第十五話  剡剡 〜えんえん〜

 ※剡剡えんえん……鋭く光り輝くさま



    *   *   *





 子持山こもちやまの 


 そひの椿つばきひてらむ


 人妻児ひとづまころを いきがする


 しかまことならめ







 子持山こもちやまい咲く椿つばきのように、あなたに寄り添う恋をしたので、さをするのだ


 いとしい人妻ひとづまを、私の息(命)とする


 これは本当のことなんだよ






    *   *   *





 上毛野君かみつけののきみ広瀬ひろせは一人、浄酒きよさけをあおる。


(あなたは、愚かね。)


 心のなか、ただ一人のおみなが、口に領巾ひれをあてて、剡剡えんえんと輝く目で笑う。

 紅い大輪の花。

 どんなおみなをもかすませる、つややかな美貌のおみな


「…………。」


 私をただ一人、愚か者扱いしたおみな

 私のいも


 広瀬ひろせは思い出す。


 椿売つばきめのことを。





 あれは、私が十九歳。

 一年近く奈良に遊学し、上野国かみつけののくにへ帰国すると、兄、意氣瀬おきせ宇波奈利うはなりめかけ)を迎えていた。


 もともと女官であったのを、兄が手をつけ、ことほか気に入り、すぐに宇波奈利うはなりに迎えたとの事だった。


 たまたま、屋敷の裏の小山で、女官をともない、歩く椿売つばきめと出くわした。


「兄上の御子おこはできそうか?」


 その時、椿売つばきめは十六歳だった。

 私は、まったく不躾ぶしつけに、軽く冗談のつもりで、そう声をかけた。

 椿売は、きらりと大きな目を光らせ、私の手をぱっと取った。


「あっ!」


 と驚いた時には、椿売の腹に手を当てさせられていた。


「あたしの腹に聞いてくださいまし。」


 椿売の手は柔らかく、腹はたいらかで、近くに寄った顔は、信じがたいほど美しかった。

 生気にあふれた、黒目がちな瞳。

 自信ありげに微笑む唇から、ふ、と漏れた吐息が私の額に触れた。



 ───一りん紅艷こうえん花裏かり紛郁ふんいく凝聚ぎょうしゅうせしむるが如し───


 (一輪の紅艷こうえん(鮮やかな紅い椿)は、花裏かり(花の中)に紛郁ふんいく(さかんな香気)を凝聚ぎょうしゅう(かためて集め)させたかのよう。)


 くれないの色気が匂い立ち……。



 

 

 まあっ! と驚きざわめく女官達の声が聞こえ、


「……失礼を!」


 私はすっかり狼狽し、すぐにその場を離れた。


 私だって、おみなを知らぬわけではなかったのに、なぜ、あんなに、椿売にのめり込んでしまったのか。

 分からぬ。


 駄目だ、いけない、と、分かってはいた。


 なのに、止められなかった。


 兄の留守を見計らい、深閨しんけい(奥深くにある部屋。女性の部屋。)へ忍んで行く己の足を、どうしても止められなかった。


「いけないわ!」


 椿売つばきめは拒否の声をだして、身をよじる。


「椿売……! お願いだ。私の……、想いを、拒否しないでくれ。お願いだ……。」

「あたしは意氣瀬おきせさまの宇波奈利うはなりめかけ)よっ、知ってるでしょう!」

「知ってる。」


 唇で唇をふさぐ。


「いけな……。」

「知ってる。でも己を止められない。恋うてる。誰よりも、恋うてる。

 今生こんじょうでは、夫婦めおととして歩ける日は来ないかもしれない。だが、私は、おまえが欲しい。おまえの心を私にくれ、椿売!

 椿売以外、もう他に何もいらない。」


 衣擦れの音がし、衣を床に落とされたおみなが小さな悲鳴をあげる。


「……ああっ!」

「恋うてる。たまが絶えても良い。おまえだけを、恋うてる。私は……、魅力がないか?

 椿売から見て、私は、おのことして、そんなに、魅力がないか?」


 椿売の愛を乞い、懇願をにじませて、椿売の目をじっと見る。

 おみなの抵抗の力が抜ける。


「……あなたは、愚かね。あなたが、どんなに魅力的かなんて……。」


 椿売は顔をそむけ、瞳を閉じた。

 その頬にそっと手をあて、私は、


子持山こもちやまの。」


 口づけをする。


「そひの椿つばきひてからむ。」


 首筋に口づけを落とす。


人妻児ひとづまころを、いきがする。」


 おみなを抱きしめ、


「しかまことならめ。」


 耳元に囁く……。


 おみなの口が甘い淫楽いんがく(嬌声)を奏で、私に全てを許すようになるまで、そんなに時間はかからなかった。


 私は狂おしくさ寝をしながら、


「おまえは、私のいもだ。

 愛子夫いとこせと、呼んでくれっ。」


 と何回も言ったが、おみなは、


「愚かね……。」


 と、おみなつぼをたっぷりと濡らしながら、苦しそうな顔でそう言うだけだった。

 






