第38話 エピローグ

 いくつか電車に乗り継いで連れて行ってくれたのは、太郎の実家らしかった。

 私が緊張しながら玄関をくぐると、


「とりあえずお風呂入りなよ。凄い臭いから」

「はぁ……こんなときなんだからわざとの悪口やめてよ」

「いや……ええと、ご、ごめん」


 と、困った顔の太郎を見て自分自身が本当に臭いのだと気が付き、そのままお風呂を借りた。湯船に浸かっていると体中が痛かったことを思い出し、同時にそれがみるみるうちに溶けていった。お風呂を上がると、脱衣所には女物の下着とパジャマが置かれていた。新品みたいだ。凄い準備だ。袖を通すと、少し大きかったけれど。


 それを着て、鏡を見ながら髪を乾かしていると急激な眠気に襲われた。脱衣所から出ると、すぐに太郎は「とりあえず、寝る? ああ、僕の家に抵抗があったら、ホテルとるけど」なんて言ってくれる。


「もうお風呂借りてて抵抗も何もないし。いいよここで。ベッドどこ?」


 言うと、太郎は笑いながら案内してくれた。


「お客様用の部屋はなくてさ、僕の部屋でごめんね。ベッドは――」


 太郎の言葉を聞ききる余裕は急激に抜け落ち、私はベッドに倒れ込んだ。なんだか太郎の匂いがした。それを感じた瞬間私はまどろみの中で溶けた。



 どれほど時間が経っただろうか。目を覚ましたら陽光が窓から差し込んでいた。時計をみると朝の九時だ。いつもより狭く、硬いベッドだがなんだか妙に落ち着く。ふとあたりを見渡すと、本当に質素な部屋だ。青いカーテンと学習机。あとこのベッドを除けば家具らしい家具はない。それが桃娘らしいと言えばそうなのかもしれない。太郎はほとんどタブレットで作業を行っているから、太郎らしさはタブレットの中で埋め尽くされているのだろう。


 私は扉から出る。そうすると、太郎がリビングで迎えてくれた。


「ヒカリさん、気持ちの良い朝だね」


 本当に気持ちが良さそうに笑う太郎に、私は温かい気持ちになる。


「太郎は今日は学校じゃないの?」

「そりゃ、休むよ。心配だから」


 聞きたいことはたくさんあった。でも、何をどう言葉にしていいかわからない。


「ヒカリさん、はじめまして、朝ごはん食べますか?」


 少しだけ目元が太郎に似た男性。それは彼の父親なのだろう。


「あの、急に泊めていただきありがとうございました」

「いいえ、いつまででも」


 テーブルにはトーストとコーヒーが並べられる。私は酷い空腹に気づき、「いただきます」と言ってそれに手を付けた。まだ太郎たちが口を付けていないのに、はしたないという思いも本能に抗えない。


 サクサクとしたトーストからはバターのいい香りが鼻に抜ける。本当に質素だが、こんなに美味しい食事は初めてだ。すぐさま食べ終えてしまい手持ち無沙汰になると、「僕のも食べなよ」と太郎が自分のトーストを差し出してくれた。抗えず私は受け取り、それをすぐさま食べきってしまう。それでコーヒーを飲んで、私はやっと少し落ち着いた。


「ご、ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

「いやいや、普通のトーストだよ。じゃあ僕は出かけるから、ヒカリさんのことは太郎に任せよう」


 太郎の父親がどこかに言ってしまい、リビングに二人が残された。


「とりあえずさぁ、ヒカリさんは行くとこある? ほら、今はお家に帰りづらいと思うからさ……。まぁもしよかったら、ずっとうちにいても大丈夫だから、気楽に考えてよ」


 私はお母様に監禁されていたことを思い出し、確かに帰れないなぁと思った。でも、それだけだ。本当はそれはとても怖いことの気がするのに、私は今この瞬間に何故か幸福を感じていた。


