塩ラーメンの底

とてぬ

塩ラーメンの底

「何か自慢できることはありますか?」


 そう訊いてきた若い男の面接官に、俺はドヤ顔でこたえた。


「塩ラーメンの底を見た」


 その日の夜。俺は高校からの友達に連絡を取った。事の経緯を説明したあと、労働組合を作り、俺を落としたあの会社を潰すことを約束した。

 翌日。駅前のカフェにその友達を呼びつけた。


「さあ、行動開始だ!」


 意気揚々と俺が「労働組合 作り方」とスマホで検索していると友達が冷めた声でいう。


「してない」

「は?」

「そんな約束してない」

「な!? さてはお前、あいつらの回し者か?」

「違うって。現実見なよ。そもそも労働組合は社内で働いている人たちが集う団体でしょ」


 俺は舌打ちして、話を変える。


「だったら、なぜ俺は落ちた? あの質問の答えはあれで間違いなかっただろ!」

「なんていうか自慢できることを聞いてくる企業も特殊だと思うけどさ……。塩ラーメンの底を見た? 意味わからないし。ダメでしょ普通に。ていうか敬語じゃないし」

「落ちた理由は内容以前の問題だったか……つまり、内容は良か」

「だから内容もダメだし。あと敬語覚えなよ」

「あまり否定的な意見は述べるべきじゃない」

「こりゃ頭もダメだね」

「だめだめダメダメ……いいだろう。ならいかに塩ラーメンの底を見ることが大抵の人間に叶わないことか教えてやる」


 俺は大学に入学したばかりのあの頃を思い出す。


 *


 4月下旬。電車に揺られて1時間。桜並木なんてない一軒家だらけの通学路を歩いたら大学につく。2限の授業を適当に聞き流したら、もうお昼の時間だ。

 階段を下り、食堂へ向かう。

 食堂は学生で溢れていた。ガヤガヤとした喧騒に少し物怖じする。

 俺の通っている大学は、3年前に新設されたので大学一年生から三年生までが在籍していて、まだ四年生はいない。

 それでも、ここまで混むのか……。

 内心でため息をつく。

 誰とも目が会わないように目線をさまよわせながら食券機の列に並んだ。


「なんにする?」


 突然誰かに話しかけられた。

 恐る恐る声の方を一瞥したのち、ホッと息を吐いて、軽口をたたく。


「あ、いたのか」

「いたわさっきから」


 ツッコミを入れてくれたのは入学してすぐに行動を共にすることになった菅原だ。高校で使用していたらしいジャージを身につけているが、違和感なく着こなしている。


「そうだな。どうしよう……」


 俺は今日のメニュー表を見ながら思案する。

 ただ、メニューの種類は3種類ほどしかないのでほぼ迷うことはない。カレーとラーメンは400円。そして日替わり定食550円。

 まず、カレーは辛すぎるときと普通すぎるときの2種類を週替わりする。今週は辛すぎる方なので選択肢から外す。別に辛いものは苦手じゃないけど、入学して翌日に食べたとき舌が焼かれた気がした。これは危ない。

 次に、ラーメン。俺の知る限り、醤油ラーメンと塩ラーメンがある。ラーメンは日替わりだ。今日は塩ラーメンらしい。前から気になっていたので候補に入れる。

 一応、今日の日替わり定食が気になるので見てみる。

 パタゴニアライス。

 塩ラーメンに確定した。


 食券をおじさんに渡して、トレーを台上の右端に置く。

 トレーに箸、れんげを乗せて左へ滑らせる。気持ちいい。


 おじさんは黒く深い丼に麺、具材、スープを順に入れていく。全体的に淡くて白い。

 最後に飾り付けられた紅生姜の赤がアクセントになり、全体の色彩に華やかさが生まれる。美味しそうだ。


 4人席が空いていたので腰を下ろす。続いて菅原は俺の対面に座った。


「菅原も塩ラーメンか」

「おん」


 そこで会話が途切れたので、俺は目前の塩ラーメンに意識を向ける。

 深い深い丼の奥底まで注ぎ込まれたスープは湯気を出しながら白く輝いている。スープに反射した俺の顔は希望に満ちた子どもの顔だ。同時に成人年齢に達してしまったことへの虚無感に襲われる。


