第十六話  恋者積思 〜れんじゃせきし〜

恋者れんじゃ……恋する者。または、恋は。

積思せきし……思いをつのらせる。



    *   *   *




 大川おおかわから、明後日、奈良へ発つ、と聞かされた母刀自ははとじ───宇都売うつめは、


「まさか、こんなすぐとは……。」


 と驚き取り乱したが、


「見聞を広める事は良い事です。

 大川。大きく成長して、帰ってくるのですよ。」


 と優しく強く、大川の両手を握りしめてくれた。

 



     *   *   * 





 大川が奈良へ行くという話は、すぐに屋敷中、知る事となった。




 昨日、賊が入り、とうとう捕まらなかったこと、宇都売の女官が一人、広河に貰われたことは、すぐに古い話題となった。




 明後日は、早朝、奈良へ発つことになる。

 準備に使えるのは、今日と明日、二日間しかない。

 女官、下人たちは、上を下への大忙しだ。そんななか、


「三虎!」


 姉──日佐留売ひさるめが、三虎を呼び止めた。

 大きな葛籠つづらを運んでいた三虎は、仕方なく庭の石畳いしだたみを立ち止まる。


「明後日、三虎も発つのね?」

「そうです。」

「……さっき、於屎売おくそめが、誤って斧で指を落とした、血止め薬が欲しい、ただ大事おおごとにはしないで、ってあたしに言ってきたわ。

 医務室に行けば良いのに……。

 様子がおかしいから、弟の布多未ふたみか三虎に相談しましょうか? って言ったら、悲鳴をあげて取り乱したわ。

 あなた、何かした?」


 姉はきつい顔でこちらを見る。オレは眉一つ動かさない。


「何もしませんよ。」

「何かあったのね。」


 ……言葉の意味が通じていないようだが……?

 姉はぐいぐいとオレの胡桃色の衣の袖を人気ひとけのない木立のほうへ引っ張った。


「賊が入る、女官が広河ひろかわさまのところへ移る、大川おおかわさまが急に奈良へ行かれる、於屎売おくそめが怪我をする、どう考えてもおかしいでしょう?

 あたしが納得するように説明しなさい。」


 オレは、はあ、とため息をついて葛籠つづらを下に置いた。

 姉を見て、もう一度ため息をつく。


「みーとーらー。」


 姉がれる。


 まったく勘が良い。

 ……もう、大川さまとオレは、明後日、奈良へ旅立つ。

 上野国かみつけののくにへ帰国がいつになるかは、わからない。


 ここまで勘づいていて、ずっと真実を知らぬまま、何ヶ月も過ごすのは、流石に可哀想かもしれない。

 だが……。

 こんな話を姉にして良いのだろうか?


「姉上。知らないほうが……。」

「三虎。お黙り。どの口が知らないほうが良いと言うの。

 おまえが逆の立場だったら、大川さまに関して、知らないほうが良い、なんて事がこの世に存在するの?」

「………。」


 姉の言う通りだ。

 オレは素早く左右を確認し、聞き耳をたてている者がいないか確認してから、


「姉上、これを知るはほんの少人数。他言無用でお願いします……。」


 と、大川さまに何があったか話した。

 大川さまが一昨日、比多米売ひたらめとさ寝し、比多米売は賊にさらわれ、助けた広河さまが、比多米売と深い仲になり、広河さまが比多米売を貰ったこと。

 兄弟で女官をとりあったのか、と、広瀬さまのお怒りに触れたこと。


 ただし、於屎売おくそめが手引きしたこと、自分が於屎売おくそめにしたことだけは、伏せて話をした。


 姉は黙って、強張こわばった顔で話を聴いていたが、途中、顔をそむけ、目元を袖でぬぐっていた。




    *   *   *




 いぬはじめの刻(夜7時)


 大川は疲れ切り、一人、自分の部屋の寝床に横になった。


 まだ荷造りは終わらない。

 明日も忙しくなりそうだった。

 昨日は仮眠をとっただけなので、寝不足で頭がじんじんとした。



 今日、初めて、父の心に触れた気がした。

 憎い、と思いの丈をぶつけることもできた。

 あんな口答えができる日が自分に来るなんて、思いもしなかった。

 父はそれについては、もう充分だろう、としか言わなかった。

 私の言葉を受け止めてくれたのだろうか?

 私はそう返してほしかったのだろう?


 ……わからない。


 父は結局、自分の昔話をしただけではないか。

 どこの誰とも知れぬおみなを、どのように愛したかと聞かされても、


「……知らぬ!」


 知るものか。父がちょっとしおらしい話をしたところで、私と母刀自が寂しい思いをしてきたことに何ら変わりはなく、父が恨めしい事実は変わりなかった。

 ただ一点、明後日には奈良に旅立てるということだけは、父に感謝した。

 得るものは多いだろうし、兄に会わずにすむ。


「兄が憎い。」


 つぶやくと、胸の奥底がじり、とうずいた。

 一瞬しか見えなかった、小屋の明り取りから見えた比多米売ひたらめの背中が、目に焼き付いて離れない。

 私とさ寝したおみなを、兄はもう翌日、さ寝したのだ。

 今、会えば、私は何をするか分からない。


「殺してやりたい……。」


 もしかしたら将来、私は兄を殺してしまうかもしれなかった。

 腹に深々と剣を突き立てられ、崩折くずおれる兄を、私は表情を変えず見下ろすだろう。

 その情景を、まざまざと想像することができる。

 今朝だって、私は本気で斬るつもりだった。

 比多米売ひたらめが止めてくれなかったら、殺していただろう。

 比多米売。


「比多米売……!」


 若やる胸を教えてくれたおみな

 何も……、かんざし一つ与えてやることのできなかったおみな

 月明かりのもとでの顔だけ見せて、朝日が昇る前に、顔を見せず行ってしまったおみな


「うっ……!」


 寝床を涙で濡らし、


「なぜ……。」


 と夜の闇に問う。


 なぜ……、兄を選んだのだ。


 なぜかはわからぬ。

 自ら兄に下紐したひもを解いたなど、兄の狂言たわことだと思う。

 だが、私の剣から兄をかばい、兄と共に比多米売ひたらめは去ったのだ。

 比多米売は私を選ばず、兄を選んだ。


 兄が跡継ぎだから?

 そうなのかもしれない。

 私が兄に比べて劣っているから?

 そうなのかもしれない……。


「くぅぅぅぅっ。」


 腹がよじれるほどの苦しみに泣きながらもがく。

 おみなが……いつもたくさん私に声をかけてくれるから、考えてみたこともなかった。


 私はそんなに劣っていたか。


 一昨日、美しい裸を月光に浮かび上がらせ、私の左手の小指を噛み、


 ───ああ、素敵。大川さまは本当に素敵よ。


 と言ってくれたのに。

 なぜ、兄と行ってしまったのだ。

 なぜ、

 なぜ……。


「教えてくれ、比多米売……!」


 教えてくれるだけでいい……。


「大川さま……。」


 控えめなおみなの声が、妻戸つまとの外からした。


「比多米売っ?!」


(帰ってきてくれたのか!)


 私は寝床を飛び降り、素早く妻戸をタン! と開いた。



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