第37話 放火
時刻は夜中で、私は近所のお寺に来ていた。
もう夜だから誰もいない。天気は透き通るほどの星空。乾いた空気に鼻が痛いくらい。お寺は重要文化財で、木造。持ってきた食用油をかけるだけで、それはすごく燃えるだろう。
放火は重罪だ。
人間など完全に解明済みで、何か問題があってももとに戻せるものとは違い、地球上ありとあらゆるものは燃えると元に戻せないらしい。もっとも事前にデータを取っておけばその限りじゃないらしく、以前高価な美術品を壊すことも合法的に行ったことさえあるけれど。
ともかく人が死ななくなった現在に於いて、それより上の罪となれば国家転覆罪くらいしか思い浮かばない。
カラッとしていてよく燃えそうなお寺。私はそこに油をまいた。きっと火を付けたら燃えるだろうか。延焼は森を焦がすだろうか。あるいはこの街一体が燃えてしまうだろうか。
私はチャッカマンを取り出し引き金に力を入れた。小さな火が暗闇に光る。
瞬間、私の手首は握られた。
「放火未遂ですね~」
笑顔で私の動きを止めた女の桃娘がいた。
「どうしてわかったんですか?」
私は間抜けな質問をした。
「監視カメラと各種センサーでいくらでもわかりますよ~。こちらへ来ていただけますか~」
私は放火さえできず、ただただその桃娘に腕を引っ張られ、逃げることもできずその先導に従った。私は自分の犯罪が失敗したことを悟った。ただしそれ以外はわけがわからなかった。急に車に乗せられたと思ったら、その後無機質な建物に連れて行かれて小さな部屋に通された。本当に小さな部屋だった。真っ白で、小さな窓には鉄格子が掛かっていた。更に、小さな窓も光を通さない素材でできているようで、私は、
「ここで待っていてくださいね~」
どうして? いや、もちろん理由は私が放火しようとしたからだと思う。じゃあここは牢屋なのだろうか。いきなり? 古典小説の知識では、留置場というんだっけ?
でも、もっと聞き取りとかそういうのがあっても良さそうなものだけど。現代社会は犯罪なんて起こらないに等しいし、あまり大事になることもないのでその情報は出回りづらい。
いつまで? いつまでここにいるんだろう。その部屋でできることは何もない。よく見るとその部屋にはトイレまで備え付けられており、外に出る必要を消し去ろうとしているみたいだ。少し寒くて、何もできなくて、なんでか泣きたい気分になった。
なにか悪いことをしたんだろうか。もちろんしたが。そもそも方法が間違っていたのだろうか。私はどうしてこんな状況になっているんだろう。私はただ、私が桃娘になったあとにお母様が対処してくれるか確かめたかっただけで……。
今が何時かもわからない中、部屋にノック音が響き先程の桃娘が顔を見せた。
「お食事ですよ~」
それは栄養を摂るためだけのバークッキー。私は誰かと喋りたかったので、彼女に話しかけた。
「私はこれからどうなりますか?」
「今あなたの親御さんと連絡を取っているところですね~」
「……お母様は、来てくれるんですか?」
「結果が出たらお知らせしますね~」
有無を言わせず彼女は出ていってしまった。そしてまた音のない時間が訪れ、私の頭の中で無為な考えが延々と巡っていた。それから更に時間が経ち、もう朝方にはなっていると思うのに全く眠くならなかった。そもそも布団もない部屋で寝るのが難しいのもあるが。
どれほど時間が経っただろう。再び桃娘が顔を見せた。
「保護者が来てくれましたよ~」
そう言って現れたのはお母様ではなかった。
「ヒカリちゃん、ひさしぶり。迎えに来たよ」
佐々木さんだ。お母さんの秘書を務めるこの人は、馴れ馴れしい笑顔を浮かべて現れた。
「……お母様は?」
「忙しい人だからね。今も駆け回っているよ、それじゃあ行こうか」
見知った顔ではあるけれども、私は何を喋っていいかわからず、車で移動する間は気まずい時間が流れていた。そもそも私は放火をしようとしたにも関わらず怒られもしないし、だからこそ私はどうして良いかわからない。
しばらく車に揺られて、戻ってきた自宅はずいぶん久しぶりな気がした。
「ちょっとこっちへ来て」
佐々木さんは地下に私を導いた。極秘裏の会議などで使われるため私は入ることができない場所だ。なんだろう。その中の一室に、私は通された。
「こっちこっち」
私は彼の元に行くと、急に片手に冷たい感触がした。
「ごめんね。これも空乃先生の指示なんだ」
気がついたら左手に手錠がかけられており、もう片方は壁から不自然に出っ張った金属の輪っかに繋がれていた。
「……なんですか?」
「僕も詳しくは聞いていないんだけど、先生のご意向だからね」
そして、佐々木さんが部屋から出ていくと、私は再び閉じ込められた。手錠を強く引っ張ってみる。手首に痛みが走り、皮膚が少し裂けた。最悪だ。私は力なくへたり込むと、手首は高い位置から降りてこなかった。今度は床に横になることさえ許されないらしい。
「……どうして?」
お母様の意向だと言った。どうして、どうしてこんなことに。またどれだけかわからない時間が経って、そして扉が開いた。
いつもと同じ表情をしたお母様が立っていた。
「お、おか……」
口が乾いて、うまく発話ができなかった。そんな私に対して、お母様はニッコリと微笑みかけた。
「安心してくださいヒカリさん。警察庁に掛け合って、あなたのしたことはなかったことにしてもらいました」
それは放火未遂のことだろう。しかし、なかったことになっている? だとしたら、今こうやって拘束されているのはなぜ?