 椿売つばきめは、私のことを、


月草つきくさきみ。」


 と呼んだ。


「なぜだ?」


 と訊くと、


月草つきくさで染めた衣は、色が綺麗な青でも、すぐ色がうつろって消えるからよ。

 あなたの、あたしへの想いなんて、すぐに移ろうわ……。」


 と憎らしいことを言うので、


「移ろわない。愛子夫いとこせとと呼べと言っているだろう。」


 と何回も言いきかせたが、椿売つばきめはその呼び方を変えなかった。




 ───あまたをさまし───


(たくさんの夜を重ねた。)




 ある夜、とうとう、兄に見つかった。

 二人とも裸で、どんな言い逃れもできようはずがなかった。


「……兄上っ。」


 衣を羽織り、膝を床につき、項垂うなだれ、どんな懲罰も頂戴する姿勢をとった私を、兄は一瞥いちべつもくれず、椿売だけを見て、蒼白な顔でこう言った。


「寝たのか。私が恋うているのは、おまえだけだと、言ったのに。

 ……どうなるか、わかって。」

「…………。」


 色を失い、震え、涙を流す椿売にそう言ったあと、兄はおもむろに、腰に佩いた剣を抜いた。


 斬られる。私は仕方ない。

 せめて、椿売は。


 ぴくりとも動けない椿売をかばい、私は、前に出た。


 刹那。

 兄は己の腹に剣を付きたてた。


「いや───! 意氣瀬おきせさまあ!」

「兄上ぇ!」


 椿売の悲鳴と、私の驚きの声のなか、ごふ、と口から血を吐き、兄は前のめりに倒れた。

 背中から、剣が突き出した。


(私は……、兄を殺してしまった……!)


 あの時、驚愕で記憶が飛んだらしい。

 気がつけば、あたりは火の海だった。

 椿売が油をまいて、蝋燭の火を倒したのだ。


「椿売っ、に、逃げよう……。」


 私は、炎の壁にはばまれた向こう側で、兄の亡骸を胸に抱く椿売にそう声をかけたが、椿売は目を剡剡えんえんと光らせながら首をふり、


「逃げないわ。月草つきくさきみだけお逃げなさい。」

「椿売っ! できない!」

「教えてあげるわ。あたしは、同時に二人のおのこうてしまった。……信じられない事よね? 愚かだわ。

 月草のように消えてしまうべき恋心だと、わかっていながら。

 月草の君。恋うてるわ。

 ……もう、生きていられない。」

「椿売! こちらへ!」

「さよなら。」


 椿売は兄の身体を引きずりながら、逆巻く業火ごうかのさらに奥へと向かっていった。

 と、背後、火の粉が散る妻戸つまと(入り口)から、突然、


意氣瀬おきせさまあ───!!」


 若い女官が一人狂ったように叫びながら走りこんできて、さっと炎に身を躍らせた。


「ああ……!」


 止める間もなかった。

 女官は、全身焔に焼かれ、ぎゃぃ、と断末魔をあげつつ、まだ、誰かを探すように、炎の奥に進もうとする。


 あまりのことに、頭がジンジンと痺れたようになった。


 私は、椿売つばきめを追ってあの炎へ行こう、そう思ったのに、いきなり走り込んできたおみなに先をこされ、その女が燃えるさまを見させられ、しばし呆然としてしまった。


「駄目よ、久君美良くくみら───!」


 とまた若い女官が駆け込んできて、


「うう……! うああ……!」


 と炎のなか、焦げて倒れた人影を見て呻いた。


 ……私は、炎に魅入られたように、ふらふらと、炎に足を一歩踏み出す……。


「広瀬さま、いけません! 逃げましょう!」


 と、若い女官がぐいと私の袖をひき、外に連れ出そうとした。

 私はかまわず、炎へと足を進め……、


「しっかりしてっ!」


 その女官は泣きながら私の頬を打った。バチン、強く音が響いた。


「うっ!」


 頬で弾けた痛みに声がもれ、その声は呼び水となり、


「死なせてくれぇっ!」


 私の心を叫ばさせた。


「お許しを!」


 後ろからおのこの声がし、後ろ首をしたたか打たれた。






 ……炎のなか、救いに駆けつけた八十敷やそしきが、私の気を失わせ、肩に担ぎ上げ、命からがら、私を燃える屋敷から運び出したのだと、後から知った。






 私の身体は命を永らえた。


 だが、心は……。


 あの炎のなかで、焼かれ、失われたままだ。


 私の恋心は、今も、黄泉で、椿売と共にある。

 おそらく、兄上の魂と一緒にいるであろう椿売に、寄り添い、すがり続けている。

 それが、私の罰だ……。

 とうとう、椿売の心を独り占めすることは、叶わなかったのだから。



 もう、その後は、どんなおみなと過ごしていても、砂を抱くように味気ない。


 しょうがない。


 上毛野君かみつけののきみの務めとして、跡継ぎは作った。


 それ以上のことは、私に求めないでほしい……。


 上毛野君かみつけののきみの繁栄を願う。

 その信念だけが、私をうつに繋ぎ止めている。


「いつになったら、会える? 椿売……?」


 剡剡えんえんと輝く瞳を、忘れたことはない。

 私は、いつでも、おまえに会いたい。


 おまえは、私の、たった一人のいもなのだから。


 そう思ってしまうのは、しょうがない事だ。




(愚かね……。)

(月草の君。恋うているわ。)




 心のなかで、幻のいもが微笑む。


 まだ、遠き地で会えるのは、先のことらしい。


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