきた。

 自分が、まだ分かる。 

 まだ、私は私だ。

 私という存在、その確定に、ほんの少し安心する。

 するとそこへ——


 「あらま、驚いた。こんなところに生きてる人間がいるなんて」


 「え」


 「あれ?......見たところ結構サイクル進んでるわね。私がいなかったらアンタ危なかったよ?」


——聞いたことのない、女性の声がした。


 






 



 



 


 

 


 



 

 

 

 

 

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