「俺はまだ子どもだ」


 誰に聞かせるでもなくぼやいた。

 菅原が「何か言った?」と訊いてきたので軽くあしらい、また塩ラーメンと対峙する。


 麺。肉。とうもろこし。紅生姜。乗せられているのはそれくらいで、めんまやのり、もちろん味玉もない。けど、400円なら仕方ない。具材には鼻から期待していない。


 一番気になるのはスープだ。 


 俺は荒くなりそうな鼻息を堪えつつ、れんげでスープを一口すくう。

 腹が鳴った。

 れんげに口をつけて、一口で飲み下す。しょっぱい塩の味が口の中に広がる。味はあっさりしていてくどくない。

 空になった口内に残るほのかな塩の香り。青春の香り。何もなかった高校時代を思い出して頭が痛くなる。


「これ。少し塩が効きすぎじゃないか」

「そうかぁ?」


 菅原は気にせる素振りを見せずにスープを啜った。

 腹が立った。

 俺は決心する。

 絶対にこいつよりも塩のスープを飲んでやる! 

 底を覗いてやる! 


「塩ラーメンの底を見る!」


 俺の宣誓に反応してくる菅原に目もくれず、スープをすくう。飲む。麺を啜る。とうもろこし。スープをすくう。飲む。麺を啜る。肉。スープをすくう。飲む。麺を啜る。とうもろこし。スープをすくう。飲む。麺を啜る。紅生姜。スープをすくう。飲む。麺を啜る。肉を食べ切る。スープをすくう。一緒にとうもろこしもすくう。飲む。麺を――。

 気づいたら麺、肉、とうもろこし、紅生姜が無くなっていた。

 残ったのはスープのみだ。


「紅生姜の置き土産か……」


 スープは赤く染まっていた。

 まるで、はじめは俺に無表情、無関心だった女子が恥じらいを見せたかのような瞬間だ。だって頬が赤く染まっているじゃないか。灰色の高校時代が鮮やかに色づいていく。

 ――どうしたの?

 ――なんでもないよ……

 ――そんなことないでしょ。

 ――えっと、その、わたし前から君のことが……


「俺も好きだ」


 笑いながら「どうした?」と菅原が尋ねてくる。

 現実に引き戻された。

 そうか。青春なき灰色の記憶に紅生姜が幻想を見せたのか。そうか……。

 腹が立った。


「許さない」


 俺は残りのスープを飲み尽くすために、丼を持ち上げて、口を大きく開いて構える。

 そして一気に流し込んだ。


 塩。塩。塩。しょっぱい!

 塩。塩。塩。しょっぱい!

 塩。塩。塩。しょっぱい!

 塩。塩。塩。しょっぱい!


 もう無我夢中だ。


 塩。塩。塩。しょっぱい!

 塩。塩。塩。しょっぱい!

 塩。塩。塩。しょっぱい!

 塩。塩。塩。しょっぱい!


 そして――丼を机に叩きつけた。


 おぉっ、と菅原が固まる。

 それも一瞬のことだった。

 俺が丼の底を見せると、菅原の瞳孔は徐々に見開かれ、なにやら口も開き始め……。


「全部……飲んだのか?」


 声を震わせてそう言った。

 驚愕と感心が見て取れるその顔に向かって俺はドヤ顔でこうこたえた。


「塩ラーメンの底を見た」


 丼の底は黒いだけで何もなかった。


 *


「えっと……今の話のオチはどこにあるの?」


 長々と語ってあげたのに失礼なことを言ってくる友達にいう。


「あっさりした話だろ」


 彼はしょっぱい顔をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

塩ラーメンの底 とてぬ @asatyazuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