「本来だったら
私はお母様の言っている意味がわからない。
「だからね、オーガニックな方法でヒカリさんにわかってもらう必要があるわ。だから少し痛かったり、寒かったり、お腹が空いたりすると思うけど、全部はヒカリさんを思ってのことなの。それだけはわかって欲しい。いいですか? どういうつもりかわからないけれど、犯罪を犯したら桃娘にされるわ。今回はごまかせたけど、毎回うまくいくわけじゃない。一歩間違ったら本当に桃娘になってしまうの。でも、そう言ってもあなたは心のそこで理解はしてくれないでしょう? それでね、この時代に暴力に訴えても怪我なんてすぐ治っちゃうし危機感が薄いでしょ? だからわかってもらうには、ゆっくりゆっくり、時間をかけないといけないの。わかるわよね? だからねヒカリさん。これからの時間を考える時間に充てなさい。それで、自分が何をやったのかよく考えて。これからどう生きるべきかっていうことを見直すの。これはヒカリさんだけの問題ではなくて、私の問題でもあるのよ。わかるでしょ?」
私は何も喋ることができず、無言でその話をきいていた。私はなんて馬鹿なことをしたんだろうと思い、この境遇も仕方ないのかなぁなんて思ってしまった。結局ただの学生の分際で、世間様に迷惑をかけようなんて考えたのがいけなかった。
確かにこんな自分本位の目的のために放火だなんて、どう考えても狂っている。それに私は、幸福大臣の娘だ。その娘がこんな不良行為を働いたとすれば、きっとお母様にも迷惑がかかるに違いない。私は悪い子で、だからこそこうやって嫌な思いをするのが正しい。手首の痛さは時間とともにジクジクするし、ずっと変な姿勢で座っているため全身に張りがある。眠くて仕方ないが同時に目も冴えていて、空腹は何度も私をえづかせた。
わけが分からないほど泣けてきて、意味のない言葉を口から吐きだした。毎日たのしいなぁとか、太郎に会いたいなぁとか、人形なんて大嫌いだとか。そういった、意味のない言葉の意味を考えた。その時間だけは全身の不快感を忘れることができた。
だからなんども考えた。太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ。
極限状態になって、私はその思いを強烈に自覚した。彼は桃娘だけどそう思ったのだ。だから桃娘かどうかなんてどうでも良かったのだ。どうして今更そんなことを。ただ私は、それにもっと早く気づいて、一言つたえておくだけで良かった。そうすれば、もっと別の未来もあったのかもしれない。
ああ、太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ太郎に会いたいなぁ。
「会いに来たよ」
極限状態で、私はいよいよ幻覚が見え始めた。なんだか目の前に太郎がいるように見える。いつもと同じような制服を着て、いつもと同じような表情で。
でも幻覚は心地よくて、私は身を任せたかった。現実逃避でも、今まさに感じている痛みを忘れられる上に、これほど多幸感を得られるのならばその波に飛び込む意外に選択できない。
「嬉しいな。私、太郎にあえて嬉しい」
「そんなこと言うキャラだったっけ、ブス」
「はぁ、こんなときに悪口いらないんだけど」
「ああ、ごめん冗談だよ。ははは」
そうして幻覚の彼は私に手を伸ばした。私はその指先に私の指を絡めた。奇跡が起きた。まるでその幻覚は生きているように実体があり、脈動のぬくもりを通して生を感じさせるのだった。それが意味するところはつまり。
「ねぇ、そこに太郎はいるの?」
「ついに頭おかしくなっちゃった?」
「冗談やめて」
「じゃあまぁ」
太郎は小さく咳払いして、私がとっても安心できる笑顔を浮かべた。
「助けに来たよ」
頬に涙が伝った。でも。
「……どうして?」
どうして私が捕まってるってわかったの?
「やっぱりヒカリさんは、囚われの姫だなぁ。さぁ、行くよ」
太郎は巨大なペンチのような道具で私が繋がれれている鎖を切った。太郎はそれを適当に捨てる。
私は太郎に連れられて、そして自宅を後にした。そこでは守衛さんに止められることもなく、すんなりと出ていくことができた。
太郎がどんな魔法を使ったのか私には想像もつかない。私は急に痛みも忘れ、まるで飛び跳ねるように走ることができた。晴れやかで穏やかな心地よさに包まれていた。
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