「じゃあ、落ち着くまでずっといさせてもらうから、覚悟してよね」

「傲慢だなぁ」


 太郎が笑った。私は太郎の笑い方が好きだ。


「ねぇ、どうして私が監禁されてるって分かったの?」

「それはヒカリさんのお屋敷を管理している守衛さんに、事前にそういうことがあるかもしれないって忠告しておいたからだよ」


「事前にって、いつから?」

「いつだっけなぁ。ヒカリさんが転校してきて翌月くらいだと思う」


 私はあっけに取られた。太郎は一体、私とお母様に何を見たのだろう。

 私は、太郎の昔の言葉を思い出す。彼は言ったのだ。私を見て『囚われのお姫様だなぁ』と。


「転校してきてさ、ヒカリさんは僕の漫画を読んでくれたでしょ。それで僕に言ったんだ。私をヒロインにして物語を書けって。だから僕はヒカリさんはどんな人で、家でどんな風に過ごしていて、家庭環境がどんな風かっていうのを考え続けたんだ。それでどんな苦境があれば面白い物語になるかなって」


 不謹慎な思考を滔々と語る太郎は、しかし私にないものを持っているようで輝いて見えた。


「何が起こるかなって、それこそ監禁されるんだろうなって思ったんだよ。ヒカリさんのお母さなはどうも桃娘に偏見があるっぽく見えたからさ。きっとヒカリさんを桃娘にしたくないでしょう。で、この時代体罰とか怪我させる系はすぐに治っちゃうから、精神的に何とかする場合は時間をかけるだろうなって。で、いずれヒカリさんが何かお母さんの意に沿わないことをしたときには監禁されるだろうって。だからそうなったときに助けられるように、お屋敷の守衛さんにお願いしておいたんだ」


「そんな簡単なことで?」


 私はイマイチ納得ができない。


「ああ、そりゃ、いろいろ納得できる理由をお母さんは言ったんだろうね。『勉学に集中させるために何日かこもらせる』とか、あるいは『犯罪を犯したから反省させることが必要だ』とか。で、それが『社会的に正しいことなんだ』って。で、きっとそれを聞いた桃娘は、それに言いくるめられたはずだよ」

「それであれば、太郎は助けに来られなかったはずじゃない?」

「でも何が起こるかがわかっていれば、早いもの勝ちだからね。守衛さんに、先にヒカリさんのお母さんがヒカリさんを監禁するって伝えて置けば、僕の言葉の信憑性はお母さんの言葉より高くなっちゃう。人間だから仕方ないけど、先に言われたことを信じやすいからね。僕はヒカリさんのお母さんがいずれ、何かしら理由をつけてヒカリさんを監禁しますよって。そのときに僕に関して悪口を言うかもしれないけれど、それも全部ウソですよって伝えておくだけでよかった。僕は先に伝えることで、ヒカリさんが危ない目にあったら連絡はしてもらえることになっていたし。もちろんそれだけの準備をしていたわけじゃないよ。他にも、ヒカリさんが桃娘にさせられるパターンとか、幸福大臣であるお母さんに対する抗議でヒカリさんが捕まっちゃうとか、そういういくつかの事前対処はしてて、そのうちの一つが当たったんだから運が良かったね。まぁともかく、そろそろヒカリさんが監禁されるかなとも思っていたんだ」


 圧巻だ。

 凄すぎる。


 太郎は私を物語の主人公として物語を構築する中で、そんなことまで見通し、そして対処してみせたのだ。


「そろそろ監禁されるかなって、それはどうして?」

「ヒカリさんが僕に、そろそろ桃娘が転籍できなくなるって教えてくれたでしょ。それはヒカリさんを桃娘にさせないためだった。戻ってこれないなら変わるのが怖いでしょ? 桃娘になれないならば、色々なストレスを抱えながら、現状をごまかして生きていかなきゃならない。それはヒカリさんを縛るだろう。お母さんはそう考えたんだ。ヒカリさんを恐れていたから」


「恐れていた? 私を?」

「ヒカリさんは幸福大臣にとって絶対に味方にしておかなきゃいけない一人娘だ。そのヒカリさんが幸せじゃないという報道は絶対されてはならない。桃娘地区にやってきたのも、ヒカリさんの教育により良いという建前でしょ? だからさ、ヒカリさんとお母さんの間に食い違いがあっちゃいけないんだ。もしその食い違いが外に漏れたとなれば、彼女の大臣としての地位が危ういからね。ヒカリさんこそが幸福大臣のウィークポイントだったってわけ」


