第13話 残酷な選択

 夢中で筆を動かしていると、いつの間にか空は赤く染まり、美術室には夕日が差し込んでいた。

 窓から差し込む光が眩しくて目を細める。

 前を見ると、秋穂はまだ筆を止めずに一心不乱に絵を描いていた。

 彼女の邪魔をしないように、俺はそっと立ち上がると、窓際に立つ。

 外は幻想的という言葉がよく似合う、そんな風景が広がっていた。

 空は一面橙色に染まり、山の向こうに沈み行く太陽は雲を朱色に染め上げて、街を縁取るように流れる川はそれを鏡のように映し出していた。

 空と川と街の境目は淡いオレンジ色に輝いており、まるで世界が燃えているかのようだ。


「輝彦、そろそろ帰らない?」


 そんな光景に目を奪われていると、不意に後ろから声をかけられた。

 振り返るとそこには帰り支度を済ませた美春が立っていた。

 彼女はいつものように優しい微笑みを浮かべながら、こちらを見ている。


「ああ、そうだな」


 短く答えて、机の上に広げていた道具を片付け始める。


「じゃあな。秋穂も遅くならないうちに帰れよ」


 帰り際、秋穂に別れの挨拶を告げると、「はい。お疲れ様でした」そう絵と向き合ったまま答えた。

 人間関係というのは難しいものだ。

 近づきたいと思って急接近すると、かえって遠ざけられてしまうこともある。かといって、このままの関係を続けるわけにもいかない。

 こんな感じで挨拶をして、微調整をするように少しずつ距離を縮めていくのが得策だろう。


 ☆★☆


 二人並んで帰路につく。

 美春との帰り道はもう1000回以上歩んでいるだろう。

 だから、特に会話が必要というわけではない。

 ないのだが、今日は少し違和感があった。

 いつもなら俺の隣に並び、言葉がなくても楽しそうに歩いている美春が、今日に限って俺の半歩後ろを歩いている。

 しかも、心なしか表情は暗く、俯いているようにも見える。

 やはり昨日のことが尾を引いているのだろうか。


「美春」

「な、なに?」


 声をかけると彼女はビクッと肩を震わせて、恐る恐るこちらを見た。

 その瞳は微かに潤んでいる。


「昨日のことなんだが……」

「気にしてないよ」


 俺の言葉を遮るように彼女はそう言った。


「え?」


 予想外の反応に俺は戸惑う。いつもの美春なら「昨日ことって何かな?」などとからかうように言ってくるはずなのに……。

 しかし、今の彼女には冗談を言う余裕すらないように見えた。


「だって、ふられることなんてわかりきってたことだもん……」


 そう言う彼女の表情はひどく悲しげで、今にも泣き出しそうで、青と黒が混じり合ったまるで深海のような色が見て撮れた。


「私ね。小さい頃からずっと輝彦のこと好きだったの。でも、輝彦は私のことが好きそうなそぶりなんて見せなくて、どちらかと言えば親友みたいな感じだった。それで、私は思ったの。もし、私が告白したらこの関係が壊れてしまうんじゃないかって。だから、怖くてなかなか言い出せなくて……でも、七夕の夜なら……七夕の夜ならもしかたら願い事が叶うかもしれないって思っちゃったんだ。けど私はバカだ。七夕なんて輝彦が一番嫌いな日なのに、そんなことも忘れて自分の願いにばかり夢中になって……自業自得だよ。ほんと馬鹿だよね」


 そう言って彼女は自虐的に笑った。

 いつもの明るさは完全に失われていて、見る影もない。


「昨日のことは忘れて……。恋人になれたらもちろん幸せだったけど、今の関係のままでも十分幸せだし。それで満足だから」


 無理して笑顔を作る彼女の瞳からは涙がこぼれ落ちていた。

 それは頬を伝い、アスファルトに黒い点をつくる。

 その数はどんどん増えていき、やがて大きな染みを作った。

 そして、嗚咽を漏らし、その場にしゃがみこんでしまう。


「ごめんなさい……。ごめんなざい……ごめん……なさい……」


 彼女は何度も何度も謝罪の言葉を口にした。まるで、自分を責め立てるように……。

 美春はいつも笑顔を絶やさなかった。

 どんな時でも笑顔で、明るく振る舞っていた。

 けれど心の内ではいつも不安だったのだろう。

 俺との関係を壊したくないからと言って自分の気持ちを押し殺していたのだ。

 彼女の気持ちにはとっくに気づいていた。気づかないふりをしていただけ。

 俺はあえてそれを指摘せず、見て見ぬふりをし続けていた。

 美春が自己解決してくれるだろうと淡い期待を抱いていたのだ。

 そうすれば彼女が傷つくことはないと思っていたから……。

 しかし、現実は違った。彼女一人に抱え込ませたことで、事態は最悪なものへと変わってしまったのだ。

 これは俺の責任だ。俺がきちんと対処していればこんなことにはならなかったのだから……。

 だが今更、俺にはどうすることもできない。

 俺は絵を描く方法しか知らないから。

 だから、俺は美春を優しく抱きしめた。

 あの日見た絵本のワンシーンのように……。


「…………っ」


 突然のことに驚いたのだろう。腕の中で美春が小さく息を飲むのがわかった。

 だがすぐに安心したのか、ゆっくりと息を吐いて、俺に体重を預けてくる。


「ごめん……なさい……」


 しばらく抱きしめていると、消え入りそうなほど小さな声で彼女は言った。

 その声は震えており、鼻をすする音も聞こえてくる。


「…………」


 俺は何も言わず、ただ黙って彼女を抱きしめ続けた。

 何かを言えば、俺はきっと俺は王子様を演じられなくなると思ったから……。

 俺は本当に残酷な奴だ。

 もしこれを愛の抱擁だと美春が勘違いしたらと思うと、罪悪感で胸が痛くなる。

 だからと言って、俺は彼女の気持ちに応えることはできない。

 だって…………俺には"あの人"がいるのだから……。


 どれくらい時間が経ったのだろうか。

 彼女は落ち着きを取り戻し、ゆっくりとこちらから離れていった。


「ありがとう。もう大丈夫だよ」


 まだ少し目元は赤いが、それでも先ほどよりはだいぶマシになっている。

 頬が赤く染まっているのはまた別の問題だ。


「美春。お前の気持ちは嬉しかった。だけど、俺は……」

「うん。わかってる。ただ、ちゃんと言っておきたかっただけ」


 そう言うと、彼女は再び歩き出した。

 今度は後ろではなく少し前を歩く形で。

 俺はその後ろ姿を見ながら思う。

 これでよかったんだと……。

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