第53話 帰郷

 世間はすっかり夏になった。

 毎日あちぃし、虫やカエルはうじゃうじゃいるし、夏は大嫌いだ。

 しかも、今日からお盆休みときてる。

 ピンポーン!

 あ? 呼び鈴だあ? っとに、誰だよ……水持って行ってぶっかけてやろ……

「ごめんくださーい!」

 あ……あの声……何ヶ月か前に来たあの女の声じゃねぇか……もう二度と来ないだろうって思ってたのに、また来たのかよ!

 俺はイラッとして、玄関の扉をばっと開けた。

 目に入ってきたのは、あの女とくそオヤジともう一人は……

「あ、龍彦さん」

 亮太……

 俺は一瞬怯んだ。

 なんで……なんでそこにお前がいるんだよ……なんだ、その女……やっぱりそいつ、お前の女なのかよ……くそっ、なんだかむしゃくしゃする!

「龍彦、こちら佐川汐里さん……亮太の婚約者だよ」

 うっせぇ親父! 俺にはなんも関係ねぇよ!

 なぜか、水を入れたバケツが持ち上がらない。あの女を追い返そうと、わざわざ持ってきたのに。

「初めましてじゃないですけど、この間は名前を名乗らなくて失礼しました! あ、それ、私にかけるために持ってきたんですか? 大丈夫です、今回はちゃんと着替ありますから! かけたかったらじゃんじゃんかけてください!!」

 あはは、と女は無邪気に笑った。

 くそ暑い夏の日差しの中の笑顔が、やたらと胸に沁みる……なんなんだ、こりゃ……

 俺はたまらず視線を外して、手にしたバケツをひっくり返した。

 足元から亮太の足元に向かって作られていく黒い筋を、じっと目で追いかける。

「何しに来やがった、疫病神が……」

「龍彦、またそんな言い方をして!」

「大丈夫です、おじいさん……私にとっては、亮太は幸福の神様なんで!」

 っ! 俺の前でベタベタすんな! やっぱりさっきの水、この女にかけてやれば良かった!

「親父……」

「あぁ? なんだよ?」

「ごめん」

 ……はあ? なんだよ、亮太……なんでお前が謝るんだよ……

「俺が生まれてこなければ、母さんは死ななくて済んだかもしれない……ずっと……それを謝りたかったんだ」

「今さら……謝ったって……」

 亮子は、帰ってこない。

 違う……亮太が悪いんじゃない……わかってんだ、そんなことは……本当は、俺だってわかってる……

「うん……今さら俺が謝っても、どうしようもないことはわかってる。これは、けじめだよ」

「けじめ?」

「俺は、幸せになることにしたんだ。汐里と……汐里が傍にいてくれたら、俺はきっと強く生きていかれるから」

 一緒に……この先の人生を、亮子と一緒に歩めたら。俺は頑張れる。どんなに辛いことがあったとしても。

 それ……俺が思ったことと一緒じゃねぇか……

 気づけば、頬が冷たくなっていた。

 亮太とあの女、それに親父までもが呆けた視線を向けてくる。

 やめろ、俺を見るな!

 俺はいたたまれずに、家に向かって走った。

「亮子……」

 仏壇の前で笑う亮子は、あの日と変わらずに明るくて眩しい。

 ごめん、ごめんな、亮子……

 俺は縋るように、亮子の写真を胸に抱えて静かに叫び続けた。


「大丈夫かな、お父さん……私、お父さんを泣かすようなこと、なにか言ったかな?」

「いや……もしそうだったとしたら、原因は俺の方だと思う」

 数年ぶりに姿を見せた孫の横で、その婚約者の娘さんが幸せそうに笑う。

 ああ、本当にこの日まで生きてて良かったよ……里子……

「あの、私達お墓参りに行きたいんです……皆さんに、手を合わせたくて」

「ああ、そうかい……ありがとう。じゃあ、私も一緒に行こうかな」

 不意に夏の太陽が雲に隠れて、一瞬だけひやりとした。

 亮子さん、亮一、里子……みんながそこにいて、優しく微笑んでいるような気がした。

 亮太と佐川さん、私の3人で墓地までの道を歩く。

 雨が降る日も晴れの日も。人生のどんな苦しみも喜びも。

 どうか二人で分かち合って、幸せに生きて欲しい。

 私は若い二人の前を歩きながら、そっと空を見上げて強く祈ったのだった。

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頭に咲いた白い花は幸せの象徴か 鹿嶋 雲丹 @uni888

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