 その話が本当だとすれば、私は放火を企てなくても監禁されたかもしれない。あのとき私とお母様は間違いなくうまくいっていなかった。


「だから実際、それが外に漏れるとこうなっちゃうんだよ」


 太郎は言って、動画を見せてくれた。

 それはニュースサイトの動画で、幸福大臣であるお母様の辞任の話だった。ただ事実を伝えただけの簡素なものだったが。


「ヒカリさんを監禁したこととかが、まだ秘匿されてるけど外部にでちゃったんだ。だからいち早く、党はリスクヘッジで彼女を切ったんだよ。これからもっと色々なことが起こるよ。まぁお母さんにとっては不幸なことかもしれないけれど……」


 太郎が私を窺うような表情になった。


「……大丈夫だったかな……。お母さんのこと」


 私は太郎の言葉に何を伝えようとしたか理解した。


「お母様がそうなってしまったのは残念ではあるけど、でも監禁されるよりずっとマシ。だから太郎はそのことは気にしないで。それよりも太郎は大丈夫なの? お母様に、復讐されたりしない」

「短期的には大丈夫だと思うよ。今は自分の保身に精一杯になるはずだからね。それに僕は桃娘だ。お母様は桃娘政策を推し進めていた張本人だから、桃娘を悪者にすることは余計できない」


 息を飲む。本当に彼は、先の先のストーリーが見えているのだ。そして悪いストーリーを組みたて、なおひっくり返るように画策する。それをこんなに、平然と。


「太郎は、すごいね……」

「そうだよ。もっと褒め称えるがいいよ。今生こんじょう太郎という存在を」


 軽口に私は、突っ込むことさえできない。だってそうでしょ。太郎は本当に凄すぎるから。

 でも、本当に凄すぎる。だからこそ、私には理解できないこともある。


「どうして、私を助けてくれたの……? 太郎には、人形が……」


 桃娘は善人で、太郎は凄い。結果的にあっさり助けてもらえたとはいえ、幸福大臣を敵に回してまでその成果を望むものだろうか。私には、人形の顔が浮かんだ。彼女は明るく朗らかな桃娘で、なおかつ太郎と親しくしていた。そうして彼は、彼女がヒロインの物語をたくさん描いていた。きっと彼の中の一番のヒロインは、私じゃなくて、人形だから。


「そうそう、そっちもなんとかなりそうなんだよ」

「そっち?」


「うん。人形のことなんだけど。ほら、最近僕、彼女がヒロインの作品をたくさん描いていたでしょう?」

「描いてた。読むたびに嫌な気分になってた」


「ええ!? お口に合わなかった!? なんかごめん!!」


 すごく慌てる太郎が可愛らしくて、私は吹き出してしまう。


「と、とにかくさ、僕はなるべくナチュラルの人たちに響くヒロインとして人形さんを描いていたんだよ。それで公開するときは彼女の写真を添えて、モデルですって描いてさ。漫画のヒロインが本当にいたらさ、会ってみたくなるでしょう? だから僕は、その点に関しては急いでいたんだ。制度が変わって、転籍できないとなると困るのはこの件に関してはあったかな」

「え、それって――」

「間に合ったよ。もう、人形の引受人は名乗り出てくれてるからね」


 それは、人形がナチュラルになるという彼の宣言。

 太郎はその才能を使って、人形の望みを叶えたということだろう。それほどまでに、彼女を。ただ、太郎がそう思っているのならそれも仕方ないのかな。そう思おうとしたとき、しかし太郎から出てきた言葉は少し違った。


