第十七話  恋者花耳 〜れんじゃくゎじ〜

 狭野方さのかたは  にならずとも


 はなのみに


 きてえこそ  こひのなぐさに






 狭野方波さのかたは  實尓雖不成みにならずとも

 花耳はなのみに

 開而所見社さきてみえこそ 戀之名草尓こひのなぐさに





 さのかたは実にならなくても……あなたと結ばれることがなくても、


 花だけは咲き開いて、あたしに見せてください。


 恋のなぐさめに。






   万葉集  作者不詳




     *   *   *




 外に降りしきる、細雪ささめゆき

 簀子すのこ(廊下)に立っていたのは、日佐留売ひさるめだった。

 大川が妻戸つまとを開いた勢いに目を丸くして、火鉢ひばちを持っている。

 私は言葉がでず、まばたきをした。


比多米売ひたらめじゃない……。)


 瞬きした拍子ひょうしに、目から涙が零れ落ちた。

 日佐留売ひさるめがその涙をじっと見つめ、何か言いたげな表情で、


「あ……。」


 と口を開いた。


「どうした。」


 見られたくないところを見られた。

 私はさっと袖で涙をぬぐい、刺々しい声をだした。


「あの、火鉢の替えを……、入ります。」


 日佐留売ひさるめが私の答えを待たず、さっと私の横をすり抜け、部屋に入った。


「火鉢なら、替えなくても、つ。」


 事実だった。

 日佐留売は顔をふせ、


「雪の日は、冷えますので……。」


 と火鉢を置き、そのまま、つっと立った。

 まっすぐ、こちらを見る。



   *   *   *




 大川さまの涙を見てしまった。


 いつも遠くから見ている時にも、その秀麗さにクラクラするほどなのに、今、憔悴しょうすいしきった顔で流す涙は、吸い込まれそうに美しく、凶暴なまでに魅力的だった。

 日佐留売ひさるめは胸の早鐘がおさまらない。


(こんなに傷ついて……!)


 比多米売ひたらめのやった事が信じがたく、許せなかった。

 あたしなら、何を言われても、広河さまになびいたりしない。

 そもそも、大川さまを傷つけるような形で共寝ともねを誘ったりしない。

 




 あたしは、秋間郷あきまのさとで育てられたが、時々帰ってくる母刀自には、


「十四歳になったら、上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官とします。いずれは女嬬にょじゅとして、女官を束ねる立場となりなさい。

 堂々とし、けして女官達から舐められてはなりません。

 つとめの隅のすみまで気を配り、広瀬さま、宇都売うつめさま、加巴理かはりさまに忠義をつくしなさい。

 加巴理かはりさまは、あたしの乳を飲んだ御子おこ。おまえはとくに心を尽くしなさい。

 ……加巴理かはりさまは、玉が輝くように聡明で美しいおのこよ。」


 そう、聞かされて育てられた。

 顔も見たことがない、美しい加巴理さま。

 一緒に秋間郷で暮らしていた弟、布多未ふたみは七歳で、上毛野君かみつけののきみの屋敷近くの、群馬郡くるまのこほりにある屋敷に身を移すことになった。

 八歳のあたしは、悔しくて、


「あたしも、加巴理さまを一目見とうございます。いつも、忠義をつくせ、玉のような御子おこ、とお話を聞くばかり。せめて、お顔を見たいのです!」


 と母刀自に直談判した。

 そして、布多未が加巴理さまに挨拶にあがったときに、一緒にお目通りさせてもらったのだ。


 六歳の加巴理さまは、聡明そうで、美しく、目の光が澄んでいた。

 本当に、玉のような清らかな男童おのわらはだった。

 あたしはあまりの美貌に驚き、なんとか自分の名前だけ名のり、それ以上、何も会話はできなかった。



 ……あの日から、ずっと、加巴理さま───大川さまの面影を忘れたことはない。



 十四歳で上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官にやっとなり、お目通りした十二歳の大川さまは、

立ち姿から気品があふれ、

歩く姿は颯爽とし、

涼しげな目元、

顔の全てはうるわしく、

少し微笑むだけであたりが輝くようなおのこと成長していた。


 あたしは、いつも、遠くから見ているだけで、胸が熱くなって、


(お慕いしています。)


 と心のうちで思うだけで、満足してしまっていた。



 そんな自分を日佐留売は今日、恥じた。



(もっと早く、勇気を出すべきだったのだわ……!)