「人形はもう、桃娘でいることが限界だったんだよ。これのせいで」


 言って、太郎はスマホの画面の端に爪を立て、保護フィルムを少し剥がした。

 保護フィルムを、やはり太郎は人形のスマホに貼っていたのだ。

 そして太郎は、私に言った。


「ヒカリさんが、そう仕向けたの?」


 私は太郎に、ナチュラルになって欲しかった。その結果何が起こるかなんて、何も気に留めないままに。私は心が押しつぶされそうになる。


「どうしてそう思うの?」

小衣こいるいナニカの動きを見るにね」


 太郎には何も、隠すことなんてできそうにない。

 私は観念した。


「恨んでる?」

「うん。だから、仕返しをしようと思って」


 あまりに当然の権利で、あたりまえの言葉。それなのに私は、それが嘘であってほしいと願ってしまう。


 でも、それじゃダメだ。


 私は向き合わないといけない。太郎が思ったこと、感じたこと、それがたとえ、私に対する憎悪だとしても。


 私は太郎を見た。ハッキリと視線が合うと、太郎は言った。


「ヒカリさん。改めてになるけど、お母さんのことどう思ってる?」

「そりゃ、大切に思っているし、尊敬しているわ」


 太郎はどういうわけか苦笑を浮かべた。


「ヒカリさん。これは決してヒカリさんを否定したいわけじゃないんだけど、それは僕の感覚からすればおかしい。だってヒカリさんは、お母さんに監禁させられたばかりだ」


 その言葉に、私は少し虚をつかれた。


「……そりゃ、そうだけど、でも――」

「もう少し聞いて欲しい。今の僕だとよくわからないんだけど、それは今の僕だからだ。何が言いたいかって言うと、桃娘の僕であればとても良く理解できた。……だから僕は、その準備をしてきた」


 私の中に、太郎の言わんとしていることが浸透してくる。

 それは、本当に?

 いや、多分それは違う。


「待って、私は桃娘じゃ――」

「戸籍はもちろんナチュラルだろう。それに桃娘だって言ってるわけじゃない。ただ、ヒカリさんはおそらく部分的に何らかの暗示にかかっているんだと思う。実際、小衣こいるいナニカは自分の脳の一部をコントロールしてるらしいからそういうこともできるんだろうね。僕が物語を描くならば、魔王は子飼いのお姫様をそのままにさせはしない。その能力も、状況もあるんだ。ヒカリさんは僕と出会ったときから囚われのお姫様で、そしてまだ自由じゃない」


 私のお母様に対する思いが、もし作られたものだったとしたら。それは想像できないことではあるけれど、太郎が言うのであればそれが正しい気がして。


「ごめん、本当はぜんぜん恨んでなんかないけれど、仕返しはしようと思うんだ」


 太郎は別のスマホの保護フィルムを取り出し、そして私のスマホに貼り付けた。


「どうかこの変化が、ヒカリさんに取って良いものであればいいんだけど」


 太郎はスマホを私に返した。

 私はそんな太郎に対して言ってやる。


「でも私が信頼できる人はお母様だけなの。だから、その人が信頼できなくなったら、私すごーく困るんだけど」

「……あ! ごめん、そ、そうかっ」


 柄にもなく慌てる太郎が、なんだかすごく愛おしい。私は太郎の手を取った。

 太郎はびっくりしたように、私を見た。太郎の手の体温を感じて、私はすごくどきどきした。でも、それをなるべく表情に出さないようにして、私は願いを口にした。


「だからさ、その役割を太郎がやるの。私が心を許せる人に、太郎がなってよ」


 恥ずかしくて太郎の目が見れなかった。少しの沈黙がすごく気まずい。変なことを言ったのだろうかと不安になる。まぁ、言ったのだろうけど。


 そんな私の不安は、太郎は私の握った手にもう一つの手を重ねることで、徐々に溶けてゆく。


「囚われのお姫様を救い出せたなら、それが次の僕の役割だ」


 漫画のセリフみたいな言葉なのに、私は自分の顔が熱くなっているのを感じる。


 まだ私は囚われているから、いろいろなことを正しく理解できていないのかもしれない。あるいは、本当に囚われているかだって自分ではわからない。


 今、お母様が捕まり、一方ではすごく不安なのも本心だ。だから、今は正しい判断ができるかわからない。今この場の決算は、もっと後にきっとついてくるものだと思う。


 だけど、きっとこの嬉しい気持ちだけは本物だ。だったら、これからたくさん太郎に恩返しをしなきゃな。それで、恩返しを口実にして、太郎とずっと一緒にいるのだ。


 もし選べるならばそんな未来がいいなぁと、私は心の中で思った。

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人形ちゃんを不幸にしなきゃ可哀相 ぽぽぽぽぽんた @popo_popo_ponta

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