「大川さま、ずっと、ずっと前から、お慕いしておりました。

 明後日、奈良へ発たれてしまう前に、どうか私を……、私をさ一夜ひとよいもとしてください。その後は忘れてくださっても良い。でも今宵、今宵だけは……。」


 日佐留売は両手を胸の前で握りしめ、目を潤ませ、一気に言い切った。





    *   *   *




 大川は、目を見開いたまま声も出ない。

 乳母ちおもである鎌売かまめの娘なのだから、もちろん良く顔は知っている女官だが、あまり話しかけられた事はなかった。

 おとなしい女官だと思っていた。


 ……どうするか。


 私の身体の内側で、ぐずり、と真っ黒で凶暴な怒りが、身動きした。


 今朝、兄の顔を殴った。

 山橘の活けてあった緑釉みどりゆうの花瓶を床に叩きつけ、粉々に壊した。

 父に殴られ、憎しみの言葉をぶつけた。

 それでも足りぬ。

 まだ足りぬ……、と。

 殴れ。

 剣を突き立てろ。

 壊してしまえ……、と。

 身体の内側の真っ黒なものが叫び続けている。



 今も私を苦しめている、この身を焼くような怒りを、日佐留売にぶつけて、思い切り声をあげさせるのも楽しいかもしれない。

 私は優しくできないだろう。

 娘は悲鳴をあげ、苦悶の表情を浮かべるだろう。

 怖い思いをし、もう許して、と泣くかもしれない。

 それでも私はやめないだろう。


 この娘を恋うているわけではないのだから。


 この怒りをぶつけて、ぶつけて、桃の薄皮を砥石といしでこそげ取るように、私はこの娘をボロボロにしてしまうだろう……。


 暗い衝動を自覚しながら、ゆっくり私は娘の頬に触れた。


 その頬は、震えていた。


(!)


 目はまっすぐこちらを見、口はきっと引き結び、強い意思を目に浮かべながらも、その頬は、ぱっと見分からないほど、細かく小刻みに震えていた。


(私はなんて事をしようと……!)


 私は、ぱっと手を引っ込め、爪が食い込むほど握りしめた。

 日佐留売は、三虎の姉だ。乱暴に扱って良いわけがない。

 いやそもそも、おみなをそんなに傷つけて良いわけがない。

 いつもの私はどこに行ったのだ。

 そんな最低なおのこだったのか、私は……!


「お、大川さま……?」


 日佐留売が恐る恐る名を呼んだ。


 私は一つ頭をふると、思い詰めた顔の日佐留売になんとか笑いかけた。


「日佐留売。目を閉じて。動いてはいけないよ。」

「はい。」


 日佐留売はすぐ、ぎゅっと目をつぶった。

 私は厨子棚ずしたな(背の高い棚)へ行き、高麗錦こまにしきの袋を取り出した。

 日佐留売の前に戻る。

 十七歳の日佐留売は、すっきり弧を描いた眉、可愛らしい唇、澄んだ黒目がちな目の、優しげで、美しいおみなだった。

 今、力をいれて目をつぶって、きゅうっとなっている表情も、愛らしいものだった。


(あまり三虎と似てないな。)


 私は苦笑する。

 そして静かに、高麗錦こまにしきから取り出した金のかんざしを日佐留売の耳上の美豆良みずらに挿した。

 金の感触が冷たく、驚いたのだろう。


「あ……!」


 目を閉じたままの日佐留売が声をもらす。


「もういいよ。」


 私は日佐留売のすぐ前に立ち、優しく微笑みかけた。

 目を開けた日佐留売と、見つめ合う。

 でも、何もしない。

 手はだらりと下げて、触れようとしない。

 

「大川さま……。」


 私の目を見て、意思を理解した日佐留売が、みるみる涙ぐんだ。

 私は日佐留売の右手をとり、高麗錦こまにしきの袋を握らせた。

 そのまま、手をとったまま、日佐留売と見つめ合う。


「美しい日佐留売。

 気持ちは嬉しい。だが日佐留売は鎌売の娘で、三虎の姉だ。とくに三虎は、私の無二の友だ。その姉を、傷つけるようなことは私はできない。」

「…………。」

「その簪はあげる。好きにして良い。日佐留売、他の誰かと、幸せにおなり。」


 手をそっと離した。


「う……っ。」


 日佐留売は右手に高麗錦こまにしきの袋を握りしめ、左手で自分の口元を抑え、素早く部屋を出ていった。


 その目からは、白珠しらたまのような白い涙が零れているのが見えた。

 簀子すのこ(廊下)を遠ざかる鼻高沓はなたかくつの足音を聞きながら、雪降る夜、凍える簀子すのこはどれだけ足を冷たく刺すだろう、と思った。


(すまない……。)


 ひとり忍んできて、震えていた娘。

 そう……、雪のように真っ白に清い娘なら、たとえ恋いしいおのこ相手でも、震えるのが普通だ。

 あれが普通なのだ……。

 そう思い、

 比多米売ひたらめ日佐留売ひさるめは違っていた、と思い、

 比多米売ひたらめは震えてなどいなかった、むしろ、震えていたのは私の方だ……、と思い当たる。


「くッ……。」


 胸が震える。

 比多米売ひたらめが恋いしく、今だって、そこの宵闇から滑り出てきて、


 ───いもと呼んで。


 と言われたら、迷いなく、私のいもと呼ぶだろう。

 それでも、

 一昨日、震えながら、もう許して、お願い、と私は言わなかったか。

 そんなこと、しないで、と私は言わなかったか。

 比多米売ひたらめは、笑いながら、何一つ、私の乞うたことを聞き入れてはくれなかった。


「くぁ……!」


 涙があふれ、こんなこと思わせた日佐留売ひさるめが嫌いだ、と思い、許しを乞うても、なぜと問うても、答えてくれなかった比多米売ひたらめが嫌いだ、と思い、もうおみなが嫌いだ、と思い、


「ぐッ……。」


 そばの柱を左の拳で強く殴った。


 酷い八つ当たりをしている。

 こんなの八つ当たりだ。

 こんな自分が何より嫌いだ、と思った。


 胸の震えが止まらない。

 柱にもたれかかって泣いた。


 もう嫌だ。


 もう……、何も考えたくはない。








↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330662070756700





    *   *   *




 【補足説明】

 日佐留売が、「さ一夜のみいもに」と言っていますが、いもは本来、一生に一人のみ。

 日佐留売は常識とは違うことを言っています。

 「今宵だけ、私をたった一人の運命の女としてください。」と、大川に懇願しています。


 ちなみに、「さ一夜ひとよ」は、「一夜」に、言葉を装飾する「さ」をつけたもの。「美しい一夜」「尊い一夜」というニュアンスで捉えてください。






●「あらたまの恋 ぬばたまの夢 〜未玉之戀 烏玉乃夢〜」


 を読了済みの読者さまへ。

「あれあれ、あのシーン、どこだったけかな?」



第五章  「金のかんざし」


第一話  恋者邐倚 〜れんじゃりい〜


https://kakuyomu.jp/works/16817330650489219115/episodes/16817330650926467122

ここですよ〜。





万葉集  巻十  1928番ですよ。

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